御書出 十代 高見権右衛門武棟
知行引渡差紙
差紙
高見権右衛門方上知高千石養子高見嶋之助
被下置候間無相違
被下置候間無相違(重複)
可被引渡候充嶋之助儀依於権右衛門与改名ニ而候
以上
丑七月二十六日(天保12年)
奉行5名の花押・押印
知行宛行状
肥後國於山本八代山鹿飽田玉名
五郡之内九百石任先規同國於益城郡之内
小莚村山鹿郡之内熊入村天保七年三月三日
養父高見権右衛門江為加増取書置之
百石目録在別紙事都合千石同十二年二月四日
充行之訖全可領知之状如件
弘化四年二月朔日 斉護(花押)
高見権右衛門殿
肥後の國に於いて山本八代山鹿飽田玉名
五郡の内九百石を先規に任せ同国に於いて益城郡の内
小莚村、山鹿郡の内熊入村、天保七年三月三日
養父高見権右衛門へ加増取なさる書置これ
百石<目録別紙にあり>事都合千石同十二年二月四日
これを充行おわんぬ全く領知すべきの状くだんの如し
弘化四年二月朔日 斉護(花押)
高見権右衛門殿
一口メモ
高見家十代の嶋之介は九代政久の長女寿喜の夫として養子に入りましたが、実家は志方十兵衛(300石)です。嶋之介が13歳の時に養子として、熊本藩九代藩主の細川斉樹公に御目見を果たしました。文政8年嶋之介26歳の時に、剣術槍術が芸術的に優れていると表彰を受けました。
文政12年、嶋之介が30歳の時に江戸白金の中屋敷にて近習として雇われました。34歳の時に白金のお側取次を勤めるなど、もっぱら江戸中心の生活をしていました。天保11年に九代の數衛政久が亡くなった翌年に家督を相続しましたが、上記の引渡差紙はその時のものです。九代と十代の年齢差が15歳しかなかったために相続は42歳の時でした。
相続後は、小姓頭、上野の火の番、参勤のお供などを勤めましたが、弘化4年にようやく千石の知行宛行状が上記の通り発給されました。その後も番頭、小姓頭、用人、一橋御用懸等々を勤めましたが、万延2年62歳にして病死されました。