江崎彦左衛門先祖 その10
くずし字解読
御抱継之砌自願之処御相撲改野原新蔵を半之充 | (小坂半之充の)世襲が決まった折に、自ら願い出て、相撲出身の野原新蔵を半之充の |
組ニ被召加段被仰渡候得共御断申上候ニ付二代彦左衛門 | 組に加えられるよう命じられましたが、断られたために、二代の彦左衛門 |
儀先祖彦左衛門儀被召加候趣并阿部御つぶし之 | は、初代の彦左衛門が召し加えられたように、又、阿部兄弟誅伐の |
節於彼場所心操之御奉公仕候段先祖頭高見 | 時に、その場所でご奉公する心構えをしたことを、先祖彦左衛門の頭である高見 |
権右衛門ゟ跡役鎌源太夫小林半大夫へい才 | 権右衛門より、後役の鎌源太夫、小林半大夫へ委細を |
申継被置候趣半太夫方より被相違候處彦左衛門儀 | 申し継がれた趣旨について、半太夫方から、間違っていると指摘され、彦左衛門は |
御側足軽ニ被召加相勤申候已下写之 | お側の足軽に召し加えられ勤めました。以下これを写しました。 |
嘉永二年酉二月写之置候事 | 嘉永二年酉(1848)2月これを写しました。 |
一口メモ
今回で、江崎彦左衛門先祖のシリーズを終了しますが、現代語訳については難解な部分があり、正しく訳されていない部分もありますので、是非皆様からご指摘いただくようお願い致します。
顧みますと、江崎彦左衛門が当家の御側足軽として召し加えられたのは、寛永14年(1637年)でしたが、その時当家二代は28才で、側者頭を務めていました。その6年後に阿部兄弟誅伐事件が起こり、江崎彦左衛門が大活躍をしました。本文書には江崎彦左衛門のニ代目までの記述がありますが、実際には当家十代の武棟の代まで、確実に譜代として世襲されてきているのが読み取れます。ここでは江崎九郎兵衛として紹介されていますが、この文書が書かれたのは1848年ですので、200年以上世襲されてきたことになります。先祖の江崎彦左衛門は、当家三代まで41年間も長きにわたりお勤めされました。
尚、この文書の解読に当たりましては、Facebookのグループ「古文書が読みたい!」のメンバーの皆様のご協力を戴きました。ここに改めて御礼を申し上げます。