先祖の覚 高見市平 その1
くずし字解読
先祖附并自分御奉公差出之扣 | 先祖附(せんぞづけ)並びに自分がご奉公を申し出した控え。 |
先祖已來之覚書共ニ三通 | 先祖以来の覚書、併せて3通。 |
先祖之覚 | 先祖に関する覚え書き。 |
一 私曽祖父和田庄五郎与申候於丹後 | 一 私の曽祖父(祖父の父)である和田庄五郎は丹後で、 |
三斎様被 召出御知行弐百石被為拝領候 | 三斎様(細川忠興公)によって召し出され、知行を2百石拝領なされました。 |
其後 休無様江被成御附候岐阜 | その後に休無様(細川忠興公の長男忠隆公)へお付きになりました。岐阜の |
関原御陣之御供仕相應之御奉公をも | 関が原の戦いで、お供をして、それなりのご奉公をも、 |
相勤申由候其以後 休無様加賀江 | 相い勤めたとのことです。その後は、休無様が加賀(石川県南部)へ、 |
御越之砌御供仕候高野山ニ而御法躰被 | お出かけの時は、そのお供をしました。高野山で、僧侶の姿に、 |
成候節越前中納言様江御預分ニ而居 | なられた折には、越前中納言様に、お預りの立場で居留 |
申候處中納言様就御逝去浪人仕居申候 | されたところ、中納言様がご逝去になられ、浪人の身となってしまいました。 |
慶長十六年帰参被 仰付於豊前 | 慶長16年には細川家の元に帰参するよう命じられ、豊前の国(福岡県南部)に於いて、 |
御知行五百石被為拝領御番頭ニ被 | 知行5百石を拝領なされ、番頭の職に、 |
仰付候其砌高見権右衛門与改申候元和 | 仰せ付けられました。その折に高見権右衛門と改名しました。元和 |
四年ニ病死仕候病気指重候節覚書を以間七大夫迄差上候処 | 4年に病死されました。病気がいよいよ重く差し迫った時に、覚書として間七大夫迄差し上げたところ、 |
三斉様御書入之御朱印を取得仕候 | 三斉様の御筆による御書入と御朱印を戴きました。 |
一 私祖父高見権右衛門幼少之名を猪之助与 | 一 私の祖父である高見権右衛門が幼少の頃の名を猪之助と |
申候九歳ニ而父権右衛門果申ニ付元和四年 | 言いますが、九歳で父である権右衛門が亡くなったので、元和4年(1618年) |
六月従 三斎様御知行百石被為拝領候 | 6月に三斎様から、知行百石を拝領されました。 |
一口メモ
上記の先祖に関する覚えを書いた高見市平は当家六代の高見権右衛門(幼名藤太)の弟ですので、初代から五代までがまとめられていますが、この最初の画像はニ代の途中までです。足利時代から江戸時代の初期まで、波瀾万丈の世の中を渡ってきた初代の生き様が想像されます。
初代和田勝五朗重治の祖父である和田但馬守は足利将軍義晴公に仕えていた。一方細川一族は、いわゆる両細川の乱によって足利将軍家を巻き込んだ関係で、高国派の流れを汲む忠興公は、敵対関係のあった義晴公に近い和田の名は思わしくないと判断されて、勝五郎重治の父の嫁の実家である高見の名に変更するよう命じたのではないかと考えられます。
忠興公は和田勝五朗重治に自分の嫡男の側につくよう命じられ、関ヶ原の戦いにお供し、又廃嫡の事件の折には加賀に出向いたり、高野山までお供したりしました。この関係から、忠興公は当初二百石でお抱えになり、帰参時には五百石を賜り、更に9歳、7歳の息子二人に百石づつ与えるなど厚遇されています。