寒山詩偈讃歌 42

和歌短冊 その4
熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #4006

196

煉盡三山鐵至今靜恬恬
三山の鐵を煉り盡(=尽)して、今に至つて靜かにして恬恬(てんてん)たり。

注) 「恬恬」とは安静の容姿。

世の人のそしるもほむもおのがなす心ひとつのものとさとらば

毀誉褒貶(きよほうへん=褒めることとけなすこと)は、他人のすること、俺はそんなこと気にしないぞという心意気で行け(武田智孝氏訳)。

197

今日審思量自家須榮造
今日審に思量すれば、自家須らく榮造すべし。
よしあしも心ひとつにあるものをよその寶を何かもとめむ

物事の良し悪しも、自分の心の中で判断すべきなのに、なぜか他にその判断を求めようとする。

198

但自心無事何處不惺惺
但だ自心無事ならば、何れの處か惺惺(せいせい=無為、無策)たらざん。

注) 「無事」とは無為、無策と同意。

音もなき香もなき月をみても知れ世界くまなくてらす光を

音もなく香もしない月を見て、その月が世界中を照らしている事実に気づきなさい。

『老子』には「道は常に無為にして、而(しか)も為(な)さざる無し。(道はいつでも作為的なことは何も為さないでいて、しかもすべてのことを為している)」というのがあるそうです。「無為」は作為的なことは何も行なわないということ。この歌では「月」が「道」で「音もなき 香もなき」が「無為(作為がない)」ということでしょう(武田智孝氏解説)。

199

無爲無事人逍遙冥快樂
無爲無事の人、逍遙として冥(まこと)に快樂なり。
いき死の身になき人はおのづから此世にありて苦も楽もなし

生や死にこだわらない人は、結果として、この世にあっても苦や楽などとは関係がない事だ。

この歌は生死を超越した悟りの境地のようで、小生のような俗人にはとうてい分かりませんが、「苦も楽もなし」というのは「心平(しんぺい)気和(心平らかに気和す)」心が落ち着いていて、争いを起こす気などまったくない、といった境地を指しているのでしょう。プーチンに教えてあげたいですね(武田智孝氏解説)。

200

欲知仙丹術身内元神是
仙丹の術を知らんと欲せば、身内の元神是れなり。

注) 「仙丹」=長生延命の薬。

雲をふみ鶴にのるともかひぞなき心の神のもとをしらずば

心の中にある神の根元を知らなければ、雲に身をゆだねたり、鶴に乗ったり(とんでもないことを)しても、その効果は現れない。才気より愚直を貴べ(武田智孝氏添削)。

一口メモ

上記短冊の俳句は件の Facebook「古文書が読みたい!」のメンバーにより、解読頂きました。

 

詞書  心種會歌人多知  ミ知子可為尓法要 を奈し多末へる乎 よろこひて

    (心種会歌人たち みちこがために法要 をなしたまへるを よろこびて)

注)この歌会の名称のいわれについて、メンバーのお一人から、古今集仮名序に「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろずのことの葉とぞなれりける」の「心の種」から名付けられたのではないかとの、ご指摘をいただきました。ご教授ありがとうございます。

手向須る人の末こと乎奈幾霊もこ計の志多尓てう禮しとやミ舞
手向する人のまことをなき霊もこけのしたにてうれしとやミむ

詞書  天盃を 給者里し越 本起まつりて

    (天盃を たまはりしを ほぎまつりて)

盃に菊のめ具美能露曽へて以多ゝく人盤千代や遍ぬら舞
盃に菊のめぐみの露そへていたゞく人は千代やへぬらむ

七十三翁 廣川

詞書  新聞紙發展を祝し天

佐可え行文能林耳咲い津留花者いく世乃春可尓本者む
さかえゆく文の林に咲いづる花はいく世の春がにほはむ

七十四翁 廣川

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