御書出 八代 高見右源太
知行宛行状
肥後國於山本八代山鹿飽田
玉名五郡之内九百石如先規
充行之訖全可領知之状如件
天明八年九月十八日 斉茲(花押)
高見右源太殿
肥後の国に於いて山本、八代、山鹿、飽田、
玉名五郡のうち九百石を先規のごとく
これを宛がいおわんぬ全く領知すべきの状くだんの如し
天明八年九月十八日 斉茲(花押)
高見右源太殿
一口メモ
高見家八代の右源太は、郡織衛家(1,800石)より養子として迎えられ、天明7年に23歳にして家督を継ぎました。この年は熊本藩七代藩主の細川治年公が江戸で事故死され、八代の細川斉茲公が急遽養子に入り藩主となりました。上記の知行宛行状は相続の翌年に発給されたものです。
右源太は当初から番方や使番等お殿様の周りで勤めていました。江戸へ度々出府しています。10年後の寛政9年の10月には八代城内が焼失し、江戸へ早打ちにて出発し、使番の役目を見事に果たしました。その後も留守居詰として江戸での滞在が多くなります。八代右源太は七代権之助の実子の数衛(後九代を継ぐ)を養子に迎え、右源太37歳(数衛17歳)の時に江戸へ連れて行きお目見、翌年には早くも江戸で雇われています。
右源太は、41歳で病死となりましたが、細川斉茲公が81歳まで長生きをされた関係で、高見家は八代・九代・十代と三代に亘ってお側に仕えることになります。