光尚君御家譜抜書 14

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3008

竹内数馬者嶋村弾正<享禄年中細川高國ニ属し摂州尼ケ崎合戦討死武勇無隠>四代之孫

尓して竹内吉兵衛の末子也吉兵衛武功有を以

三斎君御代<一尓忠利君>於豊前被 召出男子五人何レ茂被 召仕候

  考ニ竹内政之允と申者當時諸役人段ニ而被 召仕候竹内七郎右衛門ケ

  曽孫也右政之允ケ先祖附を見之尓数馬ハ七郎右衛門ケ弟と見え申候

  其故ハ竹内吉兵衛親ハ八隅美作守之臣ニ而八隅市兵衛と申

  河内國飯盛城之城主也八隅家没落之後其子竹内吉兵衛

  <初ハ吉蔵>小西家ニ仕へ速々武功有小西亡候而已御吉兵衛於豊前

  御當家ニ被 召出千石被下御鉄炮頭相勤候由子共五人被召出候ト

  本行ニ有之候嫡子を吉兵衛と云末子数馬也中三人者

くずし字解読

享禄年中細川高國ニ属し摂州尼ケ崎合戦討死武勇無隠( きょうろく、ねんちゅう、ほそかわ、たかくにに、ぞくし、せっしゅう、あまがさき、かっせん、うちじに、ぶゆう、かくれれなし)。「武勇無隠」とは、「武勇に優れている事は、周知の事実である」という意味です。

尓して竹内吉兵衛の末子也 (にして、たけうち、きちべえの、すえごなり)。であって、竹内吉兵衛の末っ子である。

於豊前被 召出男子五人何レ茂被 召仕候 (ぶぜんに、おいて、めしだされ、だんし、ごにん、いずれも、めしつかわれ、そうろう)。豊前で採用され、五人の男子は全て採用された。

當時諸役人段ニ而被 召仕候(とうじ、しょ、やくにん、だん、にて、めしつかえられ、そうろう)。 当時は諸役人そのものが、採用された。

数馬ハ七郎右衛門ケ弟と見え申候(かずまは、しちろうえもん、が、おとうとと、みえ、もうし、そうろう)。 最後の申し候の文字は独特な形なので、そのまま覚えておきましょう。

親ハ八隅美作守之臣ニ而( おやは、やすみ、みまさかのかみ、の、おみにて)。臣=臣下(家来)

八隅家没落之後其子(やすみけ、ぼつらく、の、のち、そのこ)。

<初ハ吉蔵>小西家ニ仕へ速々武功有

(はじめは、きちぞう、こにしけに、つかえ、そうそう、はやばや、ぶこうあり)。

千石被下御鉄炮頭相勤候

(せんごく、くだされ、おん、てっぽうがしら、あい、つとめ、そうろう)。知行千石を拝領し、鉄砲 頭を勤めた。

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