高見君権右衛門墓碣銘 その3
書き下し文と解釈
勁果にして、能く断ず。事論紛然、百人弁じ難して、君輙ち一言これを決す。<毎に多く> | 断固として、うまく決断する。様々な議論が入り乱れ、百人の意見が入り乱れても、君はたやすく一言でこれを決断してしまう。 |
公の意に符す故を以て、眷寵日に隆して、君も亦身を忘れ、公に殉づ。<嘗て> | 諦了公の考えることと合致することがことに多く、寵愛を受けるようになり、君も又わが身を忘れ渾身的な働きを試みようと努力された。 |
暇を賜て家に帰る、僅に十余日。 公の疾(しつ=病)有を聞て、晨夜(深夜)に馳て東(ひがし)す。 <公も> | 以前、暇を戴いて家に帰るのが、わずか十日程であった。諦了公が病気になったと聞けば、深夜にはせ参じた。 |
亦預め君之必ず馳至らんを言ふ、其の契合する所多く此に類す。<六年十月> | 諦了公もまた、君が必ずはせ参じるだろうと予言する。これが一致することが多く、少なくとも、この類いである。 |
公江戸に薨(こう)す。君遺命を奉め、 霊柩を護し帰る。大雪路塞(ふさぐ)るに遇(あ)ふ。 | 天保六年十月、諦了公江戸でお亡くなりになる。君は生前の諦了公の命令に従い、 霊柩をお守りして熊本に帰った。大雪によって道中が塞がれることがあった。 |
君勤苦(きんく)晝(昼)夜、挺進(ていしん)し、行を啓(ひら)く、終に能く事を襄(のぼ)る。明年命して江戸に赴(おもむき)しむ | 君は非常に苦労して、昼夜先んじて進み、行く路を切り開き、ついにうまく事を運んだ。翌年、江戸に向かうよう命じられ、赴いた。 |
今、公召し見て親労温論す。 先公の遣物を賜ふこと、差な有り、既に<加> | 今、斉護公は君を呼び寄せて親しく苦労を温くさとした。 先きの諦了公の遣物を戴いたことも、もっともなことだ。既に |
禄百石を加へ賜ふ。是時 公既に 世子を立つ。宣く保傳の任に在る者を論するに、 | 加禄として百石を戴いた。この時には、斉護公は既に世継ぎを立てていた。世継ぎの伝承を守る任務を遂行するのは誰が適当かと論するに、 |
一口メモ
諦了公のご霊柩を国許までお届けする事について、九代の系図(19行目)には次の様に記載されています。
「天保六年十一月朔日 少将様御遺骸御國許江被遊御下候ニ付、御供被 仰付旨、監物殿ゟ口達書被相渡候。右同日 落髪被 仰付旨、監物殿被申達候」
又、十代も途中から、このお供に加わっていますが、その状況について、系図(十代2行目)には次の様に記載されています。
「同十一月七日 諦了院様御不例ニ而伺御機嫌惣代として、同九日御國許被差立、中之日積りニて被 差越候處、於大坂 御逝去之段、奉承知、舞坂駅ニ而 御通棺ニ奉行逢、同駅より江戸江早打ニ而被差越。同日同所出立。同廿二日江戸着、伺御機嫌之惣代、之御使者相勤。同廿四日、江戸被差立。同十二月朔日大蔵谷駅ニ而、 御尊骸ニ奉追付、同所ゟ中之日積りニ而、被差越即喜、同所出立。同十二日御國許着。同十八日、御尊骸 為御迎送、南関迄被 差越、同廿日御供ニ而熊本着」
九代は、髪を剃って、厳かに遺骸のお供をしました。一方、養子の十代は熊本で休息をしていましたが、諦了公の病気見舞いの惣代として江戸に向かい、途中大坂で諦了公の御逝去を知り、舞阪でお通し槍の奉行に出会い、これは大変だと、そこから馬による早駆けで江戸に向かい、到着の二日後には一行を追いかけ出発、兵庫県明石市の西国街道大蔵谷で、ようやく一行に追いついたことが生々しく記載されています。江戸から大蔵谷まで、わずか7日間の早駆けでしたが、早駕籠か、早馬かは判りません。