初代 和田勝五郎重治(2)

熊本大学付属図書館所蔵 高見家文書 #1001

三齊様重き御意茂御座候間申傳候其後 忠隆公江御付人ニ

被 仰付置候処 忠隆公高野山ニ而御供就被減候ニ付越前中納言 様江御

頭分ニ而居申候処中納言様被御逝去候ニ付浪人仕候而在京 仕居申候処

慶長十六年帰参被 仰付豊前國小倉ニ而御知行 五百石被下置御番頭

相勤申候其砌母方之名字迄以高見権右衛門 重治与改申候

元和四年二月二日病死右之節間七大夫迄覚書 差上申候処 三齊様御

自筆之御書入御朱印被為拝領候

   法名 為照院春月善光 墓所不知

 三齊様より重大なお考えもあったので、(そのことを)申し伝えた。その後忠隆公の付け人となるよう仰せつけられたが、忠隆公は高野山でお供は減員するとのことで、越前中納言様を首領として仕えていたところ、中納言様がご逝去になったため浪人となり京都に居たところ、慶長16年(細川藩に)帰参を仰せつけられ豊前の国小倉にて知行を500石下し置かれ、番頭を勤めた。この折に、母方の名字をもって高見権右衛門重治と改名した。 元和4年2月2日病死。この時間七大夫迄覚書を差し上げたところ、三齊様自筆の御書出御朱印を拝領した。法名 為照院春月善光 墓所は分らない。

一口メモ

トップページのスライドショー画像は、系図の先頭部分、初代の知行宛行状、伺書とそ裁可の書状、御書入だが、いずれも初代関連の古文書類である。初代の今際の折に上司の間七大夫宛に覚書を提出しているが、その内容は藩主の細川忠興公宛のもので、忠興公自身が行間にその返事を書き、しかもローマ字の印まで押されている貴重な古文書であることが知らされた。これは、熊本大学永青文庫研究センター長稲葉継陽教授によって特別に解説頂いた賜物である。

忠興公の優しさ

初代の権右衛門重治は忠興公と特別な関係にあるように思える。忠興公が羽柴秀長公に和田勝五郎重治を貰い受けてからすぐに、嫡子である当時15歳の細川忠隆公の付け人を仰せつけ、以降関ヶ原の陣にお伴し、不幸にして忠隆公の廃嫡後も高野山に入山するまで、12年間もお側に仕えていた。その後、小倉で藩主を勤めていた忠興公が京都に在住していた勝五郎をわざわざ小倉まで呼び寄せ、帰参させて高見権右衛門と改名までさせて500石を与えている。その後、8年が経過し権右衛門が病弱になり、今度は自分の息子二人と娘3人の行く末を案じ、忠興公に託したが、忠興公は9歳と7歳の息子二人にそれぞれ100石を与え、道家帯刀一成様に託すと約束をされ、その通りになった。忠隆公に対する忠義のお返しとも読み取れる。