寒山詩偈讃歌 26

南隠老師 筆 掛軸上部
熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #4001

116

上為桃李徑下作蘭孫渚
上は桃李の徑を為し、下は蘭孫の渚(しょ)を作す。

注) 「」の正字は草冠が加わる。

みる人はみな立よりてめでつべしはなさく春のきよきながめは

桜の花の咲く春の、すがすがしい眺めを見る人は皆、立寄ってその美しさを味わうべきだ。

117

寄語陶朱公富與君相似
語を寄す陶朱公、富は君と相似たり。
世の為にすつるたからはあつめても身のつみとがといふ人もなし

世の中のために、投げ出してしまう財産については、これまで集めてきたことに対して、罪だと責めたり非難したりする人はいない。

118

閑自訪高僧烟山萬層層
閑(しづか)に自ら高僧を訪ふ。烟山萬層層。
たづね見る深山の月の光こそよにたぐひなき影にぞ有りける

険しい奥山に踏み分けて、見る月の光そのものは、他に類を見ない美しい景色だ。

119

四顧晴空裡白雲同鶴蜚
四顧晴空の裡、白雲鶴と蜚(と)ぶ。
はれわたる空のみどりとぶつるの色はさながら雪にまがへり

晴れ渡った青空に飛んでいる鶴の姿は、まるで雪のように見間違えてしまう。

120

不識本真性與道轉懸遠
本真の性を識らず、道と轉(うた=転)た懸遠(けんのん)なり。
月と日の
とほき光はおのが身におなし影とはたれか見るべき

月や太陽の遠くに見える光は、自分の身に降りかかる、同じ光だとは誰が見るであろうか。

一口メモ

上記掛軸の筆者である南隠老師は、祖厚禅師が出家の際に弟子入りした恩師です。

内容は、唐代の詩人胡令能(785-826年)の七言絶句の「小児垂釣」のようです。

蓬頭稚子学垂纶,側坐莓苔草映身。

路人借問遙招手,怕得魚驚不応人。

解釈は次のようです。

ぼさぼさ頭の子供が川辺で魚つりの練習をしている。莓苔の上に体を斜めにして座り込み、草で身を隠して(魚から見えないようにし)ている。

通りすがりの人が、子供を見つけて手で招き寄せて道を尋ねようとするが、魚が驚いて逃げてしまうのを恐れて、通行人の問いかけにも応えようとしない。

https://cogito.hatenablog.com/entry/2021/06/01/053438

画像には、菩薩入不二偈 南隠謹書(印:南隠)と記されています。内容は一部食い違いがありますが、これは日本人に判りやすい様に書き改めたのではないかとの説があります。

「路人」→「行人」、「借問」→「尋路」、「怕得」→「恐畏」

南隠全愚老師

1834~1904 (天保5~明治37)

天保5年、岐阜県安八郡大藪村(現 輪之内町)の庄屋渡辺家に生まれる。教養豊かな母のもとに育てられる。17歳より広瀬淡窓、次いで佐藤延陵のもとで学問を修める。

19歳。師延陵が、さる禅院の院主に、悟りとはどういうものかと問うた時、「別にかわったことはないが、お前さん達の声は咽喉から出るが、禅僧は肚から声が出る」との応答が胸に深く突きささり、以後心中穏やかならざるを覚える。

21歳。龍福寺・万寧玄象老師(隠山下 美濃派)について出家、その鉗鎚(けんつい)を受ける。 25歳、万寧老師示寂によりて、岡山・曹源寺の儀山善来老師(隠山下 備前派)に参ずる。翌年、久留米・梅林寺に転錫、羅山元麿老師(卓州下)の爐鞴(ろはい)に入る。

精錬苦修すること8年、遂にその印記を受ける(33歳)。36歳。丸亀(香川県)・玄要寺に住する。 まもなく寺務を弟子に託して、自身は伊深(岐阜県美濃加茂市)・正眼寺の雷雪潭(かみなりせったん)こと雪潭紹璞老師に通参、悟後の修行に余念がなかった。このとき土地の観音堂に菰を着て起居し、ニ里の道を毎朝通ったという。

45歳。岐阜・栄昌院を復興。生活きわめて枯淡を尊ぶ。51歳にして、虎渓山永保寺(多治見市)に一夏掛錫(修行僧として留まる事)、潭海玄昌老師に参禅、どこまでも衰えることのない向上心で余蘊を尽す。

この年、東京谷中・全生庵に請じられて、住山する。このときの山岡鉄舟との面談の様子がひとつの伝説になっている。鉄舟、師を尚び肯うという55歳。鉄舟亡きあと全生庵を退き、谷中・頤神院に寓居。58歳。

白山の龍雲院に移る。64歳。明治32年。龍雲院に禅堂を建立し、白山道場と名付ける。設立の緒言に曰く 「・・・正法の日々衰頽するを憂いて大法を扶起せんがため、小石川なる白山の傍に一の道場を設立せん事を謀れり。是満天下に向かって沃肥の良福田を放開すと謂うべし。云々」これより僧俗を多数導いた。 南禅寺・河野霧海老師、祥福寺・足利天応老師、東禅寺・霄絶学老師、天龍寺・橋本峨山老師らが参じている。居士に公田連太郎博士等多数がある。

明治37年、白山道場に示寂。世寿71歳。稀有庵、晦蔵室と号する。「将来の宗教」と題する一文、「南隠老師逸話集」、「南隠老師追憶補遺」(いずれも白山道場編)が遺されている。南隠老師の行履は、「明治の禅匠」(禅文化研究所)に詳しい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

一口メモ

前の記事

寒山詩偈讃歌 25
一口メモ

次の記事

寒山詩偈讃歌 27