江崎彦左衛門先祖 その2
くずし字解読
嘉永元年十一月宮川金右衛門觸組ニて致病死候 | 1848年11月、宮川金右衛門の触組(ふれぐみ=伝達のための組織)役のときに病死しました。 |
江崎九郎兵衛先祖附之写 | 江崎九郎兵衛の先祖附(せんぞづけ=細川藩独自の制度で家歴)の写しです。 |
右者阿部兄弟仕物被仰付候節之次第も | 右に書かれている者は、阿部兄弟誅伐の仕事を命じられた時の経緯も |
書顕し有之候ニ付写置候事 江崎九郎兵衛 | 書かれてあったので、書き写しておきました。 江崎九郎兵衛 |
一 先祖江崎彦左衛門儀筑後柳川之者ニ而 | 一 先祖の江崎彦左衛門は筑後の柳川出身で、 |
御家を望御國へ罷越候処嶋原御陣之砌藪 | 細川家で働くことを希望し、熊本へ来たところ、嶋原の乱の時、沢山の |
図書手ニ就罷越於彼地手首尾有之者之由 | 図書を手に携え、やってきた人物で、筑後では首尾良く働いたとのことで、 |
御側御弓頭高見権右衛門被聞及於原之城 | 御側の弓頭である、高見権右衛門(二代)が、そのことを聞き及び、原の城で、 |
御意有之軽キ浪人等召抱候様ニと頭々江被 | お殿様からのご意向で、身分の軽い浪人を召し抱えるようにと、それぞれの長に、 |
一口メモ
この文書は、家来と思われる江崎九郎兵衛が亡くなった翌年に書かれており、この死を契機に、九郎兵衛の先祖である江崎彦左衛門の活躍をたたえる意味で、その功績を綴ったものと思われます。
当家二代の権右衛門重政は、28才の時に島原の合戦の折に、細川忠利公のお供で活躍をしましたが、ここで初めて江崎彦左衛門と面会することになります。
尚、文中に「藪図書」と、ありますが、そもそも「藪」という言葉は、物事の集まりという意味のようで、藪蕎麦は色々な種類のそば、藪医者は野巫(やぶ=まじないを用いる医者)から転じたものとのことです。ここでは、沢山の本、または色々の種類の本と解しています。