英邁剛毅(才知がすぐれ意思が堅くて強くくじけない)の性格で、既に天保6年のころ、白金の近習達が、ひとりひとり評して付けた句の中に、毒は毒薬は薬眞蛇哉(「毒も薬も使いようで、どうにでもなる。毒と薬の見極めは厳しく判定しなければならない)とつけたのは、まさに権右衛門のことであった。
妻は須佐美素雄の娘で、才發の誉があった、舅の素雄は力量があるとは言え、いたって気難しい人物で、どもすると癇積(かんしゃく)を起し、仕事も度々断ったとのこと。
昔から家にあっては、これらは急に起こるようで、いずれも言い訳の手段が尽き果て、唯々困りきった時に、内々に使いを出して、聟に来て欲しいと頼めば、桜井町の自宅から藪の内に来て、玄関から権右衛門と名乗ると、ほら婿殿が来たと、素雄は気色が変り、快い状態になること度々であった。その時に須佐美方の嫁の周辺にいた人の話を、後年直節聞いた。
どのようなめぐりあわせなのか。これはひとえに権右衛門の徳によるものである。権右衛門第一の公平な忠勤は、これまでの慣行であると主張し、因循固守(古い習慣をたよってその場をしのごうとして)来る人の私見を見抜き、若殿様の近習に召使われるべき人物ではある。
すべて政府重職中選挙を重要視すれば、文武堪能の壮士、あるいは郡代等の中から選任され、実に白金詰では、済々堂々たる様子にみえる。
しかし、何かと議論が多く、ことのほか多忙になってしまうが、権右衛門は少しも気力も落ちずに、皆にメリハリをつけて熱心に接し、夜も小屋に於いて、談合等に時間を費やした。
元来酒好きで半日も飲まないことはなく、御殿においても権右衛門が飲む酒は、台所から出すようにと、内々に指示が出されたとも伝え聞いている。
たとえ終夜長酒しても、そのまま出仕して公務にかかるや否や、何の差しさわりもなく、仕事を取りさばいた。
とりわけ褒め称えるべきことは、小坂半之允なる人は千石を知行して、ひと意地ある士である。権右衛門とは気質が符号しない。
けれども供頭(お供の人々を取り締まった役)を仰せ付けられるべき人柄である。この外ににこのような人はいないと、わざわざ推挙して、半之允は白金の引除詰(待機)を仰せ付けられた様子。
これこそ清廉(心が清らかで私欲がない)というべきものであろう。
惜哉(おしいかな)、権右衛門は騎馬でお供の折、白金北の聖坂あたりで急病を起こし、落馬して落命してしまった。
村田翁筆記