九代 高見権右衛門武久 (34)
天保十一年十二月朔日 嶋縮緬御小袖一 蓮性院様於
御前被下置候
天保十一年十二月二十三日 於江戸白金御屋形病死行年五十六歳
江戸白金聖坂功運寺葬 法名 真龍院殿乾道義強居士遺髪 高麗門妙立寺葬
天保11年12月1日 嶋縮緬小袖を一つ蓮性院様の御前にて戴いた。
天保11年12月23日 江戸白金の中屋形において病死。
行年56歳江戸白金聖坂功運寺葬 法名 真龍院殿乾道義強居士
遺髪 高麗門妙立寺葬
一口メモ
九代権右衛門の足跡
九代 高見権右衛門武久の人となりは、1911年(明治44年)に東京隆文館から出版された武藤巖男編の「肥後先哲偉蹟」に掲載されているので、参考にされたい。
これによると、「惜哉(おしいかな)、権右衛門は騎馬でお供の折、白金北の聖坂あたりで急病を起こし、落馬して落命してしまった」とある。
九代の系図の終わり方が不自然であることから、突然の事故であった事が窺える。
以下に年ごとの事象を列挙します
元号 | 西暦 | 年齢 | 事象 |
享和 1年 | 1801 | 17歳 | 2月 江戸に連れて行かれ 8月 お目見(熊本藩八代斉茲公) |
享和2年 | 1802 | 18歳 | 正月 養子数衛雇われる |
文化2年 | 1805 | 21歳 | 11月 家督相続 大組付(沢村宇右衛門組) |
文化4年 | 1807 | 23歳 | 5月 公儀定例の祈祷の折、阿蘇上宮の名代を勤める |
文化6年 | 1809 | 25歳 | 4月 使番、6月 犬追物で優秀 |
文化9年 | 1812 | 28歳 | 8月 お城の御禮(諸作法)の用、11月 長崎留守居(堀田諸兵衛上座) |
文化10年 | 1813 | 29歳 | 3月 長崎詰 留守居、10月 権右衛門と改名 |
文化11年 | 1814 | 30歳 | 3月 長崎より帰国、中小姓頭(奥田権之允跡)、10月 用人 |
文化12年 | 1815 | 31歳 | 正月 出府 |
文化13年 | 1816 | 32歳 | 4月 帰国、9月 大組附(松井直記組)、高見家系図作成 |
文化15年 | 1818 | 34歳 | 3月 用番 |
文政 1年 | 1818 | 34歳 | 9月 出府、10月 堀尉左衛門上座 |
文政 2年 | 1819 | 35歳 | 9月 日光御霊屋向諸堂社御修復に参加、12月 土井大炊頭(土井利厚)が 柳檜の間にて褒賞を申し渡され、翌日御殿から祝品を直接拝領 |
文政 3年 | 1820 | 36歳 | 3月 座席中着座同列、8月 日光の拝礼夫より直接お供で帰国、用人 |
文政 4年 | 1821 | 37歳 | 4月 出府・財津善内と交代、用人、12月 篤姫様の縁組のご用掛 |
文政 5年 | 1822 | 38歳 | 5月 お供にて帰国、9月 来年参勤のお供調査 |
文政 6年 | 1823 | 39歳 | 3月 出府 濱町屋敷の誕生受け入れのご用 |
文政 7年 | 1824 | 40歳 | 6月 お供にて帰国 |
文政 8年 | 1825 | 41歳 | 9月 お供にて罷登 |
文政 10年 | 1827 | 43歳 | 2月 濱町様のお供にて罷登 |
文政 12年 | 1829 | 45歳 | 正月 座席佐敷 番頭の上座、足高100石 |
文政 13年 | 1830 | 46歳 | 3月 休養で帰国 4月 出府 |
天保 4年 | 1833 | 49歳 | 4月 座席組外同列、9月 休息で帰国、10月 罷登 |
天保 6年 | 1835 | 51歳 | 12月 諦了院様御尊骸お供にて帰国 |
天保 7年 | 1836 | 52歳 | 3月 座席留守居大頭同列、若殿様お守役、足高500石、用人兼務 |
天保 9年 | 1838 | 54歳 | 12月 休息で帰国 |
天保 10年 | 1839 | 55歳 | 3月 座席留守居大頭同列、若殿様お守役、足高500石、用人兼務 |
天保 11年 | 1840 | 56歳 | 12月23日 江戸白金にて逝去 |