江崎彦左衛門先祖 その9
くずし字解読
ニ見届候段 御直ニ被申上候由ニて其後歩御使番 | に見届けることを直ちに申し上げた由で、その後は歩使番(かちつかいばん=下級の使番) |
ニ被召直候先祖儀茂年罷寄組並御断申上候処 | に任命されました。先祖も年をとってきたので、寄組並にしていただきたくお断りを申し上げたが、 |
被成御免稲葉内記様上番被仰付候其砌組々御抱 | 解任され、稲葉内記の当番勤務を命じられました。その折に、各組のお抱え |
継ハ早速不被仰付候処其節之頭牧五左衛門方ゟ | 継ぎ(一代雇用を引き継ぐこと)は、早速命じられなかったところ、その折の頭である牧五左衛門から |
右之趣被相述候処先祖僅斗之訳ニ被對倅江崎 | この趣旨を話されたところ、先祖の江崎彦左衛門は僅かな理由を付けて、息子の江崎 |
市右衛門次男江崎甚兵衛三男江崎三助儀追々 | 市右衛門、次男の江崎甚兵衛、三男の江崎三助は、間を開けて次々に、 |
御側足軽被召加候得共何レも無程病死仕候 | お側の足軽に召し加えられたが、いずれもしばらくして病死されました。 |
先祖儀御奉公都合四十一年相勤申候処延宝 | 先祖の江崎彦左衛門のご奉公は合計41年にも勤めましたが、延宝 |
六年午四月三日病死仕候事 | 六年午(うま)年(1678年)4月3日に病死されたとのことです。 |
一 二代江崎彦左衛門儀延宝七年小坂半之允組御側足軽 | 一 二代目の江崎彦左衛門は、延宝七年(1679年)小坂半之允組のお側足軽 |
一口メモ
このシリーズで取り上げられている足軽について考察をしてみますが、一般的に足軽は江戸幕府直轄、細川藩直轄の足軽と、藩士直属の足軽とに分類されます。ここに登場する江崎彦左衛門をはじめとする足軽は、藩士直属の足軽です。彼らの収入は当時の二代の石高521石4斗の60%の300石強から支払われることになります。
この頁だけでも、その役職は、歩使番、寄組、上番、お側足軽などが揚げられていますが、その意味は充分に掌握しているわけではありませんが、少なくとも「歩使番」は、「馬に乗る事が出来ない使番」、「寄組」は「年寄り組」、「上番」は「当番勤務」、ということが何となく理解できます。
「御側足軽」はお殿様のお役に立てるため、派遣される足軽で、最も重要な役職と想像する事が出来ます。
更に、「抱継」という言葉が出てきますが、これは一般的に足軽自体は、一代限りの雇用ですが、今回は全て「抱継」として子孫等に世襲されていることから、これらの足軽に対しては、大きな尊敬と期待の念をもって接していたことが窺えます。