高見祖厚写真集
慶應年間に少司儀(旧称は使番と言った)を勤めていた時に廃藩となり、瓦解して(熊本藩は)廃藩県となって白川県と改められる。白川県十三等に勤め、諸務課に所属した。
明治7年(1874年)4月4日から出勤する。同月29日辞職する。
元治元年(1864年)長州征伐に出軍、小荷駄奉行の職として出軍したがほどなく退陣し熊本に帰る。
小倉の藩侯(小笠原豊千代丸様)を護衛した。藩侯は熊本の坪井(現熊本市中央区坪井)にある伊勢屋に滞在されていたが、事が静まると小倉に帰られた。
明治8年(1875年)宮内省に勤務し雑掌に任じられた。これまでこの名称は小侍従と呼ばれていたとのこと。
事情があって16年(1883年)辞職して熊本に帰り、山岡鉄太郎らと揃って辞職した。熊本に帰ると、上益城郡の東禅寺内に無何有(むかう:自然のままで、なんらの作為もないこと)庵を築て世俗をのがれ閑居する。
明治18年(1885年)事情があって熊本神宮教会長に任命され、3年後にここを退職、直ちに無何有庵に入る。
明治26年(1893年)9月1日旧知事君の(細川)護久公が急に病に倒れ御病死された。東京に行き御葬式に参加、翌日には剃髪法衣となり東京小石川にある白山龍雲院に閑居することになった。
南隠老(南隠全寓老師)の弟子となり、法名祖厚と改める。
東京滞在中脚気を大患いし危篤になったため、熊本より浅山知定(十一代嶋之助娘千代の嫁ぎ先)、安次(息子)をつれて箱根に来る。佐々(友房)等のすすめにより、東京からこの地に転養すると、偶然にも元気を取り戻して東京に帰ることができた。
佐々(友房)らは、かねてよりこの東京の空気が悪いので、どこかしかるべきところに転居した方が良いとの強い勧めもあって、京都高桐院裏に自在庵を建築してしずかに己を養うこと20年、ここに過ごした。
高桐院は三斎公叔父君が創立した寺であり、三齊公の御分骨の御墓所があるので、厚く御菩提をとむらうかたわら御掃除などを勤めようとこの地に来て住まわった。
この間、水野梅暁を弟子に取り、養育に励んだが梅暁が上海に渡った後も書状を送り続けた。
大正3年7月大患しまた、危篤になったため、満壽(二女)安次(二男)記頼等の頼みによって島原魁村に家居を求め、また無何有庵を建築して住むことになった。
これは大正4年(1915年)夏の6月のことである。この間にいろいろな国家大革命に出会った。後世の識者が察すべきところである。 祖厚が書きしるす。
十二代高見祖厚 幼名直熊、後権右衛門と改めるが、明治維新後改名し怘(まもる)と称した。(細川護久侯の逝去に際し仏門に入り)剃髪後祖厚と改める。
号に広川・林泉・自在庵等。中島広足先生に師事し、書・和歌を能くした。維新後宮内省に奉仕し、のち剃髪して京都に住した。大正6年(1917)歿、75才。
熊本市内に居住していたが、西南戦役で焼け出されてその後は居を上益城郡御船町に移った。
祖厚は幕末以来佐々友房と親交深く、お互いに人生を支援し合う仲であった。佐々友房は熊本の私学斎々黌の創立者であり、創立時の学監は祖厚が登用されたとのことである。
又、明治初期の政治家近衛篤麿公は佐々友房らと共に祖厚の教えを受けたと言われています(公からの自筆の書状が残されています)。
後年祖厚は細川家の京都の菩提所、高桐院(大徳寺塔頭)に自在庵を建てて晩年を過ごしたが、病を得て九州島原の息子の許に移るに当たり、高桐院に残した別れの和歌