九代 高見権右衛門武久 (33)
尊徳奇特之儀ニ被 思召上候此段一戸写旨被
仰出候
右者御用人月當永田内蔵次置ニおゐく書附被相渡候
天保十一年三月十五日 御紋附御長上下 一具 同御半上下 一具
同御熨斗目一 同御小袖一 若殿様御目見并御元服御用
相勤候ニ付被遊 御祝被下置旨龍ノ口於 御殿被 仰渡候
天保十一年三月十六日 御召古ル 五三桐御紋附裏附御継上下一具
若殿様御棄出御一件御初発より萬犒厚致心配此節無御滞
被為濟候ニ付 太守様 思召遠以 若殿様より御内々被下置候
天保十一年五月七日 御掛物三幅對左右山水中郭子儀
去年来多々心遣以多し 兵部大輔 御目見元服無滞相
濟致安心必尭初発より示合等主ニ成別而心配いたし候到無残
取迷ニ整候儀与存内々此品遣之
右之通之 御意ニ而龍ノ口表御居間於 御前被下置候
尊徳奇特(徳をうやまう姿がすぐれている)の手本として思し召され、この際一戸(一家の戸籍)として記録しておくよう命じられた。
右その月の用人永田内蔵次(150石)におゐくがこの書附を渡した。
天保11年3月15日 紋附長上下を一式、同じく半上下を一式、熨斗目を一つ、小袖を一つ、 若殿様の御目見並びに元服のご用を勤めたのでお祝いあそばされ、戴ける旨を龍ノ口上屋敷にて御殿から仰せ渡された。
天保11年3月16日 お召し古(古着)の五三桐の紋附裏附継上下を一式、若殿様の棄出(公務から一時離れる?)の一件は最初の公務から萬犒(ねぎらい)の心配りを十分に行い、このとき滞りなく済ませたので、太守様の思し召しによって若殿様から内々に戴いた。天保11年5月7日 掛物を三幅、左右対で山水、中心は郭子儀(中国の唐朝に仕えた軍人・政治家)の像。
去年から数多くの心遣いが多かった。 兵部大輔(ひやうぶたいふ=官位兵部省次官)の御目見・元服が滞りなく済み、安心したので必尭(ひつぎょう=まちがいなく)最初の勤めから示し合わすなど、特別に心配りをして、未解決の諸問題等もなく(いつも)物事の整理がなされており、内々にこの品書は右(上記)の通りのお考えで、龍ノ口上屋敷の表居間に於いて、御前から戴いた。
くずし字解読
左の画像は前ページの最終3行と本ページの最初の3行だが、本ページの部分を分解すると、「尊徳奇特之儀ニ」(そんとくきとくのぎに=徳をうやまうことがまれに見るほど優れていると)、「被 思召上候」=(おぼしめしあげられそうろう=お考えになられた)、「此段一戸写旨」(このだんいっこうつすむね=この際一家の戸籍として移すよう)、「被 仰出候」(おおせだされそうろう=仰せになられた)、「右者御用人月當」(みぎはごようにんげっとう=これは月当番の用人)、「永田内蔵次置ニ」(ながたないぞうじおきに=永田内蔵次に)、「於ゐく書附」(おいくかきつけ=おゐくがその書き付けを)、「被相渡候」(あいわたされそうろう=渡された)。
通読すると次のとおりとなる:
天保11年(1840)2月4日 高見権右衛門の妻
右は家内のことは熟知しており、夫に対する忠誠の勤めは数年の留守中での世話に関しても行き届き、召し仕えの者達に対しても慈愛をもって接する様子は、委達(こと細かに行き届き)尊徳奇特(徳をうやまう姿がすぐれている)の手本として思し召され、この際一戸(一家の戸籍)として記録しておくよう命じられた。
右その月の用人永田内蔵次(150石)におゐくがその書附を渡された。