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12.十代 高見権右衛門武棟

実は志方十兵衛の実子である。

養子で高見家に入る。 妻は寿喜(すき)

十代 高見嶋之助武棟 後 権右衛門と改める

嶋之助の妻は先代権右衛門の嫡女で、文化元年(1804年)に出生した。

すきの実の母の名は 美知(みち)である。

御知行引渡差紙

御加増都合千石御知行宛行状(弘化4年4月1日 斉護公花押)

文政12年(1829年)8月27日 しばらくの間、白金中屋敷の近習の役職が仰せ付けられ、用意が済み次第江戸に出府するということで、

財津善内宅に預け、この役職の見習いをするよう仰せ渡された。文政12年9月13日熊本を出発した。

文政12年10月10日 江戸で雇われる。 天保3年2月 この役職は元のままで、熊本で休息することを命ぜられる。

同4月17日江戸を出発し、天保3年5月23日熊本に着いた。

同じ年の7月15日休息の日数を満した上で、江戸へ出府することを命ぜられ、天保3年9月17日熊本を出発、同10月21日江戸に着いた。

天保4年4月14日近習方の務めは当分の間外され、白金中屋敷のお側取頭として勤めるよう命じられた。

天保6年8月この秋に休息するように命ぜられ、9月18日出発、同10月21日熊本に着いた。

天保6年11月7日 諦了院様が病気になられ、御機嫌伺いの惣代として、同9日には熊本を出発をするようにということであったので、そのようにしたところ、

大坂でおなくなりになられたのを知り、舞坂駅(浜松市)で、通し棺奉行に逢い、同駅より江戸に早打(馬などで急用を勤め)、その日のうちに出発し22日に江戸に着き、

御機嫌伺いの惣代(代表)の使者として勤め、24日江戸を出発し、12月1日大谷宿で御尊骸に追いつき、その日のうちに他を差し置いてお会いし喜び、出発し、同12日に熊本に着。

18日御尊骸の送迎のため、南関(熊本県南関町)まで出掛け20日御供で熊本城に着。

天保7年5月14日、出勤中精を出したので、御紋附御上下一具と白銀三枚を戴いた。

天保12年2月4日、養父の権右衛門が戴いた知行千石、但し御加増分は俸給として、権右衛門が勤めた功労として得た家・屋敷共に相違なく相続し中着座を仰せ付けられ、三渕永次郎組の召し加えられた。

天保12年2月7日、座席は掛け持ちとして小姓頭を仰せ付けられた。

天保12年4月2日、権右衛門と改名し、天保13年9月、来年の御参勤のお供を仰せ付けられ、同14年2月5日、殿が出発なされ、同日熊本を出発、同3月4日江戸に着、同13年6月現業とは別に御取締を仰せ付けられ、その御用詰込を仰せ付けられた。

弘化元年8月、交代し、同8月18日江戸を出発、同9月13日熊本着。同年11月14日、来年泰樹院様が江戸へ出向く時の御供調を仰せ付けられ、且つ御供を仰せ付けられ、江戸に着いた折には龍ノ口の上屋敷に出勤することを仰せ付けられる旨の命令を発せられた。

弘化2年7月11日、泰樹院様のお供で熊本を出発、同年8月20日、江戸に着き直ちに龍ノ口上屋敷に詰めた。

同年9月14日、泰樹院様の御婚礼の御用係を仰せ付けられた。

弘化2年12月5日この御用係を勤めたので、御祝あそばされ、御紋付御上下二具及び御小袖一つを下された。

弘化2年12月9日来年の御留守詰を仰せ付けられた。弘化3年2月16日今年の御留守詰を仰せ付けられたけれど役職が解かれ、殿が熊本に帰られるその日に出発するよう命令を発せられた。

弘化3年5月21日、同じ日に江戸を出発、同閏5月24日御國許に着、同年9月10日来年の御参勤の御供調を仰せ付けられた。

弘化3年10月1日特別に御取締御用詰込を仰せ付けられていたところ、格別に心配りをしたと云う事で、御紋附御小袖と御袷御羽織を下された。

同月11日来年の御参勤の御供を仰せ付けられた。同4年3月9日出発し、同4月11日江戸に到着した。

嘉永元年2月今年殿さまが帰国される御供を仰せ付けられたところ、太守様が御疝(せん=腹が急に痛む)癪の病気のため出発を延期されたので、そのまま詰めていたが、嘉永元年6月21日この秋に熊本へ戻り、来年春に出府するよう命じられた。

嘉永元年6月25日数年に亘り、精を出し勤務したので、御紋付御上下一揃いと、御帷子一つを下された。

嘉永元年年8月18日江戸を出発、同9月19日熊本へ到着。嘉永2年2月熊本を出発、嘉永2年3月28日江戸に到着した。

嘉永2年7月4日 勇姫様の御婚禮の御用係を仰せ付けられた。嘉永2年12月、来年御殿さまが帰国される御供を仰せ付けられた。

嘉永2年12月15日 勇姫様の御婚禮の御用係を勤め、今度の御引越も無事に終わったのをお祝いされ、御紋附御上下一具と、御小袖一つを下された。

嘉永3年2月15日今年御帰国の御供を仰せ付けられ、同5月18日御殿さまの御供で江戸を出発し、同6月26日熊本に到着した。

嘉永3年9月27日来年の御参勤の御供を仰せ付けられ、嘉永4年3月15日御發駕の御供で出発し、同4月19日江戸に到着した。

嘉永5年2月18日今年は直ちに詰越(越年)を仰せ付けられ、白金の中屋敷詰を仰せ付けられた。嘉永5年10月9日 若殿様の御入国の御供調を仰せ付けられた。

嘉永6年2月5日今年は若殿様の御供で、4月11日江戸を出発し、5月16日熊本に着いた。

嘉永7年4月4日用意が済次第、江戸へ登ることを仰せ付けられ、同4月28日熊本を出発、嘉永7年5月26日江戸に到着した。

安政元年11月11日来年の御殿様の帰国の御供を仰せ付けられ、安政2年3月7日御供で江戸を出発同4月16日熊本に着。翌17日から病気のため引入(一時的に仕事を休む)を申し入れた。

安政2年5月15日長谷川十之允組の御番頭を仰せ付けられたが、病気の為仕事をすることが難しくなったため、仕事をお断り申し上げたく、同8月お願いしたところ、同10月15日願通り御免遊ばされ、御留守居大頭の組に加えられ、座席は今迄の通として仰せ付けられ、様々な御役を数年に亘り精を出し相勤め、江戸に於いては御側備などの主役になり、格別な心配りをしたので、御紋付縮緬袷御羽織一を頂戴した。

安政3年1月11日御小姓頭を仰せ付けられた。今年の春に江戸へ行くよう仰せ付けられた。同2月18日御殿さまが発駕され同じ日に熊本を出発し、安政3年3月26日江戸に到着した。

安政3年12月来年に御殿さまが帰国されるので、その御供調を仰せ付けられた。

安政4年2月7日今年の春に御殿さまが帰国される御供を仰せ付けられた。安政4年4月御供で江戸を出発同5月26日熊本に着き、同閏5月3日座席掛持ちで、御用人を仰せ付けられた。

安政4年9月17日昨年の冬に、御殿さまが中将に御拝任になられたので、御祝御能を執り行うので、この御用かかりを仰せ付けられた。同11月5日、この御用懸を勤めたので、御祝い遊ばされ、御紋付御長上下一具と御小袖一を戴いた。

同年12月7日来年春に江戸へ行くよう仰せ付けられた。

白金中屋敷詰を仰せ付けられた。同5年1月15日御殿さまの御発駕と同時に出発し、御行列を待つ用直ちに仰せ付けられ、同2月12日出発し、陸路中国通目勘で江戸に向かった。

同3月21日到着。同日江戸表着き、白金の中屋形詰た。同年12月19日、来年に若殿様が江戸城へ御参府の上、直ちに龍之口の上屋敷で待機するよう仰せ付けられたので、江戸に着くと、龍之口の上屋敷へ引越をした。

同6年1月6日白金中屋敷に詰めている間、一橋徳川家の御用係を仰せ付けられた。同9日この春直ちに一橋徳川家の御館に相詰るよう仰せ付けられた。

万延元年1月21日 御家督御礼の節に、徳川幕府公義の御目見をされた折に、御達しがあった。同年3月27日暫くの間御近習御次支配の御用を兼務する様に仰せ付けられ、これと同じ日に濱町の御屋敷の御用請込(うけこみ)を仰せ付けられ、同年4月9日御屋敷詰めや、旅行共に数年に亘り精を出し相勤めたので、座席は上着座同列を仰せ付けられた。

同年4月5日勇姫様が御懐妊されたところ、主人の松平春嶽様が謹慎中だったので表向はお披露目は行わなかったので、御用懸は命じられなかったが、色々の御用懸は同様に心得て諸御用を扱う様に御家老の間で蔵人殿から言葉でのお達しがあった。

同年9月17日泰厳院様がご逝去され、同6月17日御遺髪を熊本に届けるよう、熊本に下ることになり、木曽中国路を渡し越し来る。23日ここに御着遊ばされるよう御達しがあったので、同日江戸を出発同8月9日に着き、直ちに妙解寺へ入り、御遺髪・御影(みかげ)・御霊位を奉納し直ちに御花畑の御屋敷に行き、遺影の御筆の御懸物を御宝蔵へ奉納した。

同年同月21日この度、御入国の御用懸を仰せ付けられた。同9月21日御葬式並びに御法事の御用懸を勤めたので、御紋附御袷羽織、御小袖を下さる事、少将御拝任について御祝御能の御用懸も仰せ付けられたので、中之間に於いて御用番が口頭でのお達しがあった。

同11月25日御家督の御祝を遊ばされ、御紋附御上下一具と御小袖を下さった。

同12月16日御用人の役を御免遊ばされ、座席は元の通り中着座を仰せ付けられ、堀丹右衛門組に差し加えられた。

同2年2月11日御殿さまの御入国の御用懸と御任官御用懸をも相い勤めたので、御紋付御上下、同じく小袖、縮緬袷羽織を下さった。

同じ月の12日死去した。享年62歳であった。熊本の高麗門妙立寺に葬る。

法名 眞性院殿自せん(言+全)義順日達居士

 

最初は桃という名で 母は九代武久の実の娘である寿喜。

文政7年甲申(1824)2月13日出生。初めは平野常之助に嫁ぐが、その後離縁。

明治27年(1894)5月2日死去した。

高麗門妙立寺に葬る。法名は 智慶院妙徳日悟大姉

嘉寿  

最初は久喜という名で 母は上記と同じ。

   文政10年丁亥(1827)2月20日出生。 

初めは力士の片山家(旧八幡力士前嫁いだが、離縁し、後に志方半之尉の妻となる。

貴女  

母は上記と同じ。 文政12年(1829)出生したが、同じ年の5月1日病死した。

高麗門妙立寺葬 法名は 夏月嬰族。

數衛  

母は上記と同じ。 天保4年(1833)3月28日出生。 同8年(1837)10月13日に病死した。 

墓は上と同じ 高麗門妙立寺葬 法名は、 蓮現瑞光童

熊之助 

母は上記と同じ。十一代当主

又熊  

母は上記と同じ

直熊   

母は上記と同じ。十二代当主

志茂五郎 

母は上記と同じだが、早世した。法名は篤峯英顔

乙五郎 

母は上記と同じだが、早世した。

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はじめに

2 高見家関連年表
3 本国及び初代和田勝五郎重治(後高見権右衛門重治) 4 二代高見権右衛門重政
5 三代高見権之助 6 四代高見三右衛門
7 五代高見権右衛門政武 8 六代高見権右衛門
9 七代高見権之助政朱 10 八代高見右源太政信
11 九代高見數衛政久(後権右衛門武久) 12
十代高見嶋之助武棟(後権右衛門武棟)
13 十一代高見熊之助(後嶋之助) 14