平成20年12月25日 高見洋三
高見の禄高が千石から九百石に減った話
これは高見正明氏の祖父高見祖厚(細川藩士、権右衛門、明治廃藩置県に際し改名してまもる《古いの下に心》、後、細川護久公逝去に会い出家して祖厚、大正6年9月30日島原に没、72才)が正明の父安次や母久丹(くに)に語り、正明が何回となく両親から聞いている話なので、高見の家の話として確実に間違いの無い話である。
高見の先祖のことについては又、別に書くが、和田氏から高見氏に変わったのは関ヶ原の戦いの直後であり、高見に変姓した初代が権右衛門重治、二代目が阿部一族にも登場する権右衛門重政である。重政は細川忠利から三代の殿様に仕え、宮本武蔵等も出陣した天草四郎時貞閉廷の島原の乱にも出陣して居り、禄高の加増を重ねて高見の家の原形を造ったと言える人であるが、系図を見れば判る通り、この人の代では禄高は八百余石である。
系図を見なければうっかりした事は言えないが、多分、それからの長い時間に禄高を減らしたり殖やしたりするのだが、高見氏千石という記録は熊本の県立図書館の資料にもあるし、九代権右衛門武久(旧権右衛門政久)や十代権右衛門武棟(旧高見嶋之助武棟)の代には確かに千石になっている。
権右衛門武棟の次の十一代権右衛門が五十石減らし、十二代権右衛門(この人が正明の祖父まもる、後に祖厚と称)が五十石減らして高見の家は九百石になるのだが、さて何故そうなったのかである。
先ず十一代権右衛門であるが、この人は「身体虚弱に依り十全の御勤め適わず」というのがその理由。
次は十二代権右衛門であるが、こちらは「上士たる者は文武両道の研鑽に励むべきところ詩歌、書道、漢学にのみ励んで武道の研鑽を怠りたる段不届きにしてあるまじき事」というのがその理由であったとの事である。
それにしても封建時代というものは家老職の意見もあろうが、殿様の機嫌の風向き次第で、加増にしろ減封にしろ、思い切った禄高の加減が行われるもので、昭和末期から平成にかけての様に官僚(特に高級官僚)や一流企業であっても、不祥事に対しての処罪・処罰が給与月額の10%減給3ヶ月といった様な、痛くも痒くもない程度なのに比べると、特段の勲功による加増を以て禄高の快復を見ない限りは減封終生という厳しさである。
平成18年12月 高見正明氏記す
高見家の系図序文
高見家従前之系圖無之候ニ付文化十三年及吟味 高見権右衛門政久調置代替其外相變候節之書加候段致度候事
文化十三年九月 高見権右衛門政久
高見家のこれまでの系図がなかったため、1816年に詳しく調査することになり、高見権右衛門政久が実施した。代替わり(当主の変更)そのほかの変更事項があれば、その旨を記載し、書き加えることを希望する。
1816年9月 高見権右衛門政久(後権右衛門武久と改)
肥後先哲偉蹟
1911年(明治44年)に武藤巖男編の上記書籍が東京隆文館から出版された。序文に十二代高見祖厚(称号広川)による序文と九代高見権右衛門武久についての記述がある。
資料は国立国会図書館の近代デジタルライブラリー(書誌ID:000000434174)のコマ番号1、3、377より。
原本の現代語訳
先祖附(せんぞづけ)
また、文書類を重要視する細川藩では先祖附(せんぞづけ)なる代々の経歴を提出する独自の制度があるが、これまで天保12年と明治3年の二度に亘り提出された。
高見家文書には天保12年提出の写しが現存し(熊本大学附属図書館所蔵)、明治3年の先祖附の原本の複製は現在熊本県立図書館に所蔵されている。
この明治3年版には本家の高見権右衛門(12代まもる)、分家の高見少五郎重治(9代武之)を始め26の高見姓の先祖附が存在する。
熊本大学附属図書館所蔵(天保12年版9代目までの本家)
先祖附の写真(38枚)
先祖附の原文
熊本県立図書館所蔵(明治3年版12代までの本家)
先祖附の複写(37枚)
先祖附の原文
熊本県立図書館所蔵(明治23年9代までの分家)
先祖附の複写(54枚)
先祖附の原文
細川藩武士の役職
系図のなかで、各代の当主は、それぞれさまざまな役職を仰せ付けられたが、武士の身分構成を参考にされたい。太字で書かれたものが系図や先祖附に記述されている身分である。
熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書
当家に伝わってきた古文書類は、熊本大学附属図書館に寄贈をお願いしたところ、令和3年1月13日に正式に受理されました。
その際に作成戴いた目録がありますので、参考にしてください。
尚、細川藩の歴史と業績に関する情報は「肥後細川藩拾遺」に詳しく掲載されているので参考にされたい。