光尚君御家譜抜書 43

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3008

外記可心ニ奈ら祢ハ知難し士ハ一期の後ニ奈らてハその

人の善悪志連ぬ迚前々の通り也  綱利公御代初ニ

八月朔日伊藤十之允討果ス跡ゟ伊藤一家押寄踏潰申し候

家断絶也

考ニ阿部権兵衛髪を切帝御霊前ニ置堂るハ

妙解院様御一回御忌之節ニ而寛永十九年三月十七日也

光尚君者御在江戸ニ而候間達 御内聴候事御下國前

くずし字解読

外記可心ニ奈ら祢ハ知難し(げきが、こころに、ならねば、しりがたし)。林外記の心境にならなければ、知るよしもない。

人の善悪志連ぬ迚(ひとの、よしあし、しれぬとて)。(武士は死んでしまった後でなければ)どっちみち人間性の善し悪しはわからぬものだと。

跡ゟ伊藤一家押寄踏潰申し候(あとより、いとういっか、おしよせ、ふみつぶし、もうしそうろう)。その後、伊藤十之允一族が、(林外記の屋敷に)襲いかかり踏み潰してしまった。

家断絶也(いえ、だんぜつなり)。林外記の跡目は続かず断絶してしまった。

髪を切帝御霊前ニ置堂るハ(かみをきりて、ごれいぜんに、おきたるは)。(阿部権兵衛が)髪を切って御霊前に置いたのは。

妙解院様御一回御忌之節ニ而(みょうげいんさま、ごいっかい、ごきのせつにて)。妙解院様(忠利公)の一回忌の時で。

光尚君者御在江戸ニ而候間達(みつなおぎみは、えどにて、おんありてそうろうま、たっし)。光尚君が江戸に滞在なされている間に、(御内聴に)達した(お聞きになられた)。

一口メモ

本文の5行目以降に、阿部権兵衛が髪を切って御霊前に置いたのは、妙解院樣の一回忌で寛永19年3月17日とありますが、史実では妙解院様の三回忌、つまり寛永20年2月17日となっています。

同じ記述が2~3頁にもあり、この誤りは「抜書」自体のものであるか、「抜書」を写し取った時の誤りかは定かでありません。2~3頁は抜書を書き取った部分、この43頁は筆者が感想として述べた部分ですが、本来の「光尚君御家譜」そのものは熊本大学の「細川家旧記・古文書分類目録」によると、3種類があるようです。

何故このような間違いが起こったのかは定かではありませんが、当時の情報の少なさは推して知るべしです。阿部屋敷誅伐の後にこの事件の内容が「阿部茶事談」として記録されると、多くの人々がこの内容に自分の都合の良いように書き改めたり書き加えたりされたため、この情報は一貫性を欠き後世の人々の混乱を招いてきたようです。

いずれにせよ、情報の真偽の判断は自己責任となり、現代のSNSの世界にも通じるようです。

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