初代和田勝五朗重治の先祖
くずし字解読
一 丹波國氷上郡和田之城主代々持來候由候ニて | 一 丹波の国、氷上郡の和田の城主は代々引き継いで来たとのことで、 |
和田但馬守子 | 和田但馬守の子である |
高見助之丞むこ 兵衛尉 此時まて和田城主之赤井殿身体つふれ候て乱國之時皆々 | 高見助之丞の婿である 和田兵衛尉は、この時まて和田城主であったが、赤井悪右衛門殿が滅亡して国が乱れ、皆は |
牢人也其後新九郎と申候大和大納言殿ニ居り申候 | 浪人となってしまった。その後、名前を新九郎と名乗り、大和大納言殿に仕えた。 |
子、長左衛門、半次<奥州尓て討死>、作左衛門、女子、勝五郎、由良庄兵衛 | 子供は、長左衛門、半次<奥州合戦で討死>、作左衛門、女子、勝五郎、由良庄兵衛 |
奥太夫━女子━此子、和田弥五左衛門 | 弟の奥太夫━女子━その子は、和田弥五左衛門と続く。 |
彦太夫━喜左衛門━女子 | その弟は、彦太夫━喜左衛門━女子と続く。 |
女子━女━和田小左衛門、 <此子松平新太郎殿へ居申候由。小左衛門ハ新太郎殿ニ居申候が果申し候> | その妹は、女子━女━和田小左衛門で、その子供は松平新太郎殿の所に居留した。小左衛門は新太郎殿の所に居留したが、死亡した。 |
うじ平氏のよしニて、定もんハ丸の内ニちかへ矢はず そへもん丸の内にかたはミ | 代々引き継がれる家の名は平氏(たいらうじ)のようで、定紋は丸の内に違い矢筈 添紋は丸の中にカタバミである。 |
はたのもん赤旗ニ丸ノ内ニ矢はす見へるよしニ候 | 旗の紋は赤い旗の丸の中に矢筈が描かれているとのこと。 |
かやうの事ももはや入不申候事ニ候へ共、御仕合能時のため | このような事も今となっては、確認することは出来ないが、試合などの時のために |
後ニハ、どれどれも失念ニて候ハんと存、書付遣候、あらまし 如此候 | 将来には、どれもこれも失念してしまおうと思い、書き付けにしておきます。大体このようなことです。 |
又、長左衛門子和田十左衛門寺沢兵庫殿ニ居申候其弟長四郎と申候 | 又、長左衛門の子である和田十左衛門は寺沢兵庫殿の所に居留したが、その弟は長四郎と言います。 |
作左衛門子新十郎と申候女子も壱人有之 | 作左衛門の子は新十郎という。女子も一人いました。 |
一 播州たかの郡野間ノ内荒田之城主 | 一 播磨国多可郡野間の内にある荒田城の城主です。 |
高見助之丞 是ハ右之兵衛尉しうとニて候御親父 権右衛門殿ためニハ母かたの祖父<おヽほち゛>ニて候 | 高見助之丞 この人は、右の兵衛尉の妻の父です。親父の 権右衛門殿としては、母方の祖父です。 |
大坂ニ宇野紀伊守と申候て我等おやちとのめいむこ御座候つる、其子石原四朗右衛門ハ果申候其子ハ予成候 | 大坂に宇野紀伊守と言って、自分たちの父親(権右衛門)の姪の婿でした。その子の石原四朗右衛門は死亡しましたが、その子供が私です。 |
一 和田之城主兵衛尉殿ハ貴様たちのおほぢ也但馬殿ハひおほぢのよしニ候 | 一 和田の城主である兵衛尉殿は、あなたたちの祖父です。但馬殿は曾祖父とのことです。 |
はりまのあら田の城主高見殿ハ貴様たちのひおほぢ也 | 播磨国の荒田の城主である高見殿はあなたたちの曾祖父です。 |
高見 権右衛門殿 同 少五郎殿 | 高見 権右衛門殿 (二代高見権右衛門重政) 同 少五郎殿 (二代の弟髙見少五郎重治) |
一口メモ
上記書状は、当家二代目とその弟に出状された、初代和田勝五朗重治(後高見権右衛門重治)の実家についての家系の説明ですが、その差出人は文中にあるように、石原四郎右衛門の息子ですが、詳細は不明です。いずれにしても、大変貴重な資料で、この情報は系図の冒頭にも反映されています。
尚、この文書の解読に当たりましては、Facebookのグループ「古文書が読みたい!」のメンバーの皆様のご協力を戴きました。ここに改めて御礼を申し上げます。