阿部一族事件ゆかりの地

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一口メモ

ここでは、光尚君御家譜抜書に登場してくるゆかりの地を、地図を介して紹介してゆきます。

泰勝寺

上記地図では右上に黄色の星マークがあるところです。ここは、忠利公の一周忌や三回忌で京都大徳寺の天祐和尚が訪れた泰勝寺跡で、忠利公の三回忌の法要で阿部弥一右衛門の嫡男権兵衛が自分の髪を切り、供えたことから事件が始まりました。

ここの由緒書きによると、次の通りです。

立田自然公園(泰勝寺跡)
この公園は、細川家の菩提寺として、建立された泰勝寺跡です。寛永14年(1637)細川三代藩主忠利が泰勝院(泰勝院とは初代藩主藤孝の法名)として建立。四代藩主光尚の時、京都より大淵和尚を住職として招き、泰勝寺と改めました。ここには、細川初代藩主藤孝夫妻と二代藩主忠興、その妻ガラシャの墓である「四つ御廟」をはじめ、藩主や住職の墓、細川家にゆかりのある宮本武蔵の供養塔などがあります。その他、苔園、国指定天然記念物の立田山八重クチナシ、茶室「仰松軒」などがあり、昭和38年(1963)には県の名勝及び史跡に指定されています。(熊本県)

妙解寺

上記地図の左下にあるのが妙解寺跡で、ここは熊本藩二代藩主の細川光尚公が、父である初代藩主の細川忠利公の追善のため、寛永十八年(1641)に建立した臨済宗の寺で、寺号は忠利公の戒名である妙解院によりますが、現在は山門・塀・石橋など建物の一部を残すのみで廃寺となっています。

ここには忠利公、同夫人、光尚公の霊廟があります。また、忠利公の殉死者の墓が15基と、阿部弥市右衛門の墓があります。

肥後熊本の藩主細川家には菩提寺が二つりますが、上記の泰勝寺とこの妙解寺です。

阿部一族屋敷跡

阿部一族の屋敷跡は上記地図の中央下に位置しますが、ここに熊本市の案内看板があります。内容は次の通りです。

寛永18年(1641)3月、藩主細川忠利がなくなり、阿部弥一右衛門も殉死した。嫡男の権兵衛は、遺族に対する待遇を不当として、忠利の三回忌のとき髻(もとどり)を切って霊前に供えたため、不敬の廉(かど)で捕らえられた。権兵衛の弟達は兄の屋敷に立籠って誅罰され、権兵衛も縛り首となった。この事件を小説化したものが、森鴎外の「阿部一族」である。
一族が全滅したため屋敷跡は久しくわからなかったが、昭和36年に作家荒木精之の努力によって、此の地であることが判明した。 熊本市

春日村から山崎へ

この抜書の7ページに阿部弥一右衛門の火葬の折に、家族が春日村(妙解寺)から山崎(阿部屋敷)に移るシーンが書かれていますが、これを現代風に再現すると次のようになります。

弥一右衛門の遺族(妻子)が春日村(現在の西区春日四丁目、妙解寺の南)に着くと、髪を切り火中に投げ込み、刀を抜こうとしていると奪い取られたので、やむなく自害をあきらめ、妙解寺脇の坪井川を渡り、三丁目(万町三丁目)の御門脇から山崎の阿部屋敷に至ったとのこと。

上記地図では左下の一番左の花岡山公園に黄色の星マークがあるところと考えられます。

井出ノ口(井出口)

阿部弥一右衛門の嫡子権兵衛は、忠利公の三回忌の法要で焼香の時に髪を切り供えた、という不届きのため捕らえられ、縛り首にりましたが、その場所が現在の熊本市中央区本荘1丁目1で、長六橋を渡った先になります。上記地図では中央下の阿部一族屋敷跡の右側に黄色の星マークがありますが、その左の橋が長禄橋です。

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