細川家 当家の御系図

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3001

くずし字解読

内所々之働山陰山陽道度々ノ軍功於丹後一國二あちこちで働きがあり、山陰山陽道へ度々の戦で功績を積み、丹後一國の
十五ケ城攻抜テ翌年賜丹後國信長公薨ス25の城を攻め抜いて、翌年には丹後の国を賜った。信長公が死亡した。
剃髪〆改幽齋玄旨為忠興卿家督軍忠剃髪して改幽齋玄旨為と名乗った。忠興卿の家督には、軍功に対する
感書数十通也 秀吉公深懇情任従ニ位大賞状が数十通もあった。秀吉公の親切で真心を尽くした心配りによって、従ニ位大(藏卿法印)
藤孝<母舩橋大外記 宣賢女 室沼田上野介 藤原光兼女 号香壽院>藤孝<母舩橋大外記 宣賢(清原宣賢)女 室沼田上野介 藤原光兼女 号香壽院>
蔵卿法印慶長五年丹後篭城石田方雖攻経従二位大蔵卿の称号を戴いた。慶長五年(1600年)の丹後籠城の折には、石田方の攻撃といえども一月以上
月不落于時勅定及三ケ度出城中院通勝落城せず、その間三度も城を抜け出した。中院通勝
西三条實條烏丸光廣古今傳 大神君西三条實條烏丸光廣に歌学書である古今傳を、大神君(大御神=おおみかみ)のもとで正式な儀式のうえで授けた(古今伝授)。
芳情尤厚平生武事ノ外藝才多有功他人を敬う思いやりは大変厚く、普段の武道の外に芸術に対する才能はことのほか優れている。
无私 慶長十五年八月廿日於三条第卒私そのものは、 慶長15年(1610年)8月20日京都三条の邸宅にて亡くなる。
去行年七十七歳享年77歳であった。
遺骨南禅寺 天授庵豊前小倉分蔵遺骨は、京都南禅寺の南禅寺の塔頭である「天授庵」に納め、豊前小倉に分骨した。
泰勝院徹宗玄旨大居士戒名は、泰勝院徹宗玄旨大居士。
熊千代 与一郎 越中守忠興公の改名は、熊千代 与一郎 越中守。
従五位下 従四位 従三位官位は、従五位下 従四位 従三位。
侍従 少将 宰相官職は、侍従 少将 宰相。
永禄六癸亥年十一月三日誕生 実ハ藤孝嫡子永禄6年(1563年)干支は癸亥(みずのと い)11月3日誕生。実際は藤孝公の嫡子です。
依将軍義輝公命為細川中務大輔輝経ノ将軍足利義輝公の命によって、細川中務大輔輝経
養息家督相続 織田信忠賜諱字 信長養子となり家督を相続。 織田信忠から諱(いみな)を戴く。 信長
公ノ時所々数ヶ度有軍功忠興十五歳ニ〆公の時代に、あちこちで度々軍功があり、忠興公15歳にして
感書賜ル其以後数通感書賜ル丹後一國感状を賜わった。その後も数通感状を賜った。丹後一国を
賜之丹後廿五ヶ城攻陥一國平均天正十年賜ったが、これは丹後の国にある25の城を攻め滅ぼし、国中を平定したことによる。天正10年
藤孝公ノ家督ヲ續藤孝公の家督を継いだ。
忠興<母沼田上野介 光兼女 室ハ惟任日向守 光秀女>忠興<母は沼田上野介光兼の娘 妻は惟任日向守光秀の娘(玉、後ガラシャ)>
秀吉公ノ時東國西國ノ戦朝鮮征伐至迄皆有秀吉公の時には、東國や西國の戦から朝鮮征伐に至るまで、皆
軍功賜羽柴氏戦に功績があったので、羽柴氏の名を賜る。
小野木ヲ攻亡氏ヲ改細川 御當家岐阜福山城主の小野木重勝を攻め亡し、名前を細川と改め 御當家の岐阜
関原有戦功 秀忠公ヨリ豊前國加豊後関ヶ原の戦いで戦功を納め、 徳川秀忠公より豊前の国に加え豊後
速見ノ郡ノ内都合三十万石賜之元和七年ノ速見郡の一部、都合30万石を賜ったが、これは元和七年(1621年)の(以後割愛します)

一口メモ

上記細川家の「御当家の御系譜」は、和綴じ本になっていますが、画像は表紙と最終頁に近い見開きの部分を撮影しています。

細川氏は、多くの大名の中でも鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いている希有な家とされています。傍流と呼ばれていた藤孝公、忠興公の時代に上記内容の様に、足利将軍 信長公、秀吉公、家康公に仕え、多大な功績を積み重ね、確固たる地位を築きあげてきました。

尚、この文書の解読に当たりましては、Facebookのグループ「古文書が読みたい!」のメンバーの皆様のご協力を戴きました。ここに改めて御礼を申し上げます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です