九代 高見権右衛門武久 (11)

熊本大学付属図書館所蔵 高見家文書 #1001

薄継御上下一具於江戸被下置 文政十一年十二月十四日御人少之處無

御間抜出精相勤候ニ付 松蓋菱御紋附裏附御上下一具 八重桜御紋附縮

緬御袷一於江戸被下置候 文政十一年十二月二十一日 梅珠院様三回御忌

被為當候ニ付 桜菱御紋附縮緬御袷羽織一被下置旨御老女於詰間御老

女より申渡候 文政十二年正月二十一日先御役以来多年出精相勤別而者

少将様御奉養筋厚致心配支配江茂熟知申續候ニ付座席佐敷御番頭

之上座ニ被 仰付御足高百石被下置候 文政十二年七月二日

少将様當年御七十一歳ニ而御染筆之御画松月壱幅態ト被遊御染筆

直ニ被下置候 文政十二年七月十日兼々致出精十郎左衛門新役ニ而萬端 壱人

ニ而取斗被為及 御老年候ニ付而ハ 御手許之御用向より茂致出精候段

被遊 御意御奥於御居間 表櫻御紋附小紋絽御単一 御手自被

下置候 文政十二年十一月 少将様御筆之御画 中國之内今津浦之砦

於 御前被下置候 文政十二年十二月朔日雪月花猩々三ツ組盃於

御前被下置候 今度御内御祝ニ付而者厚心迄困候段被遊 御意 被

薄継上下一具江戸にてくだされた。

文政11年(1828)12月14日人数が少なかったが、手抜きもせずに頑張ったので、松蓋菱(松かさ菱)紋附裏附上下一具と八重桜紋附縮緬袷一を江戸で戴いた

文政11年12月21日梅珠院様の三回忌につき、桜菱紋附縮緬袷羽織一を下される旨、ご老女詰間にてご老女より申し渡しがあった。

文政12年(1829)1月21日これまでの役目以来、多年に亘り出精して勤め、他には少将様の奉養筋に大いに心配りをし、支配下の者たちに熟知させたとして、座席を佐敷番頭の上座(中着座)に仰せ付けられ、足高百石を戴いた。

文政12年7月2日少将様が今年七十一歳になられ、染筆(せんぴつ=揮毫)の絵画松月一幅を特別にお書きになり直ちに戴いた。文政12年7月10日兼々出精したので、十郎左衛門の新役で全ての事柄を一人で取斗(=指示)するのに老年ではお手許のご用向よりも働きが多いので、御意(思召し)によって奥方(蓮性院様)の居間にて表櫻紋附小紋絽単一を蓮性陰様自らの手で戴いた。

文政12年11月少将様の筆による水墨画 中國之内今津浦之砦 を 御前にて(自ら)戴いた。

文政12年12月1日雪月花(をあしらった)猩々(しょうじょう=赤色)の三ツ組盃を御前にて戴いた。

この度の内祝については、(思召しによって戴いたことが、)心が厚くなるまで畢(ことごとく)困惑してしまった。

注) 上記の「内祝い」とは、中着座に昇進し、足高百石を賜ったことであろうか?

くずし字解読

左の画像は上記の6行目だが、分解すると「少将様」(しょうしょうさま=熊本藩八代藩主諦了院様)

「御奉養筋」(ごほうようすじ=諦了院様を大事に養う人々)

「厚致心配」(厚く心配りをしたので)

「支配江茂」(しはいえも=部下たちにも)「熟知申續候二付」(じゅくちもうしつづきそうろうにつき=ご奉養を徹底させたので)

「座席」(ざせき=身分)

「佐敷御番頭」(さじきごばんがしら=位としては中大夫 中着座の下で、番頭の上に位置する)

身分は佐敷御番頭(の上座=中着座に仰せつけられ足高百石を下された。)