江崎彦左衛門先祖 その2

 熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3020

くずし字解読

嘉永元年十一月宮川金右衛門觸組ニて致病死候1848年11月、宮川金右衛門の触組(ふれぐみ=伝達のための組織)役のときに病死しました。
江崎九郎兵衛先祖附之写江崎九郎兵衛の先祖附(せんぞづけ=細川藩独自の制度で家歴)の写しです。
右者阿部兄弟仕物被仰付候節之次第も右に書かれている者は、阿部兄弟誅伐の仕事を命じられた時の経緯も
書顕し有之候ニ付写置候事 江崎九郎兵衛書かれてあったので、書き写しておきました。 江崎九郎兵衛
一 先祖江崎彦左衛門儀筑後柳川之者ニ而一 先祖の江崎彦左衛門は筑後の柳川出身で、
御家を望御國へ罷越候処嶋原御陣之砌藪細川家で働くことを希望し、熊本へ来たところ、嶋原の乱の時、沢山の
図書手ニ就罷越於彼地手首尾有之者之由図書を手に携え、やってきた人物で、筑後では首尾良く働いたとのことで、
御側御弓頭高見権右衛門被聞及於原之城御側の弓頭である、高見権右衛門(二代)が、そのことを聞き及び、原の城で、
御意有之軽キ浪人等召抱候様ニと頭々江被お殿様からのご意向で、身分の軽い浪人を召し抱えるようにと、それぞれの長に、

一口メモ

この文書は、家来と思われる江崎九郎兵衛が亡くなった翌年に書かれており、この死を契機に、九郎兵衛の先祖である江崎彦左衛門の活躍をたたえる意味で、その功績を綴ったものと思われます。

当家二代の権右衛門重政は、28才の時に島原の合戦の折に、細川忠利公のお供で活躍をしましたが、ここで初めて江崎彦左衛門と面会することになります。

尚、文中に「藪図書」と、ありますが、そもそも「藪」という言葉は、物事の集まりという意味のようで、藪蕎麦は色々な種類のそば、藪医者は野巫(やぶ=まじないを用いる医者)から転じたものとのことです。ここでは、沢山の本、または色々の種類の本と解しています。

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