肥後先哲偉蹟原稿 その1

熊本大学附属図書館所蔵 高見文書 #1007

くずし字解読

一 高見権右衛門儀和田庄五郎<母方苗家高見を唱改名権右衛門ト>九代目ニ而、大組附踏出御使番、一 高見権右衛門は和田庄五郎<母方の苗字である高見と改名、名前は権右衛門と言う>九代目にして、大組附の踏出(ふみだし=新たに職に就く)使番、
長崎御留守居兼勤、其後御中小姓頭、御用人、江戸白金邸引除、長崎奉行への留守居を兼勤、その後は中小姓頭、用人、江戸中屋敷の白金邸の引除(いんじょ=待機)を勤める、
諦了院様御逝去後、直ニ白金隅御部屋ニおゐて、諦了院様が逝去された後、直ちに白金邸の隅の部屋で、
泰樹院様江御附、御同方様御嫡子様御定後、御護役、千五百石高、<御足高六百石>泰樹院様へお付きになり、このお方様が嫡子様として定めた後、正式なお護役となる、禄高は千五百石高、但し足高は六百石。
御留守居大頭同列被仰付、英邁剛毅成性質ニ而、既ニ天保六年之比、留守居の大頭と同等の待遇を命じられる、英邁剛毅(えいまいごうき=特別に才知がすぐれて、意志が堅くて強く、くじけない)の性格で、既に天保6年(1835)のころ、
白金御近習一手を、銘々評したる発句ニも、毒ハ毒薬ハ薬真白金中屋敷の近習達を、それぞれ評した言葉にも、「毒は毒、薬は薬、真(蛇哉)」(毒も薬も使いようで、どうにでもなる。毒と薬の見極めは厳しく判定しなければならない。
蛇哉と附しハ、則此権右衛門事也、妻ハ須佐美素雄娘ニ而、才発之(蛇哉)と付けたの、はまさしくこの権右衛門の事です。妻は須佐美素雄の娘で、賢いとの
唱アリ、舅素雄力量有りと雖、至而気六ヶ敷仁躰ニ而、稍もすれハ唱(となえ=風評)があり、舅の素雄は力量があるとはいえ、いたって気難しい性格で、稍(やや)もすれば、
癇積起り、御役をも度々辞す、勃興之砌、孰(いずれ)茂侘言(あだごと)之手段盡果、癇積(かんしゃく=ちょっとしたことにも激しく怒り出す)が起り、仕事でも度々やめてしまう、この悪い癖がひとたび興ると、いずれも侘言(わびごと=思い煩う事柄)の手段が尽き果て、
唯々困入候折<内諾ゟ使して>、聟権右衛門へ尋問之儀、俄ニ乞遣せは、桜井丁之宅ゟ藪之内本当に困ってしまう時<内々に承諾を得て>、娘婿の権右衛門へ尋ねることについては、出し抜けに願い出ると、桜井町の家より藪の中から
来り、素雄宅定口ゟ権右衛門ト名乗れハ、夫レ聟との見えし迚、来て、素雄宅の入り口から権右衛門と名乗れば、それ聟殿がきたとて見えたと、
素雄気色打変り、快々たる躰ニ至る事度々なりしと、素雄は気色がすっかり変わり、機嫌良くなることは度々であったと、

一口メモ

「肥後先哲偉蹟」とは、1911年(明治44年)に武藤巖男編の書籍で東京隆文館から出版されました。序文には次の通り、当家十二代高見祖厚(称号広川)が序文を寄せています。このことから、上記の原稿は当家12代が起筆したものと考えられます。

肥後先哲偉蹟序文

これは武藤巖男氏が著わした文で、元禄享保のころから近代までの人々が、君子に仕え、親に仕えるテーマの詩歌や文章や、国益につながった功労者が埋没されてしまうことを嘆き、切なる思いから多くの年月をかけて、このような形で、まとめたものである。

そもそも亡き人の功績を世に伝えるばかりか、現在に至って見る人さえ、いにしえをしのぶ道しるべとなって、実に実に有益な文章ではある。このごろ、自らも書物をする身であるので、世に問うことができるが、その真心を切に喜び一言を記して、千年の後も、いにしえを偲ぶ友人と、血の交わりを残したく思い一言を記す。  

うれしくもかきとめしかななき人のいさをは君かいさをなりけり
かきとめし筆の林にさく花は千とせの春もちる世あらめや

高見廣川

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