御書出 七代 高見権之助
知行引渡差紙
御知行引渡差紙(包紙)
差紙
高見権右衛門殿上知高
九百石養子高見権之助
被下置候条無相違可以
引渡候以上
申 五月九日 勘定奉行四名(花押)
知行宛行状
肥後國於山本八代山鹿飽田
玉名五郡之内九百石如先規
充行之訖全可領知之状如件
天明六年九月朔日 治利(花押)
高見権之助殿
肥後の国山本、八代、山鹿、飽田、
玉名に於いて五郡のうち九百石を
先規のごとくこれを宛がいおわんぬ
全く領知すべきの状くだんのごとし
天明六年九月朔日 治利(花押)
高見権之助殿
一口メモ
7代高見権之助政朱は、安永5年に17歳にして跡目を継ぎ番方を勤め、その7年後に見習いとして出府しましたが病弱なため参上できず、役職を離れることになりました。その後隠居の身になりましたが、残念ながら寛政元年にわずか28歳にしてこの世を去ってしまいました。