三斎樣よりの御書 3

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3007

くずし字解読

以上いじょう以上。この「以上」は手紙を書き終わった後で書かれたもののようです(花岡興史先生のご指摘です)。
為昇進之祝儀しょうしん、これ、しゅうぎのため昇進の祝いとして
百疋至来喜ひゃっぴき、とうらい、よろこび百石を知行として与えることに喜んで
入候尚坂崎清左衛門いりそうろう、なお、さかざき、せいざえもんいます。なお、坂崎清左衛門(七百石)が
可申候 謹言もうしそうろうべく きんげん申し伝えます。 つつしんで言上します。
えつこの「越」は越中守、つまり忠興公を意味します。
九月廿四日 忠利(花押)くがつ、にじゅうよっか ただおき九月二十四日 忠利公の花押
井関久馬助殿いぜき、きゅうまのすけ、どの御鉄炮頭衆 四百五十石  (肥後御入国宿割帳に寄る)

一口メモ

宛先が、井関久馬助殿とありますが、この御書が何故当家の文書として残存されたのか、当初不明でしたが、元和4年(1618)に、当家二代の猪助が家督を相続し、その時に忠興公が猪助の上司と思われる井関久馬助に対して出状されたものと推測できます。

当時猪助は9歳でしたのでこのようなっことになったものと思われます。この背景として、忠興公が初代の高見権右衛門重治に対して二代とその弟へ、それぞれ百石を与える約束をされていたので、その約束を果たす喜びを伝えられたものと思われます。

上記解説について、花岡興史先生より貴重なご指摘を戴きました。差出人は忠興公と記述しましたが、これは忠利公の間違いとのことです。文中の「越」について、小生はてっきり忠興公と思いましたが、忠利公も越中守です。又、二人の花押を調べて見ましたが、忠利公の花押はやや長目に書かれていることが判明しました。又、猪助が忠興公から知行宛行状を戴いたのは元和6年でしたので、その2年後に忠利公が家督を継承された事実からも、矛盾はないようです。謹んで訂正させて戴きます。当家の先祖も同様な誤解があったようです。

尚、この文書の解読に当たりましては、Facebookのグループ「古文書が読みたい!」のメンバーの皆様のご協力を戴きました。ここに改めて御礼を申し上げます。

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