九州転封までのゆかりの城址

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中心に黒井城があるが、これはこの一帯を支配していた赤井直義(悪右衛門)が織田信長の命令により明智光秀が二度にわたる黒井城の戦いで落城した人気の古城である。このすぐ西南に位置していたのが和田城址でその城跡は「岩尾城」として紹介されている。更に南西の黄色い星印は、高見助之丞の出身の荒田之城址である。一方、目を東にやると細川藤孝、忠興親子が初めて居城を作った勝竜寺城址があり、ここで忠興とガラシャが結婚した新居でもあり、現在も立派な銅像が安置されている。更に北方の舞鶴には田辺城址があり、1600年の関ケ原の戦いの折に、わずか500人でこの城を守ったという有名な話しがある。その北西には家康公より与えられた丹後の宮津城址である。細川藩士はどの段階でどこで採用されたかによって、その格付けが決まるが、高見家は丹後以来という比較的新しい部類に属している。