九代 高見権右衛門武久 (23)

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1001

    少将様御尊骸御國江御下之御砌白金表於御居間被下置

    同役坂本庄左衛門御取合世ニ罷出ル

天保六年十一月九日 此節御供ニ而被差立候ニ付 五三桐御紋附縮緬

御小袖一 従太守様被下置候旨於御用人間永田内蔵次より申達候

天保六年十一月朔日 少将様御遺骸御國許江被遊御下候ニ付御供

被 仰付旨監物殿より口達書被相渡候右同日 落髪被 仰付旨監物殿

被申達候 天保六年十一月十日 此節ニ而御國許着之上引返ニ出府被

仰付旨御達有之候 天保六年十一月十一日 諦了院様御尊骸江戸表

被遊 御發棺候ニ付御供ニ而罷立 同十二月二十四日御國許江致着候

天保七年正月朔日 引返ニ出府被 仰付置候ニ付宛業落髪不為候

閑く用意相仕舞可申旨直記殿より達ニ相成候 天保七年正月十二日

出府被 仰付置候ニ付来ル十五日此許被差立小倉路差越可申旨御達

有之同十五日御國許致出立同年二月十四日江戸白金御屋敷江致着候

天保七年二月二十六日 諦了院様御道具之内青貝細工花之丸御斬紙箱


少将様のなきがらが熊本にお帰りになる出発点は、白金中屋敷の居間であると決められた。

同役の(用人である)坂本庄左衛門は(少将様のなきがらにお付になりたいと)名乗りをあげた。

天保6年11月9日 この時お供で出発するので、五三桐の紋附縮緬小袖一つを太守様から戴ける旨を用人の間にて、永田内蔵次(奉行副役、150石+足高350石)より申達があった。

天保6年11月1日 少将様のご遺骸が熊本に移されるので、監物殿からそのお供をする旨の口達書を渡された。

同じ日に、落髪(頭を剃る)するよう仰せ付けられる旨を監物殿から申達された。

天保6年11月10日 この時に、熊本に到着したら、引き返し江戸へ向かう様仰せ付けられる旨のお達しがあった。

天保6年11月11日 諦了院様のご尊骸が江戸を出棺するときにお共で出発し、同12月24日熊本に到着した。

天保7年(1836)1月1日 引き返えしに、江戸へ出発するよう仰せ付けられていたが、落髪が不都合である間は、その用意は不要であるとのお達しが直記殿からあった。

天保7年1月12日 江戸へ出発することが仰せ付けられていたが、この15日に小倉経由で熊本を出発するようにとのお達しがあり、同15日国許を出立し、同年2月14日江戸の白金中屋敷へ到着した。

天保7年2月26日 諦了院様のお道具のうち、青貝細工の花之丸(花の丸文様)の斬紙(切り紙)箱

くずし字解読

左の画像は上記の1行目だが、分解すると「少将様」(しょうしょうさま=熊本藩八代藩主斉茲公)「御尊骸」(ごそんがい=貴人の死骸を敬って言う語)「御國江」(おんくにえ=国元である熊本へ)

「御下之」(おんくだしこれ=おさがりになる)「御砌白銀表」(おんみぎりしろがねおもて=場所は白銀の中屋敷表)

「於御居間」(おんいまにて=居間であると)「被下置」(くだしおかれ=決まった)

「同役坂本庄左衛門」(どうやくさかもとしょうざえもん)

「御取合世ニ罷出ル」(おとりあわせにまかりでる=同行したいと名乗りをあげた)

坂本庄左衛門は九代武久と同じ用番だが、八代の郡代出身で、少将様とは同郷の関係であることから是非ともお供させてほしいと名乗り出たとおもわれる。