江崎彦左衛門先祖 その8
くずし字解読
右四通之覚書被仰付高見権右衛門方ゟ | この4の覚書は高見権右衛門の方から(提出するように)と命じられ、 |
御前へ被差上候処達 | お殿様へ差し上げたところ、 |
尊徳重而御詮議可被仰付旨ニ而何とも何之被仰渡 | これは世間一般に尊ばれる重要なもので、評議して明らかにされるべき、と言うことでしたが、何も言い渡される |
之趣も無御座候都甲新右衛門儀ハ右討死仕候 | 様なことはありませんでした。都甲新右衛門は、右の通り討死された |
市川太郎兵衛跡小頭被仰付候得共常々痛所 | 市川太郎兵の後を継ぐ小頭を命じられましたが、常々体調が思わしくなかった |
御座候而組並御断申上候可処被成御免稲葉内記様 | ので、組に入るのを断ろうとしたところ、役職が解かれ、稲葉内記様 |
上番被仰付候先祖儀新右衛門跡小頭被仰付候尤 | の当番勤務を命じられました。先祖新右衛門の跡継ぎは小頭を命じられ、もっとも、 |
追而ハ如何様共被仰付筋も有之趣ニ候得共先今度 | その後については、どのようにでも命じられる可能性があるとは言え、今度 |
之趣ニ付小頭被仰付旨権右衛門被申渡候新右衛門儀 | の趣旨である小頭を命じられる旨を、権右衛門が申し渡されました。新右衛門 |
者常々阮西堂存知之者ニて其物之様子敵方 | は、常々阮西堂を知っていたので、その人の様子を敵方に |
一口メモ
文中に稲葉内記様とありますが、この人物のについて、眞藤國雄先生のブログに次の様に紹介されています。
春日局の子・稲葉正利については春日局の意向もあって遠縁にあたる細川家を配流先に頼んだとも言われる。寛永十三年細川家に預けられたが(39歳)、奇行が多くてこずらせている。藩士・松下市之進が縁戚の故を持ってせわをした。側にあった女子に子・三内を成させたが亡くなっている。
また、阮西堂につても次の様な記述があります。
阮西堂は松井二平次の二男、京都東福寺不二庵に住、島原の陣においては光利(光尚)に近侍軍議にも参加している。沢村大学養嗣子沢村宇右衛門の兄で当時は沢村阮与斎と名乗っていた。「武勇を好ミ、仕物なと有時ハ罷出せわいたし候由、此時も朱さやの大脇差ニ而諸方ニ御使なとも勤候也」