肥後先哲偉蹟原稿 その2
くずし字解読
其砌須佐美方嫁ニ而居たりし人の咄を、後年直(ひた)と聞きたり、 | その砌(みぎり=折り)須佐美家の嫁でいた人の話を、後年になって直々に聞きました、 |
如何なる値遇なりしや、是権右衛門の一徳なるらん、同人第一之公平 | 何という値遇(ちぐ=縁あって巡り会う)なことか、これは権右衛門の徳の一つであろう、この人の第一番の公平 |
なる忠勤ハ、従来之御次風と唱し、因循固守いたし来りぬる私見 | な扱いとしての忠勤は、これまでのお次のやりかたで、因循固守(いんじゅんこしゅ=古い習慣をかたくなに守る)するという考え方 |
を破り、 若殿様御近習ニ可被召仕人物、期る政府重鎮中選 | を破り、 若殿様の近習としてふさわしい人物、期る(きする=そうなることを予定する)政治をおこなう重要な人の中から選(挙) |
挙を仰可禮しかハ、文武堪能之壮士、或ハ御郡代等の内ゟ被選任 | (選)挙を求めれば、文武に堪能(かんのう=よく耐え忍ぶ能力)の意気盛んな男子、あるいは郡代等の中から選任 |
しかハ、実ニ白金詰ハ、斎々堂々たる風儀ニ赴、然レとも何角ト | すれば、実に白金詰ハ、斎々堂々たる風習に向かって行く、しかしながら何かと |
議論多ク、殊之外繁劇ニ移りぬるに、権右衛門少しも不退屈、 | 議論が多くなり、格別多忙になるのに、権右衛門は少しも時間をもてあそぶ様なことはなく、 |
一統抑揚筋厚ク心を用、夜も御小屋ニ於て、談合等時を移し、 | まとめて治め抑揚を込めて熱心に、夜も小屋の中で、談合等で時間をかけ、 |
元来酒徒ニ而半日も不呑間無之、於御殿も権右衛門可服用酒ハ、 | 元々酒が好きで半日も呑まずにいることはなく、お殿様も権右衛門が飲む酒は、 |
御臺所ゟ出し候へと、御内命も被下たる哉ニ伝聞セリ、縦令 | 台所から出しなさいと、内々の命令も下されたと伝え聞いている、縦令(たとい) |
終夜長飲しても、其儘出仕致し、公務ニかゝるや、何の差障 | 終夜長飲しても、そのまま出勤して、仕事に取り掛かると、何の支障 |
一口メモ
前頁で当家九代武久の妻「みち」に触れていますが、この利発さについて系図に下記のような記述が朱書されています。
天保11年(1840)2月4日 高見権右衛門の妻
右は家内のことは熟知しており、夫に対する忠誠の勤めは数年の留守中での世話に関しても行き届き、召し仕えの者達に対しても慈愛をもって接する様子は、委達(こと細かに行き届き)尊徳奇特(徳をうやまう姿がすぐれている)の手本として思し召され、この際一戸(一家の戸籍)として記録しておくよう命じられた。
右その月の用人永田内蔵次(150石)におゐくがこの書附を渡した。
上記の内容からすると、記録するよう命じられたのは、時の藩主十代の細川斉護公(泰厳院様)と思われます。
又、舅の須佐美素雄は、眞藤國雄氏の「肥後細川藩・拾遣」によれば次の様に記載されています。
九郎兵衛(素雄) 大組附 五百石 川尻御町奉行
寛政元年三月(大組附)~寛政五年四月 川尻町奉行
寛政五年一月~寛政十年九月 中小姓頭
寛政七年一月素雄ト改名
寛政十年七月~寛政十二年九月 小姓頭
文化五年十月~文化八年八月 小姓頭
須佐美素雄 肥後藩に仕へ、小姓頭及び中小姓頭を勤む。禄五百石、頗る豪邁の士なり。
文政三年六月七日没す。享年五十六。墓は中尾本妙寺中浄明院。