先祖の覚 高見市平 その2

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1003

くずし字解読

御隠居被遊候以後 妙解院様御側ニご隠居なされ、その後は妙解院様(細川忠利公のお側に
被召仕寛永三年四月御知行百石お仕えになり、寛永3年(1626年)4月に、知行を百石
御加増都合二百石被為拝領御側加増され、合計2百石を拝領、御側
物頭被 仰附候同七年正月御知行百五物頭を仰せ付けられました。寛永7年(1630年)正月に知行150
拾石御加増被 仰附同十一年十二月石を加増を仰せ付けられ、寛永11年(1634年)12月には
御知行百七拾壱石四斗御加増被為知行171石4斗を、加増なされ、
拝領之候これを拝領されました。
一 肥前嶋原一揆蜂起の刻一 肥前の国の嶋原一揆が蜂起した折、
妙解院様御供仕御在陣中相勤申候妙解院様のお供をして陣中に身を置き勤めました。
一 寛永廿年二月阿部権兵衛兄弟共御討一 寛永20年(1643年)2月に阿部権兵衛兄弟達を討ち
果世被成候節被 仰附相勤申候果しなされた時に、この仕事を仰せ付けられ,そのように勤めました。
一 真源院様御代寛永廿一年七月御知行一 真源院様(細川光尚公)の代に寛永21年(1644年)7月に、知行

一口メモ

この頁は、忠興公が隠居をなされた後、当家ニ代の高見権右衛門重政は、忠利公にお仕えし、更に光尚公にお仕えしました。

この時代は、歴史上の出来事として、島原一揆阿部誅伐事件が記述されています。これらの働きにより、ニ代重政は、着々と加増を重ねています。

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