江崎彦左衛門先祖 その3
くずし字解読
仰渡候ニ付右権右衛門組へ被召抱度段和田主膳 | 命じられたので、この権右衛門の組に召し抱えられたいとの事を、和田主膳(八百石 真源院様御代御侍免撫帳) |
方を以図書方ニ被申入候処右彦左衛門儀御側 | によって、図書方として家来にするよう申し入れがあり、この彦左衛門はお側 |
足軽組奈と尓ハ差出申間敷者之儀ニは候得とも | 足軽組などには差し出すべきではないと言うことでしたが、 |
其節迄ハ御側足軽迄ハ歩御小姓並ニ御印を | その時まで、お側の足軽になる迄は、小姓並として通告を |
被為頂戴儀ニ御座候其上彦左衛門儀直々御奉 | 頂くことになりました。その上で、彦左衛門は直節、ご奉 |
公奉願居候段図書方より主膳方へ被申越候ニ付被任 | 公できるよう願い出ることを図書方から主膳方へ申し出る、ということで任せられ、 |
其意高見権右衛門組御側足軽ニ被召加候事 | その意味で、高見権右衛門組のお側足軽に召し加えられたと言うことです。 |
一 寛永廿年未二月廿一日阿部権兵衛弟以上四人 | 一 1643年ひつじ年2月21日、阿部権兵衛弟達4人 |
御津ぶしニ成候を竹内数馬高見権右衛門組共ニ | を、誅伐にする時に、竹内数馬や高見権右衛門達の組に |
被仰付候栖本又七郎も被罷越候左候而権兵衛隣 | 入るよう命令され、栖本又七郎も参加して、権兵衛屋敷の隣 |
一口メモ
この頁では、江崎彦左衛門が、二代の足軽として初めて採用された経緯が書かれています。以後十代まで、その主従関係が継続された事が読み取れます。
主従関係が成立して6年目に誅伐事件が発生、二人揃って戦に加わった事になります。