江崎彦左衛門先祖 その9

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3020

くずし字解読

ニ見届候段  御直ニ被申上候由ニて其後歩御使番に見届けることを直ちに申し上げた由で、その後は歩使番(かちつかいばん=下級の使番)
ニ被召直候先祖儀茂年罷寄組並御断申上候処に任命されました。先祖も年をとってきたので、寄組並にしていただきたくお断りを申し上げたが、
被成御免稲葉内記様上番被仰付候其砌組々御抱解任され、稲葉内記の当番勤務を命じられました。その折に、各組のお抱え
継ハ早速不被仰付候処其節之頭牧五左衛門方ゟ継ぎ(一代雇用を引き継ぐこと)は、早速命じられなかったところ、その折の頭である牧五左衛門から
右之趣被相述候処先祖僅斗之訳ニ被對倅江崎この趣旨を話されたところ、先祖の江崎彦左衛門は僅かな理由を付けて、息子の江崎
市右衛門次男江崎甚兵衛三男江崎三助儀追々市右衛門、次男の江崎甚兵衛、三男の江崎三助は、間を開けて次々に、
御側足軽被召加候得共何レも無程病死仕候お側の足軽に召し加えられたが、いずれもしばらくして病死されました。
先祖儀御奉公都合四十一年相勤申候処延宝先祖の江崎彦左衛門のご奉公は合計41年にも勤めましたが、延宝
六年午四月三日病死仕候事六年午(うま)年(1678年)4月3日に病死されたとのことです。
一 二代江崎彦左衛門儀延宝七年小坂半之允組御側足軽一 二代目の江崎彦左衛門は、延宝七年(1679年)小坂半之允組のお側足軽

一口メモ

このシリーズで取り上げられている足軽について考察をしてみますが、一般的に足軽は江戸幕府直轄、細川藩直轄の足軽と、藩士直属の足軽とに分類されます。ここに登場する江崎彦左衛門をはじめとする足軽は、藩士直属の足軽です。彼らの収入は当時の二代の石高521石4斗の60%の300石強から支払われることになります。

この頁だけでも、その役職は、歩使番、寄組、上番、お側足軽などが揚げられていますが、その意味は充分に掌握しているわけではありませんが、少なくとも「歩使番」は、「馬に乗る事が出来ない使番」、「寄組」は「年寄り組」、「上番」は「当番勤務」、ということが何となく理解できます。

「御側足軽」はお殿様のお役に立てるため、派遣される足軽で、最も重要な役職と想像する事が出来ます。

更に、「抱継」という言葉が出てきますが、これは一般的に足軽自体は、一代限りの雇用ですが、今回は全て「抱継」として子孫等に世襲されていることから、これらの足軽に対しては、大きな尊敬と期待の念をもって接していたことが窺えます。

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