九代 高見権右衛門武久 (13)

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1001

於詰間田川申達候 文政十三年正月當春御國許江休息被

仰付旨内道殿より御達ニ相成候ニ付同二月十五日江戸表被指立同三月十三日御國江致着候

但文政十年より同十三年迄都合四ケ年相詰罷下候

文政十三年閏三月十八日用意濟次第出府被 仰付旨御奉行所より御達

相成候ニ付同年四月朔日御國許被指立同五月十一日江戸白金御屋敷江

致着翌日より御用人之諸勤相勤候 但御國許江休息日数四十七日目ニ被指立候 

文政十三年八月晦日厚板金入織物御腰椀一 在原菱彫物銀大形

御烟管一本被下置候 但御腰椀御金具銀枝菊御根付御緒ともニ

御火打袋添 文政十三年十二月十五日兼々出精相勤當表休息よりも

致候処速ニ致出府共御許之儀諸事主ニ成取斗到可致心配被

思召 九曜御紋附裏附御上下一具 松蓋菱御紋附羽二重小袖一

松蓋菱御紋附羽二重御単一被下置候 天保元年於白金

雪中之山水御掛物一幅文岱策  少将様より被下置候 天保ニ年

詰の間にて田川よりお達しがった。文政13年1月この春国許へ休息を仰せ付けられる旨を内道殿より達しがあった。同2月15日江戸表を出発、同3月13日国許に着いた。

但し、文政10年より同13年迄計4年間の江戸詰から帰ってきた事になる。

文政13年閏3月18日用意が済み次第、江戸へ行くことを仰せ付けられる旨奉行所より達しが有ったので、同年4月1日国許を出発同5月11日江戸白金の屋敷に到着、翌日より用人の諸々の仕事を勤めた。但し国許での休息日数47日目で出発された。

文政13年8月30日厚板金織物腰椀(厚い銀の板が織り込まれている携帯用お椀)一つと、在原菱(業平菱=格子模様の)彫物の銀製大形烟管(きせる)一本を戴いた。但し腰椀の金具は銀枝菊の根付(留め具)と緒(細紐)には共に火打袋が添えてある。

文政13年12月15日兼々出精を勤めたので、この仕事を休むよりも速やかに江戸へ行くことを許されることについて、諸事主に思召しになるべく心配りをされて、九曜の紋附裏附上下一具と松蓋(まつかさ)菱の紋附羽二重の小袖一、松蓋菱の紋附羽二重の単(単衣)一を戴いた。

天保元年(1830)白金に於いて雪中の山水掛物一幅。文岱策(中国の文岱の作)を少将様から戴いた。 天保2年

くずし字解読

左の画像は上記の8行目だが、分解すると「厚板金入織物」(あついたがねいりおりもの)「御腰椀一」(おこしわんいち)

意味は、厚い銀の板が織り込まれている携帯用お椀を一つ。

「在原菱彫物」(ありはらひしほりもの=業平菱彫物)

格子模様の彫り物 「銀大形」

「御烟管一本」(おんきせるいっぽん)

「被下置候」(くだしおかれそうろう)

意味は、業平菱の格子模様が彫られている大形のきせるを一本下された。

「但御腰椀御金具」(ただしおこしわんおんかなぐ)

「銀枝菊御根付」(ぎんえだぎくおんねつけ)

「御緒ともニ」(おんおともに)

「御火打袋添」(おんひうちぶくろそえ)

意味は、但し腰椀金具及び銀の枝菊の根付けと緒は共に火打ち袋が添えられている。