白金中屋敷詰を仰せ付けられた。同5年1月15日御殿さまの御発駕と同時に出発し、御行列を待つ用直ちに仰せ付けられ、同2月12日出発し、陸路中国通目勘で江戸に向かった。
同3月21日到着。同日江戸表へ着き、白金の中屋形へ詰た。同年12月19日、来年に若殿様が江戸城へ御参府の上、直ちに龍之口の上屋敷で待機するよう仰せ付けられたので、江戸に着くと、龍之口の上屋敷へ引越をした。
同6年1月6日白金中屋敷に詰めている間、一橋徳川家の御用係を仰せ付けられた。同9日この春直ちに一橋徳川家の御館に相詰るよう仰せ付けられた。
万延元年1月21日 御家督御礼の節に、徳川幕府公義の御目見をされた折に、御達しがあった。同年3月27日暫くの間御近習御次支配の御用を兼務する様に仰せ付けられ、これと同じ日に濱町の御屋敷の御用請込(うけこみ)を仰せ付けられ、同年4月9日御屋敷詰めや、旅行共に数年に亘り精を出し相勤めたので、座席は上着座同列を仰せ付けられた。
同年4月5日勇姫様が御懐妊されたところ、主人の松平春嶽様が謹慎中だったので表向はお披露目は行わなかったので、御用懸は命じられなかったが、色々の御用懸は同様に心得て諸御用を扱う様に御家老の間で蔵人殿から言葉でのお達しがあった。
同年9月17日泰厳院様がご逝去され、同6月17日御遺髪を熊本に届けるよう、熊本に下ることになり、木曽中国路を渡し越し来る。23日ここに御着遊ばされるよう御達しがあったので、同日江戸を出発同8月9日に着き、直ちに妙解寺へ入り、御遺髪・御影(みかげ)・御霊位を奉納し直ちに御花畑の御屋敷に行き、遺影の御筆の御懸物を御宝蔵へ奉納した。
同年同月21日この度、御入国の御用懸を仰せ付けられた。同9月21日御葬式並びに御法事の御用懸を勤めたので、御紋附御袷羽織、御小袖を下さる事、少将御拝任について御祝御能の御用懸も仰せ付けられたので、中之間に於いて御用番が口頭でのお達しがあった。
同11月25日御家督の御祝を遊ばされ、御紋附御上下一具と御小袖を下さった。
同12月16日御用人の役を御免遊ばされ、座席は元の通り中着座を仰せ付けられ、堀丹右衛門組に差し加えられた。
同2年2月11日御殿さまの御入国の御用懸と御任官御用懸をも相い勤めたので、御紋付御上下、同じく小袖、縮緬袷羽織を下さった。