二代 高見権右衛門重政(2)
寛永二十年二月阿部権兵衛共兄弟御討果させ被成候節被 仰付相勤
真源院様御代寛永二十一年七月御加増三百石
妙解院様
真源院様御両代江戸定御共
妙應院様御代御使番之觸使被 仰付其後御小姓頭被 仰付
江戸江茂度々御供相勤
明歴二年十月四日病死
法名 理性院道慶 高麗門妙立寺葬
寛永20年(1643)2月阿部権兵衛兄弟を討ち果たした折に相務めた。
真源院様の代の寛永21年7月に加増300石
妙解院様 真源院様の両代には江戸城にお供した。
妙應院様の代には、使番の職を仰せつけられ、その後小姓頭を仰せつけられた。
江戸へも度々お供を勤めた。
明歴2年(1656)10月4日病死(享年52歳)。
法名 理性院道慶 高麗門妙立寺葬
一口メモ
上記の阿部権兵衛兄弟ら阿部一族の上意討ち事件を取り上げた森鴎外の「阿部一族」はあまりにも有名な短編小説であるが、鴎外が歴史小説は史実に忠実であるべきとした割には誤りが多い作品であると批判し、自ら書き上げた「真説・阿部一族」という小説がある。この二つの小説には、二代の高見権右衛門についての記述があるので、興味深く読み比べてみた。
後者は、次のように記している。
裏門の指揮役に選ばれた高見権右衛門重政の祖は和田姓を名乗り、代々近江国日野城の城主蒲生氏に隋っていた。高見の父の代に明智氏に仕え、明智氏滅亡後、細川氏の家臣となった。
このくだりは残念ながら、史実と違っている。どうしてこうなったのかというと、森鴎外の小説の中に書かれている内容と同じであったためのようだ。やはり脇役は史実の対象外ということであるか?
又、当家には「阿部権兵衛共兄弟共討手竹内数馬高見権右衛門へ江被 仰付候覚書」と称する48頁に亘る光尚君御家譜抜書があったが、折を見て解読にチャレンジしてみたい。