御書出 九代 高見権右衛門武久
知行引渡差紙
差紙
高見右源太上知高
九百石養子高見
数衛被下置候間
無相違可被引渡候以上
巳十二月二十七日(文化6年)
奉行3名の花押と押印
知行宛行状
肥後國於山本八代山鹿飽田玉名
五郡之内九百石任先規旨
充行之訖全可領知之状如件
文化九年九月十八日 斉樹(花押)
高見数衛殿
肥後の国に於いて山本、八代、山鹿、飽田、玉名
五郡のうち九百石を先規のごとく
これを宛がいおわんぬ
全く領知すべきの状くだんの如し
文化九年九月十八日 斉樹(花押)
高見数衛殿
加増知取附目録
高見権右衛門御加増知取附目録
現高九拾九石三斗五升二夕六才高合百石
(右の文章は目録のカバーに書かれたもので、内容は「高見権右衛門殿御奉行中
御加増知取附目録天保七年七月二十八日於御奉行所高見権右衛門武久」とあり、本人直筆のものである)
右為御加増被下置候間田畠
人畜無相違可被引渡処如件
天保七年七月二十八日勘定奉行三名(花押・押印)
勘定奉行二名(花押・押印)名主押印 以下省略
一口メモ
高見家九代の數衛は、七代権之助の実子ですが、幼少であったため権之助の長女である初が堀五左衛門家(850石)から養子を迎え、高見家八代当主となりました。その右源太が37歳の享和元年に、当時17歳の数衛を江戸に連れてゆき、御目見を実現させ翌年の正月には早くもお仕えすることができました。
その3年後の文化2年には八代右源太が病死のため、数衛が跡目相続しました。上記知行引渡差し紙は巳年(文化6年)に発行されたものと思われます。文化9年の900石の知行宛行状の発給の2か月後には長崎奉行所の留守居役を仰せつかっています。
文政12年の正月(当時45歳)には、番頭の上座である佐敷の役職を得ましたが、この時に足高(一代限りの俸禄)100石を得ましたが、7年後の天保7年には上記の加増知取附目録の通り、正式な加増を得て千石となったということです。
更に、その3年後の天保10年には、座席が留守居大頭同列に抜擢され、若殿様の御守役、用人兼務で足高500石を得ましたが、残念なことに翌年の天保11年12月落馬が原因で、江戸白金の中屋敷で逝去されました。享年56歳でした。