在勤拝領之品付(九代武久) その15

熊本大学附属図書館所蔵 高見文書 #3012

くずし字解読

同年正月十四日            天保9年(1838)1月14日 兼々しっかり働き、長時間の詰めをもした後で、明日出発をするという事で、太守様(熊本藩十代藩主細川斉護公)から戴けるとの旨を龍ノ口の次の間で、山崎太郎左衛門が申達された。
一 葉桜御紋附縮緬袷御羽織 一一 葉桜の紋付きで縮緬の袷せ羽織、を一つ。
一 御野袴         一具一 野袴(のばかま=旅行に着用する袴)、を一揃い。
一 嶋(縞)縮緬      一反一 縞の縮緬、を一反。
一 御猪口         一一 おちょこ、を一つ。
同年六月四日天保9年(1838)6月4日 兼々しっかり働いたので、蓮性院様の御前で戴いた。
一 裏葵御紋附嶋(縞)御帷子 一一 裏葵の紋付きで縞の帷子、を一つ。
一 晒           一反一 晒(さらし)、を一反。
同年六月廿八日天保9年(1838)6月28日 御前様(太守様)から戴いた。
一 御盃          一一 盃、を一つ。
同年十一月廿二日天保9年(1838)11月22日 蓮性院様の御前で戴いた。
一 裏葵御紋附縮緬御小袖  一一 裏葵の紋付きで縮緬の小袖、を一つ。
同年十一月廿九日天保9年(1838)11月29日 蓮性院様の御前で戴いた。
一 御吸物椀御膳共ニ   五人前一 お吸物のお椀とお膳をセットで、五人前
同年十二月廿一日天保9年(1838)12月21日 若殿様の御前で戴いた。
一 嶋(縞)縮緬     一反一 縞の縮緬、を一反。
一 黒御帯地       一筋一 黒の帯地、を一筋。
一 御扇子        弐本一 扇子、を2本。
同年十二月廿七日天保9年(1838)12月27日 兼々ご用の準備を具合よくまとめていたところ、十分な気配りをし、万事格別な骨折をしたので、太守様から内々に戴けるという旨を近習のお次の組脇の奉札で江戸に向かっている道中で戴いた。
一 御紋附薄御上下    一具一 紋付きの薄裃、を一揃い。
一 ニ桐御紋附羽二重御小袖 一一 ニ桐の紋付きで羽二重の小袖、を一つ。
天保十年四月七日天保10年(1839)4月7日 今年は若殿様の結婚についても、お役を仰せ付けられるので、太守様から内々に戴いた。
一 御紋附晒御帷子     一一 紋付きの晒の帷子、を一つ。
同年十二月朔日天保10年(1839)12月1日 蓮性院様の御前で戴いた。
一 裏葵御紋附縮緬御小袖  一一 裏葵の紋付きで縮緬の小袖、を一つ。
同年十二月廿一日天保10年(1839)12月21日 太守様の次の間にて戴いた。
一 表桜御紋附縮緬綿入御羽織 一一 表桜の紋付きで縮緬の綿入の羽織、を一つ。
一 葉桜御紋附薄継御上下   一一 葉桜御の紋付きで薄継の裃、を一つ。
一 上田嶋(縞)御単     一一 上田縞の単、を一つ。

一口メモ

当家九代は、諦了院様の御尊骸のお供で熊本に帰国して以来3年ぶりに休息のための帰国をしましたが、この折には太守様(熊本藩十代藩主斉護公)や蓮性院様(同九代藩主斉樹公の正室)、若殿様(太守様の嫡男)から色々と賜り物を戴きました。

帰国迄の日数は30日かかりました。熊本滞在は75日間で、天保9年(1838)閏4月1日熊本を出発、小倉経由で40日をかけて江戸の白金中屋敷に到着しています。従って江戸を離れていた期間は5ヶ月弱の145日となります。

熊本と江戸の間のルートは、通常小倉経由西国街道と鶴崎(大分市)経由で、瀬戸内海の船旅で神戸に着き、そこから西国街道・東海道のルートが考えられます。当時の瀬戸内の海運は重要なルートで、熊本藩は独自の船を所持しており、参勤交代などに利用されていたようです。これを使っても、その旅程は22日~55日かかったようです。この大きな差は天候による影響によるとのことです。

ちなみに、諦了院様の御尊骸は、43日かかって帰国されました。

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