寒山詩偈讃歌 22
096
錐刺猶不動 | 恰似羊公鶴 |
錐(きり)をもって刺せども猶動かず。 | 恰(あたか)も羊公の鶴に似たり。 |
注) 「羊公の鶴」 昔、晋の羊淑子は良く舞う鶴を持っていた。客に自慢の鶴を飛ばそうとしたが、羽ばたくばかりで舞うことはしなかった。この鶴に例えて「羊公の鶴」と称した。
世にいでヽ | かひもなきかな | おのが智を | はたらくほどの | わざもなき身は |
自分の持っている知恵を利用するほどの、能力のないこの身では、世の中に出て何をしたところで、どうしようもない。
097
誰能借斗水 | 活取轍中魚 |
誰か能く斗水を借り、 | 轍中の魚を活取せん。 |
注) 「轍中の魚」 わだちの小さな水たまりの中で苦しみあえいでいる魚。
おのが身に | そはぬたからを | もとむるは | 死したる魚の | 水はものかは |
自分自身にそぐわない宝物を求めるのは、死んだ魚へ水を与えても、何にもならないのと同じこと。
098
前廻是富兒 | 今度成貧士 |
前廻は是れ富兒、 | 今度(このたび)は貧士と成る。 |
おもはなむ | めぐる車の | かへり來る | そのよしあしは | 身にあることを |
因果の小車が巡ってくるその結果が、良かったのかどうかは、自分に原因がある、と思ってほしい(武田智孝氏添削)。
注)「因果の小車=いんがのおぐるま」とは、原因と結果が永久に繰り返されるさまを、いつまでも止まらない車の輪に例えて言う仏教語。
099
必也關天命 | 今年更試看 |
必ずや也(ま)た天命に關(関)す、 | 今年も更に試み看よ。 |
何事も | たゞもちえたる | おのが身の | 玉しみがヽば | くもる世もなし |
自分自身で持っている長所を、伸ばしさえすれば、うまく行かないことはない。
100
為汝熟思量 | 令我也愁悶 |
汝が為に熟(つらつら)思量すれば、 | 我をして也(ま)た愁悶せしむ。 |
たる事を | こヽろにしらば | まづしきも | とめるも身には | ねがはざらまし |
身分相応に満足することを知っていれば、貧しくても裕福な身分になりたいものだなどと願ったり、富者を羨んだりはしないだろう(武田智孝氏添削)。
一口メモ
水野梅暁
旧福山藩士金谷俊三、マツの四男として明治11年1月2日福山市東町に出生。幼名を善吉と称し、後福山藩士にて出家せる法雲寺住職水野桂巌の養子となり、大正4年家督を継ぐ。 13歳にて出家し、哲学館(東洋大学前身)に一時籍を置き勉学したこともあった。 後、京都大徳寺高桐院高見祖厚居士に就いて修行、次いで、根津一氏の知遇を得、伴われて上海東亜同文書院に学ぶ。業を卒えるや、曹洞宗開教師となり、明治38年、湖南省長沙に僧学堂を開設して布教に従事した。 明治42,3年の頃、松崎鶴雄氏号柔甫、塩谷温号節山博士等に長沙留学を勧め、松崎氏は王闔運の門に入り、説文学其他を、塩谷博士は葉徳輝に就て元曲を専攻したと云う。 その後、大谷光瑞師の知遇を得て、本派本願寺に転じて中国研究に従事、中国布教権問題を始め、日支仏教徒の親善連絡に尽す所が少なくなかった。 この間、光瑞師の侍者として遠く瓜哇を初め蘭印各地を遊歴したこともあった。大正3年東方通信社の設立されるや、その調査部長として「支那時事」誌を主宰した。 大正12年関東大震災により東方通信社の事業縮小に伴い、日華実業協会、外務省等の援助を得て、大正13年10月支那時報社を創立し、専ら中国の時事問題を取扱った専門誌を発行し、一般官衙、商工会議所等に調査資料を提供した。 同14年秋、日華仏教徒を中心とした東亜仏教大会が東京芝の増上寺に開催されるや、日華仏教連絡委員に推挙せられ、翌年秋には京都東福寺派管長尾関本孝氏を団長とし、日本仏教各宗幹部を網羅した日仏教徒訪華視察団を組織し、中国南北各地を歴訪して、中国仏教徒との親善交驩に斡旋する所があった。 満州国の建国に伴い日満文化協会の創立せらるるとともに、その理事を挙げられ満州国の文化にも貢献した。 終戦後は玄奘法師霊骨塔建立のため日本各地を遊説し、遂に埼玉県慈恩寺に建立の悲願を達成した。 この間、一時引揚援護局参与に任じたこともある。 昭和24年11月21日、慈恩寺に於て示寂した。享年74歳。鶴見総持寺の瑩域に葬り、埼玉県名栗村鳥居観音及び福井市に分骨する。 (以上は松田江畔編「水野梅暁追懐録」より抜粋) |