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ブ ロ グ | ||
2.高見家関連年表 (細川氏系譜)
西暦
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元号
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改元
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将軍・細川藩
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高見家本家関連事象
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高見家分家関連事象
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1554 |
天文23
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1571 |
元亀2
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藤孝 勝竜寺城主となる。6月まで信長の意思を足利義明に披露する取次をしていたが、10月14日付の朱印状により信長との主従関係を形成した。
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1573 |
天正1
|
7/28~ |
忠興公10歳
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1574 |
天正2
|
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1575 |
天正3
|
信長により丹波二郡の国衆を藤孝の軍事指揮下に入れる。
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1576 |
天正4
|
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1577 |
天正5
|
14歳 |
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1578 |
天正6
|
忠興 元服忠興と名乗る。勝竜寺城にてガラシャと結婚、新婚時代を過ごす。
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1579 |
天正7
|
藤孝丹後國を与えられる 信長、光秀に丹波攻め命令(第二次黒井城の戦) |
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1580 |
天正8
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藤孝山城西岡から丹後宮津へ移封、鳥取城の攻略にあたる。 忠興嫡男忠隆(長岡休無)誕生 |
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1581 |
天正9
|
藤孝 丹後に入封
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1582 |
天正10
|
6月2日本能寺の変により信長死去。 6月13日山崎の戦いにより、秀吉光秀を討つ。7月秀吉と藤孝父子との間で入魂を約した起請文を交換。 |
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1583 |
天正11
|
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1584 |
天正12
|
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1585 |
天正13
|
7月5日 大阪・京都・伊勢大地震 11月29日 天正地震(東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震)M8クラスが3回 |
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1586 |
天正14
|
4月幽斎(藤孝)秀吉から山城国西岡に3千石の所領を給与される。 忠利公生誕 |
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1587 |
天正15
|
6月豊臣秀吉は九州平定の後佐々成政に隈本城を与え肥後の領主とする
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1588 |
天正16
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閏5月佐々成政尼崎にて賜死、秀吉肥後を二分し加藤清正に隈本城を、小西行長に宇土城を与える
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1589 |
天正17
|
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1590 |
天正18
|
2月16日 安房地震
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1591 |
天正19
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1592 |
天正20
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文禄 1
|
12/ 8~ |
2月清正朝鮮に出兵、8月秀吉、阿蘇惟光を殺さしむ
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1593 |
文禄 2
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忠興公満30歳 忠隆公満13歳
|
和田庄五郎丹後宮津へ召出される |
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1594 |
文禄 3
|
知行2百石 細川忠隆公の御附
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1595 |
文禄 4
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1596 |
文禄 5
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閏7月9日 慶長伊予地震 M7.0 閏7月12日 慶長豊後地震 M7.8 閏7月13日 慶長伏見地震 M7.5 |
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慶長 1
|
10/27~ | ||||
1597 |
慶長 2
|
12月清正蔚山籠城
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1598 |
慶長 3
|
8月秀吉死去、10月頃清正ら帰還
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1599 |
慶長 4
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1600 |
慶長 5
|
9月関ケ原合戦。戦後清正は行長の領地を加え一躍54万石の領主となる。細川藩豊前中津藩に移封。幽斎67歳。忠興公39歳。忠隆公23歳
|
初代 和田勝五郎 忠隆公に従い岐阜関ケ原に参戦
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1601 |
慶長 6
|
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1602 |
慶長 7
|
小倉城建立移封 |
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1603 |
慶長 8
|
初代徳川家康 江戸城天下普請始まる |
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1604 |
慶長 9
|
細川忠隆廃嫡追放さる 27歳 細川竹千代(後の忠利)世子となる 12月16日 慶長地震(関東から九州) M8 |
|
||
1605 |
慶長10
|
二代徳川秀忠
|
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1606 |
慶長11
|
||||
1607 |
慶長12
|
隈本新城落成。隈本を熊本と改称する 2月家康書札礼を整えるため、幽斎に対して問い、室町家式三巻を提出。これにより家康との関係が強化される。 |
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1608 |
慶長13
|
||||
1609 |
慶長14
|
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1610 |
慶長15
|
2代 誕生
|
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1611 |
慶長16
|
2月二条城会見、清正秀頼を守護す。6月24日清正死す
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初代 一時結城秀康公に仕えた後、京都に在住時、忠興公に呼ばれ小倉城に帰参。500石で番頭。和田庄五郎から高見権右衛門と改名。 |
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1612 |
慶長17
|
6月清正一周忌日遥上人ら法華経8巻を頓写す
|
2代弟 少五郎重治小倉にて誕生
|
初代 少五郎重治小倉にて誕生
|
|
1613 |
慶長18
|
||||
1614 |
慶長19
|
||||
1615 |
慶長20
|
||||
元和 1
|
7/13~ |
武家諸法度制定
|
|||
1616 |
元和 2
|
||||
1617 |
元和 3
|
||||
1618 |
元和 4
|
忠興公満55歳
|
|||
1619 |
元和 5
|
2代光尚公生誕
|
|||
1620 |
元和 6
|
||||
1621 |
元和 7
|
|
|||
1622 |
元和 8
|
||||
1623 |
元和 9
|
三代徳川家光
|
|||
1624 |
元和10
|
||||
寛永 1
|
2/30~ | ||||
1625 |
寛永 2
|
6月17日肥後で大地震発生。城の天守その他甚大な被害発生。城内の死者は50名。火薬庫から出火。周囲800mの家は跡形もなくなった。
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1626 |
寛永 3
|
側者頭(17歳) 4月2代100石加増 都合200石 |
4月初代 少五郎重治(16才)知行100石 |
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1627 |
寛永 4
|
||||
1628 |
寛永 5
|
||||
1629 |
寛永 6
|
||||
1630 |
寛永 7
|
正月2代 150石加増 都合350石(21歳)
|
|||
1631 |
寛永 8
|
||||
1632 |
寛永 9
|
||||
1633 |
寛永10
|
正月21日小田原大地震小田原城崩壊。2月末から5月まで熊本度々地震発生。5月大雨で球磨川氾濫。八代城は二の丸まで浸水。
忠利公参勤 9月12日発・10月10日着 |
9月 初代 150石加増(23歳)
|
||
1634 |
寛永11
|
幕府の許可を得て熊本城の修復に数年にわたって取り掛かる。
忠利公就封 5月9日発・8月13日着 |
12月2代 171石4斗加増 都合521石4斗(25歳)
|
||
1635 |
寛永12
|
12月小笠原玄也一家切支丹の故を以て殺さる。 7月25日台風により家屋3万軒が家屋損壊。 武家諸法度改訂 参勤交代の義務化(制度は忠利公による献策に基づく) 忠利公参勤 1月16日発・2月14日着 |
初代 江戸に登り江戸城二の丸拡張工事に参加
|
||
1636 |
寛永13
|
江戸城公儀御普請始まり、石垣普請を担当、伊豆に石切場を確保。 6月16日忠利公花畑屋敷に居住。 忠利公就封 5月13日発・6月9日着 |
|||
1637 |
寛永14
|
7月立田山麓泰勝寺建つ。 10月島原の乱おこり、天草の切支丹も蜂起して島原に応ず
忠利公参勤 3月20日発・閏3月9日着 光尚公就封 11月15日発・12月6日着 |
島原一揆の折忠利公のお供(28歳) |
||
1638 |
寛永15
|
原城陥落。細川勢は大手から一番乗りをする
忠利公就封 1月12日発・1月25日着 光尚公参勤 3月15日発・4月9日着 |
初代 島原の陣に参加、手負。鉄砲係頭(28歳) |
||
1639 |
寛永16
|
忠利公参勤 2月26日発・3月23日着 光尚公就封 4月16日発・5月7日着 |
|||
1640 |
寛永17
|
2月宮本武蔵細川忠利に仕え熊本に来往す 忠利公就封 5月18日発・6月12日着 |
|||
1641 | 寛永18 | ||||
1642 |
寛永19
|
光尚公就封 5月14日発・6月12日着 |
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1643 |
寛永20
|
3月阿部一族の騒動起こる。10月宮本武蔵岩殿観音にこもって兵法五輪の書を書く。この年小堀流踏水術始まる 3代綱利公生誕 光尚公参勤 3月19日発・4月17日着 |
2月 2代 阿部一族討手に裏門指揮役として参加
(34歳)
|
||
1644 |
寛永21
|
7月 2代 300石加増 都合821石4斗(35歳)
|
|||
正保 1
|
12/16~ |
光尚公就封 6月13日発・7月11日着 |
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1645 |
正保 2
|
参勤規模 知行取149、同下々1266、切米取1305計2720名。5月19日宮本武蔵没享年62歳 12月26日三齊様(忠興公)八代で没す享年85歳 光尚公参勤 2月12日発・3月12日着 |
|||
1646 |
正保 3
|
宇土藩成立。松井氏八代へ
光尚公就封 6月13日発・7月11日着 |
|||
1647 |
正保 4
|
長崎聞役(留守居)制度確立
光尚公参勤 3月13日発・4月4日着 |
妙解院様・真源院様の当代江戸城へお供(38歳)
|
||
1648 |
正保 5
|
||||
慶安 1
|
2/15~ |
光尚公就封 2月14日発・3月3日着 |
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1649 |
慶安 2
|
光尚公参勤 3月3日発・3月25日着(万治3年まで滞府) 夏 阿蘇中岳噴火。 12月26日2代光尚公江戸にて病死。享年31歳 |
|||
1650 |
慶安 3
|
3代細川綱利(妙應院様)細川綱利襲封 |
使番触頭 妙應院様の代に度々江戸へお供 |
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1651 |
慶安 4
|
四代徳川家綱
|
隣国への使者を勤める
|
||
1652 |
慶安 5
|
小姓頭(43歳) 3代 幼少時児小姓として江戸に召出される |
初代 鉄砲拾挺頭(44歳) |
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承応 1
|
9/18~ | ||||
1653 |
承応 2
|
3代 その後外様に出る
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1654 |
承応 3
|
||||
1655 |
承応 4
|
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明暦 1
|
4/13~ | ||||
1656 |
明暦 2
|
11月 跡目相続
|
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1657 |
明暦 3
|
||||
1658 |
明暦 4
|
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万治 1
|
7/23~ |
9月吉田司家、京都を離れて細川綱利に仕え熊本に下る
|
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1659 |
万治 2
|
||||
1660 |
万治 3
|
||||
1661 |
万治 4
|
||||
寛文 1
|
4/25~ |
綱利公初而御暇 就封 3月27日発・4月28日着 綱利公参勤 9月18日発・10月22日着 |
8月 3代使番として度々江戸に行く
|
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1662 |
寛文 2
|
2月 2代妻 真如院没
|
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1663 |
寛文 3
|
綱利公就封 8月7日発・9月6日着 |
|||
1664 |
寛文 4
|
綱利公参勤 6月18日発・7月9日着 |
|||
1665 |
寛文 5
|
綱利公就封 5月18日発・6月10日着 |
|||
1666 |
寛文 6
|
人吉新田支藩成立
綱利公参勤 3月4日発・4月13日着 |
8月 初代 知行50石加増、都合200石(62歳)
|
||
1667 |
寛文 7
|
綱利公就封 5月19日発・6月15日着 |
|||
1668 |
寛文 8
|
綱利公参勤 3月4日発・4月4日着 |
|||
1669 |
寛文 9
|
10月肥後藩で陽明学者北島雪山ら24名を追放
綱利公就封 9月6日発・10月2日着 |
|||
1670 |
寛文10
|
綱利公参勤 7月5日発・8月7日着 |
|||
1671 |
寛文11
|
綱利公就封 5月30日発・7月2日着 |
|||
1672 |
寛文12
|
綱利公参勤 2月22日発・3月22日着 |
初代 鉄砲20挺頭(68歳)
|
||
1673 |
寛文13
|
3代 八代へ罷り越17年勤める 8月 3代八代番頭を仰せ付けられ、178石6斗加増 都合千石 |
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延宝 1
|
9/21~ |
綱利公就封 6月14日発・7月10日着 |
|
|
|
1674 |
延宝 2
|
綱利公参勤 2月11日発・3月7日着 |
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1675 |
延宝 3
|
綱利公就封 8月22日発・9月21日着 |
|
10月 初代 隠居。(71歳) 二代 次左衛門重秩200石番方。 11月 小姓組。江戸のお供、大番所の番目付役 |
|
1676 |
延宝 4
|
綱利公参勤 2月14日発・3月13日着 |
|||
1677 |
延宝 5
|
綱利公就封 9月6日発・10月84日着 |
6月 初代 少五郎重治病死(73歳)
|
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1678 |
延宝 6
|
綱利公参勤 9月11日発・10月11日着 |
|||
1679 |
延宝 7
|
綱利公就封 8月22日発・9月22日着 |
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1680 |
延宝 8
|
五代徳川綱吉 地方知行改め蔵前知行となる。大飢饉発生綱利公参勤 7月18日発・8月13日着 |
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1681 |
延宝 9
|
綱利公就封 4月29日発・5月27日着 |
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天和 1
|
9/29~ |
この年僧鉄眼、一切経の刻板完成、後水尾院に奉献
|
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1682 |
天和 2
|
3月鉄眼死す。同月俳人西山宗因死す
綱利公参勤 3月6日発・4月7日着 |
|||
1683 |
天和 3
|
綱利公就封 5月10日発・閏5月7日着 |
|||
1684 | 天和 4 | ||||
貞享 1
|
2/21~ |
綱利公参勤 3月10日発・4月6日着 |
|||
1685 |
貞享 2
|
綱利公就封 5月23日発・6月21日着 |
|||
1686 |
貞享 3
|
綱利公参勤 閏3月6日発・4月6日着 |
|||
1687 |
貞享 4
|
綱利公就封 6月1日発・6月29日着 |
2代 小姓組から番方に 江戸留守詰人馬奉行、賞米奉行 |
||
1688 |
貞享 5
|
綱利公参勤 3月4日発・4月7日着 |
|||
元禄 1
|
9/30~ |
長崎聞役(留守居)制度廃止
|
|||
1689 |
元禄 2
|
綱利公就封 5月11日発・6月10日着 |
|
||
1690 |
元禄 3
|
綱利公参勤 3月4日発・4月4日着 |
|||
1691 |
元禄 4
|
綱利公就封 5月4日発・6月4日着 |
4代 弓弐拾挺頭
|
||
1692 |
元禄 5
|
綱利公参勤 3月4日発・4月4日着 |
|||
1693 |
元禄 6
|
綱利公就封 5月13日発・6月18日着 |
9月 4代 番頭
|
||
1694 |
元禄 7
|
綱利公参勤 3月4日発・4月9日着 |
12月 奥村安左衛門組脇役
|
||
1695 |
元禄 8
|
綱利公就封 8月19日発・9月28日着 |
4代 江戸留守詰(元禄10年4月迄3年間) |
||
1696 |
元禄 9
|
綱利公参勤 3月6日発・4月11日着 |
|||
1697 |
元禄10
|
綱利公就封 5月19日発・6月25日着 |
|||
1698 |
元禄11
|
9月6日龍ノ口上屋敷が勅額火事により焼失
綱利公参勤 3月4日発・4月9日着 |
|||
1699 |
元禄12
|
綱利公就封 8月25日発・9月7日着 |
4月 長崎奉行林藤五郎着任折、小倉へ使者として勤める
|
12月 鉄砲拾挺頭
|
|
1700 |
元禄13
|
綱利公参勤 2月28日発・4月3日着 |
9月 立花英山比奈久温泉湯治折に相詰める(10泊)
|
||
1701 |
元禄14
|
綱利公就封 8月25日発・10月4日着 |
11月 4代 大組附
|
江戸留守詰
|
|
1702 | 元禄15 |
12月15日赤穂浪士の仇討、大石良雄ら17名が江戸藩邸に預けられる
綱利公参勤 2月25日発・4月3日着 |
|||
1703 |
元禄16
|
2月4日大石良雄以下細川氏の芝白金邸にて切腹
綱利公就封 9月28日発・11月5日着 |
12月 番方 上月十郎左衛門組
|
||
1704 |
元禄17
|
綱利公参勤2月25日発・4月2日着(正徳2年まで滞府) |
|||
宝永 1 |
3/13~ |
二代 次左衛門重秩隠居 2月 三代 次左衛門重治 知行200石 番方 上月十郎左衛門組 |
|||
1705 | 宝永 2 | ||||
1706 | 宝永 3 |
7月 3代 病死 12月 4代 八代の番頭 |
2月 償米奉行 |
||
1707 | 宝永 4 |
肥後国地震、人吉城大破。 熊本城下に大火、侍屋敷78戸焼失。 |
3月 小姓組、吉川仁左衛門組 9月 大番所番見張役…翌年7月迄 |
||
1708 | 宝永 5 |
宣紀公就封 6月19日発・7月27日着 |
12月 江戸へ
|
||
1709 | 宝永 6 |
六代徳川家宣
宣紀公参勤 1月27日発・3月3日着 |
1月 江戸着 上野仏殿普請手伝 11月迄務める 12月 上屋敷詰 |
||
1710 | 宝永 7 |
宣紀公就封 7月6日発・8月6日着 |
6月 下国のお供帳調を務める
|
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1711 | 宝永 8 |
宣紀公参勤 2月4日発・3月7日着 |
|||
正徳 1 |
4/25~ |
5月 江戸小姓組の組脇
|
|||
1712 | 正徳 2 |
4月 親病気の江戸より熊本へ
|
|||
1713 | 正徳 3 |
七代徳川家継
宣紀公就封 4月27日発・5月28日着 |
|||
1714 | 正徳 4 |
3代綱利公没
宣紀公参勤 3月4日発・4月11日着 |
|||
1715 | 正徳 5 |
宣紀公就封 4月22日発・5月25日着 |
|||
1716 | 正徳 6 |
宣紀公参勤 閏2月28日発・4月3日着 |
2月18日 知行宛行発給千石
|
閏2月 江戸お供 上屋敷広間取次兼使者、上野火の番
|
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享保 1 |
6/22~ |
八代徳川吉宗 享保の改革 |
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1717 | 享保 2 |
宣紀公就封 4月19日発・5月22日着 |
1月 上屋敷類焼のため下屋敷へ移る 4月 帰国の道中宿取役 5月 熊本着 |
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1718 | 享保 3 |
5代宗孝公生誕
宣紀公参勤 2月27日発・4月1日着 |
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1719 | 享保 4 |
宣紀公就封 4月18日発・5月18日着 |
6月 病気に付き役義ご免
|
||
1720 | 享保 5 |
6代重賢公生誕
宣紀公参勤 2月27日発・4月1日着 |
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1721 | 享保 6 |
宣紀公就封 4月19日発・5月15日着 |
|||
1722 | 享保 7 |
宣紀公参勤 2月27日発・4月2日着 |
4月 5代 妙解寺法会の節火廻 | ||
1723 | 享保 8 |
宣紀公就封 3月27日発・4月24日着 |
8月 4代 病死
|
||
1724 | 享保 9 |
宣紀公参勤 1月27日発・3月1日着 宣紀公就封 10月4日発・11月4日着 |
1月 江戸お供 宿取役、 上屋敷広間取次役、浅草花火の番 10月帰国の宿取役 11月熊本着 奉行所目付役 |
||
1725 | 享保10 | ||||
1726 | 享保11 |
宣紀公参勤 2月4日発・3月6日着 宣紀公就封 10月4日発・11月7日着 |
|||
1727 | 享保12 | ||||
1728 | 享保13 |
宣紀公参勤 1月28日発・3月7日着 宣紀公就封 9月26日発・?月?日着(享保17年迄御滞府) |
|||
1729 | 享保14 |
12月 江戸上屋敷詰
|
|||
1730 | 享保15 |
6月 三代 次左衛門重治、江戸にて病死 9月 四代 次左衛門、知行200石 番方 曽我宇左衛門組 11月 嶋又左衛門組 |
|||
1731 | 享保16 |
|
|||
1732 | 享保17 |
4代宣紀公没 害虫と干ばつによる大飢饉。 宗孝公参勤 7月16日発・8月20日着 |
12月 5代 留守居番頭 千石 |
|
|
1733 | 享保18 |
享保の改革
|
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1734 | 享保19 |
宗孝公就封 4月27日発・6月1日着 |
5代 11月1日 知行宛行状 千石
|
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1735 | 享保20 |
宗孝公参勤 閏3月3日発・4月8日着 |
5代 役義ご免、留守居着座
|
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1736 | 享保21 | ||||
元文 1 | 4/28~ |
宗孝公就封 5月3日発・6月7日着 |
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1737 | 元文 2 |
宗孝公参勤 2月27日発・4月3日着 |
7月 番目付役
|
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1738 | 元文 3 |
宗孝公就封 5月3日発・6月11日着 |
5月 5代 阿蘇下宮 御名代
|
5月迄上記を務め、小姓組 堀次郎左衛門組、花畑広間番のお供
|
|
1739 | 元文 4 |
宗孝公参勤 3月3日発・4月9日着 |
|||
1740 | 元文 5 |
宗孝公就封 4月23日発・5月23日着 |
|||
1741 | 元文 6 | ||||
寛保 1 |
2/27~ |
宗孝公参勤 3月3日発・4月8日着 |
3月 江戸お供 11月御婚礼のときに目黒の長屋筋辻監 |
||
1742 | 寛保 2 |
宗孝公就封 4月27日発・6月1日着 |
4月 八代姫様ご婚礼のお輿のお供、ならびに帰国のお供役 6月 熊本着 |
||
1743 | 寛保 3 |
宗孝公参勤 3月3日発・4月8日着 |
|||
1744 | 寛保 4 | ||||
延享 1 |
2/21~ |
宗孝公就封 4月27日発・6月1日着 |
|||
1745 | 延享 2 |
九代徳川家重
宗孝公参勤 6月18日発・7月19日着 |
|||
1746 | 延享 3 |
宗孝公就封 4月27日発・6月1日着 |
2月 江戸お供にて罷登(同5年秋まで)大目付
|
7月 神谷矢柄組、病気のため小姓組をまぬがれる
|
|
1747 | 延享 4 |
5代細川宗孝江戸で斬られ死亡。重賢兄宗孝のあと襲封
宗孝公参勤 3月4日発・4月8日着 |
4月 5代 八代の番頭
|
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1748 | 延享 5 |
重賢公就封 4月18日発・5月27日着 |
|||
寛延 1 |
7/12~ |
6代細川重賢(霊感院様)12月重賢藩士に直書を下し宿幣五条をあげて匡正を命ず
|
5代 9月1日知行宛行状千石発給
|
||
1749 | 寛延 2 |
宝暦の改革開始
重賢公参勤 2月27日発・4月5日着 |
|||
1750 | 寛延 3 |
重賢公就封 4月28日発・5月29日着 |
|||
1751 | 寛延 4 |
重賢公参勤 2月27日発・4月7日着 |
|||
宝暦 1 |
10/27~ | ||||
1752 | 宝暦 2 |
7月重賢、堀平太左衛門を大奉行に抜擢。のち中老を経て家老となる
重賢公就封 4月25日発・5月27日着 |
5代 2月 用人 6月 新組頭
|
5月 番方 片山カ多門組
|
|
1753 | 宝暦 3 |
重賢公参勤 2月27日発・4月11日着 |
2月 5代 江戸定元での大目付 |
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1754 | 宝暦 4 |
時習館開設
重賢公就封 4月28日発・6月3日着 |
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1755 | 宝暦 5 |
藩校時習館開校 諦了院様生誕
重賢公参勤 2月25日発・4月1日着 |
|||
1756 | 宝暦 6 |
藩政機構改革。7月蕃慈園を、12月再春館を創建
重賢公就封 4月28日発・6月1日着 |
|||
1757 | 宝暦 7 |
重賢公参勤 3月1日発・4月日着 |
|
||
1758 | 宝暦 8 |
重賢公就封 5月3日発・6月4日着 |
6月 長谷川七兵衛組
|
||
1759 | 宝暦 9 |
7代治年公生誕。斉茲公生誕。
重賢公参勤 3月1日発・4月3日着 |
正月より権右衛門と改名
|
||
1760 | 宝暦10 |
十代徳川家治
重賢公就封 8月9日発・9月11日着 |
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1761 | 宝暦11 |
重賢公参勤 3月1日発・4月5日着 |
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1762 | 宝暦12 |
重賢公就封 5月22日発・6月21日着 |
6月 四代 次左衛門病死 7月 五代 次左衛門勝正 知行200石 長谷川七兵衛組 |
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1763 | 宝暦13 |
重賢公参勤 9月1日発・10月5日着 |
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1764 | 宝暦14 | ||||
明和 1 |
6/ 2~ | ||||
1765 | 明和 2 | ||||
1766 | 明和 3 |
就封 5月1日発・6月4日着 |
9月 6代 鉄砲30挺副頭
|
8月 八代城付
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|
1767 | 明和 4 |
重賢公参勤 3月5日発・4月9日着 |
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1768 | 明和 5 |
重賢公就封 5月1日発・6月6日着 |
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1769 | 明和 6 |
重賢公参勤 3月5日発・4月17日着 |
3月 6代 鉄砲10挺頭
|
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1770 | 明和 7 |
重賢公就封 5月3日発・6月8日着 |
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1771 | 明和 8 |
重賢公参勤 3月5日発・4月12日着 |
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1772 | 明和 9 |
1月25日細川斉茲公宇土藩主
|
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安永 1 |
1/16~ |
重賢公就封 4月28日発・6月7日着 |
|||
1773 | 安永 2 |
重賢公参勤 3月27日発・4月8日着 |
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1774 | 安永 3 |
重賢公就封 5月1日発・6月5日着 |
|||
1775 | 安永 4 |
重賢公参勤 3月5日発・4月9日着 治年公初而御暇 就封 9月28日発・11月7日着 |
閏12月 6代病死 相続後在職19年
|
||
1776 | 安永 5 |
重賢公就封 8月6日発・9月7日着 治年公 参勤 4月22日発・6月4日着 安永9年まで在府 |
|||
1777 | 安永 6 |
1月25日細川斉茲公 江戸参勤 規模546名 重賢公参勤 2月28日発・4月3日着 |
|||
1778 | 安永 7 | ||||
1779 | 安永 8 | ||||
1780 |
安永 9
|
重賢公就封 8月22日発・10月2日着 |
|||
1781 | 安永10 |
重賢公参勤 3月7日発・4月12日着 |
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天明 1 |
4/ 2~ |
治年公就封 5月22日発・6月11日着 |
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1782 | 天明 2 |
重賢公就封 8月19日発・10月1日着 治年公参勤 2月19日発・3月23日着 天明4年まで滞府 |
3月 出府
|
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1783 | 天明 3 |
7月浅間山噴火による江戸降灰・鳴動。大雨による利根川決壊・隅田川氾濫
重賢公参勤 3月6日発・4月9日着 |
6月 帰国
|
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1784 | 天明 4 | ||||
1785 | 天明 5 |
6代細川重賢病死(68歳)。治年公、白金から龍ノ口へ移徒 治年公就封 2月15日発・3月18日着 治年公参勤 9月11日発・10月11日着 |
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1786 | 天明 6 |
治年公就封 4月29日発・6月3日着 |
|||
1787 | 天明 7 |
十一代徳川家斉 7代治年公没8代細川斉茲(諦了院様) 36歳 米価高騰し城下打ち壊し 治年公参勤 2月28日発・4月8日着
|
|
||
1788 | 天明 8 |
10月高本紫溟時習館教授となる
斉茲公就封 5月10日発6月21日着(初而御暇) |
知行宛行状 900石(24歳)
|
3月 高見勝平 八代関口流抜刀師役
|
|
1789 | 天明 9 | ||||
寛政 1 |
1/25~ |
9代斉樹公生誕
斉茲公参勤 3月19日発・28日着 |
3月 出府(25歳)
10月12日 7代 病死(28歳) |
||
1790 | 寛政 2 |
斉茲公就封 4月29日発・6月4日着 |
6月 帰国
|
||
1791 | 寛政 3 |
年末高山彦九郎熊本に来り、高本紫溟宅に逗留越年す
斉茲公参勤 2月27日発・4月15日着 |
|||
1792 | 寛政 4 |
島原温泉岳爆発、大津波発生。彦九郎肥後の諸士と交遊、2月薩摩に向かう。7月末豊後路より再び熊本に入り、8月下旬離熊
斉茲公就封 4月19日発・5月25日着 |
|||
1793 | 寛政 5 |
斉茲公参勤 2月25日発・4月9日着 |
6月 使番(29歳)
|
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1794 | 寛政 6 |
斉茲公就封 5月4日発・6月9日着 |
|||
1795 | 寛政 7 |
斉茲公参勤 2月25日発・4月2日着 |
2月 お供にて出府
|
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1796 | 寛政 8 |
斉茲公就封 4月23日発・6月1日着 |
5月 帰国
|
||
1797 | 寛政 9 |
10月 八代城内焼失。紫溟、長瀬真幸とともに伊勢松坂にゆき本居宣長と会う
斉茲公参勤 2月23日発・4月9日着 |
10月 江戸へ早打ちにて指立(33歳) 11月 帰国 |
7月 五代 次左衛門勝正病死 知行家屋敷返上 11月 六代 勝平 七人扶持、中小姓 須佐見素雄組 八代師役をまぬがれる |
|
1798 | 寛政10 |
斉茲公就封 5月7日発・6月13日着 |
2月 留守詰のため出府(34歳) 4月 江戸留守居助勤 |
||
1799 | 寛政11 |
斉茲公参勤 3月4日発・4月11日着 |
5月 当分助勤御免、江戸を立ち6月帰国 9月 留守居助勤として出府(35歳) |
||
1800 | 寛政12 |
斉茲公就封 閏4月15日発・5月23日着 |
10月 助勤御免帰国(36歳)
|
4月 常應院様の御廟番 5月 孫棋院様廣敷番助勤 |
|
1801 | 寛政13 |
~2月 二本木御所番 代参代番、使者お供
|
|||
享和 1 |
2/ 5~ |
斉茲公参勤 2月23日発・3月27日着 |
2月 出府 8代 養子数衛(17歳)を江戸に連れて行く 8月 御目見(37歳) |
|
|
1802 | 享和 2 |
斉茲公就封 5月9日発・6月11日着 |
正月 養子数衛雇われる。(18歳) 6月 帰国 7月中小姓頭(佐藤仙九郎跡)(38歳) |
2月 孫棋院様 廣敷番 4月 同本役 裏方支配役 支配 用番 |
|
1803 | 享和 3 |
斉茲公参勤 2月25日発・3月27日着 |
2月 出府(39歳)
|
1月 孫棋院様葬式の節 力技お供 1月~3月 妙解寺法令時 寺詰 2月 高見右源太組 5月 穿鑿役 |
|
1804 | 享和 4 | ||||
文化 1 |
2/11~ |
10代斉護公生誕
斉茲公就封 8月22日発・10月3日着 |
2月 秋まで留人 10月 帰国(40歳) |
5月 穿鑿役免 所々御目付
|
|
1805 | 文化 2 |
斉茲公参勤 2月4日発・3月14日着 斉樹公就封 5月3日発・6月7日着(初而御暇) |
6月 所々目付本役 足給15石 8月 若殿様の目付 用番 |
||
1806 | 文化 3 |
斉樹公参勤 1月23日発・3月2日着 |
2月 若殿様参府のお供で上京、3月に江戸着 |
||
1807 | 文化 4 |
5月 公儀定例の祈祷の折、阿蘇上宮の名代を勤める(23歳)
|
|||
1808 | 文化 5 |
斉茲公就封 4月28日発・6月7日着 |
10月 休息の為江戸を離れ 12月に熊本着
|
||
1809 | 文化 6 |
斉茲公参勤 5月15日発・6月18日着 |
4月 使番(25歳) 6月犬追物で優秀
|
3月 江戸へ出発し、5月に着 7月 六代 勝平江戸にて病死 |
|
1810 | 文化 7 |
1月 七代 次左衛門武一 7人扶持 中小姓 斎藤又太夫 、堀尉左衛門触組
|
|||
1811 | 文化 8 |
1月 組付中小姓 落合弥次平衛組
|
|||
1812 | 文化 9 |
江戸参勤 規模694名
斉樹公就封 5月1日発・6月3日着 |
10代 養子として御目見(13歳) 8月 お城の御禮(諸作法)の用 9月 知行宛行状 900石 11月 長崎留守居(堀田諸兵衛上座)(28歳) |
||
1813 | 文化10 |
斉樹公参勤 2月27日発・4月6日着 |
3月 長崎詰 留守居 10月 権右衛門と改名(29歳) |
1月 志水久馬助組
|
|
1814 | 文化11 |
斉樹公就封 4月24日発・6月2日着 |
3月 長崎より帰国、中小姓頭(奥田権之允跡) 10月 用人(30歳) |
||
1815 | 文化12 |
斉樹公参勤 2月23日発・3月23日着 |
正月 出府(31歳)
|
3月 堀尾仙太組
|
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1816 | 文化13 |
斉樹公就封 4月24日発・6月7日着 斉茲公御隠居後 就封 閏8月4日発・11月3日着 |
4月 帰国(32歳) 9月 9代 高見家系図作成 9月 大組附(松井直記組) |
||
1817 | 文化14 |
斉樹公参勤 4月21日発・6月18日着 斉茲公参勤 8月7日発・9月29日着 |
|||
1818 | 文化15 |
3月 用人(34歳) |
|||
文政 1 |
4/22~ |
9月 出府 10月 堀尉左衛門上座 |
|||
1819 | 文政 2 |
9月 日光御霊屋向、諸堂社御修復に参加(35歳) 12月 土井大炊頭(土井利厚)が 柳檜の間にて褒賞を申し渡され、翌日御殿から祝品を直接拝領 |
小坂半之允組
|
||
1820 | 文政 3 |
斉茲公就封 2月22日発・4月14日着 斉樹公就封 4月25日発・6月17日着 |
3月 座席中着座同列 8月 日光の拝礼夫より直接お供で帰国 用人(36歳) |
||
1821 | 文政 4 |
斉樹公参勤 9月13日発・10月20日着 |
4月 出府 財津善内と交代 用人(37歳) 12月 篤姫様の縁組のご用掛 |
9月 横山藤左衛門組
|
|
1822 | 文政 5 |
斉樹公就封 4月24日発・5月28日着 |
5月 お供にて帰国(38歳) 9月 来年御参勤のお供調査 |
||
1823 | 文政 6 |
2月14日耇姫誕生 斉樹公参勤 3月27日発・5月6日着 |
3月 出府 濱町屋敷の誕生受け入れのご用(39歳)
|
八代 武之誕生
|
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1824 | 文政 7 |
斉樹公就封 5月15日発・6月17日着 |
6月 お供にて帰国(40歳)
|
兼松群喜組
|
|
1825 | 文政 8 |
斉樹公参勤 9月25日発・12月20日着(病気にかかり東海道関宿に10月20日より11月12日迄御逗留) |
9月 10代 剣術槍術が芸術に近いとして表彰される(26歳) 9月 お供にて罷登(41歳) |
志水淳助組
|
|
1826 | 文政 9 |
9月18日 知行宛行状(斉護公)
|
12月 片山多門組
|
||
1827 | 文政10 |
2月 斉茲公(濱町様)江戸へ向かう 斉護公参勤 3月4日発・4月19日着 |
2月 濱町様のお供にて罷登(43歳)
|
||
1828 | 文政11 |
八代天草地震、阿蘇噴火、城北大洪水西北の突風など大災害。
斉護公就封 4月28日発・6月13日着 |
12月 仮組脇 不破太直組
|
||
1829 | 文政12 |
斉護公参勤 2月28日発・4月3日着 |
正月 座席佐敷 番頭の上座、足高100石 8月 10代 白金御近習御雇 9月國許出発(30歳) 900石(45歳) |
2月 仮組脇から本役へ 足給20石 |
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1830 | 文政13 |
斉護公就封 4月27日発・6月11日着 |
3月 休息で帰国(46歳) 4月 出府 |
||
天保 1 |
12/10~ | ||||
1831 | 天保 2 |
斉護公参勤 3月23日発・4月28日着 |
|||
1832 | 天保 3 |
斉護公就封 5月1日発・6月5日着 |
4月 10代 休息で帰国(33歳) 10月江戸着
|
||
1833 | 天保 4 |
斉護公参勤 3月1日発・4月7日着 |
4月 座席組外同列(49歳) 4月 10代 白金御側取次(同7年5月迄)(34歳) 9月 休息で帰国 10月 罷登 |
||
1834 | 天保 5 | ||||
1835 | 天保 6 |
10月23日8代諦了院様死去 76歳(満年齢)。 慶順公生誕 |
12月 諦了院様御尊骸お供にて帰国(51歳・数え年) 10月 10代 休息で帰国(36歳) 11月江戸着二日後に御尊骸を追い12月1日大蔵谷駅にて追い付く。12日熊本着。18日には南関まで出迎え、20日に熊本着。 |
||
1836 | 天保 7 |
斉護公就封 4月25日発・5月30日着 |
正月 罷登 3月 足高100石地面 100石加増 都合千石(御加増知取付目録)(52歳) |
||
1837 | 天保 8 |
十二代徳川家慶
斉護公参勤 3月11日発・4月17日着 |
|||
1838 | 天保 9 |
斉護公就封 閏4月6日発・5月13日着 |
12月 休息で帰国(54歳)
|
||
1839 | 天保10 |
12代細川護久公誕生
斉護公参勤 2月9日発・3月17日着 |
3月 座席留守居大頭同列、若殿様お守役、足高500石、用人兼務
|
||
1840 | 天保11 |
斉護公就封 5月15日発・6月16日着 |
12月23日九代江戸白金にて逝去。 行年56歳 相続後在職35年 12月23日 先祖附提出 |
12月 竹原九左衛門組
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1841 | 天保12 |
人吉藩内で茸山騒動(百姓一揆) 幕府老中の水野忠邦による天保の改革はじまる 斉護公参勤 4月6日発・5月5日着 |
|||
1842 | 天保13 |
斉護公就封 4月29日発・6月1日着 |
|||
1843 | 天保14 |
斉護公参勤 2月5日発・3月4日着 |
2月 参勤のお供 6月 12代 直熊出生 8月 當年上野火の番 |
||
1844 | 天保15 |
慶前公就封 4月27日発・6月4日着 |
3月 江戸着 6月 別段として御次締り御用詰込 9月 帰国 |
||
弘化 1 |
12/ 2~ | ||||
1845 | 弘化 2 |
慶前公参勤 7月11日発・8月20日着 |
7月 若殿様お供にて罷登
|
||
1846 | 弘化 3 |
斉護公就封 5月22日発・閏5月24日着 |
閏5月 帰国
|
||
1847 | 弘化 4 |
天草の農民による大一揆
斉護公参勤 3月9日発・4月11日着 |
3月 お供にて罷登 100石加増都合千石 知行宛行状 |
||
1848 | 弘化 5 | ||||
嘉永 1 |
2/28~ |
9月 帰国
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1849 | 嘉永 2 |
昭憲皇太后出生(4月17日)
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2月 出府 12月 勇姫様婚礼儀用懸 |
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1850 | 嘉永 3 |
斉護公就封 5月18日発・6月28日着 |
7月 11代 御目見(13歳)
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1851 | 嘉永 4 |
斉護公参勤 3月15日発・4月19日着 |
2月 擬作高100石 番方 長谷川十之允組
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1852 | 嘉永 5 |
斉護公就封 4月24日発・5月25日着 |
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1853 | 嘉永 6 |
十三代徳川家定 ペリーが浦賀に来航、幕命による相模湾沿岸警備 斉護公参勤 2月10日発・3月20日着 慶順公就封 4月12日発・5月16日着 |
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1854 | 嘉永 7 |
慶順公参勤 1月16日発・2月23日着 |
5月 出府
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安政 1 |
11/27~ |
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1855 | 安政 2 |
斉護公就封 3月7日発・4月16日着 |
4月 御供にて帰国 5月 座席持懸にて長谷川十之允組の番頭 10月 病気につき役ご免座席今迄通り留守居大頭組 |
5月 髙見権右衛門組 10月 寺尾九郎左衛門組から江戸城内東門預に移る 12月 城内東御門預から本役に戻り、岩間此面組へ |
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1856 | 安政 3 |
斉護公参勤 2月18日発・3月26日着 慶順公就封 4月11日発・5月13日着 |
正月 座席持懸にて田中典儀跡御小姓頭 2月出府
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1857 | 安政 4 |
慶順公参勤 2月21日発・月日着 斉護公就封 4月21日発・5月26日着 |
5月 お供にて帰国 閏5月 座席持懸にて用人 |
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1858 | 安政 5 |
十四代徳川家茂 井伊直弼が大老となり独断で安政五か国条約締結 斉護公参勤 3月6日発・4月15日着 慶順公就封 5月16日発・6月17日着 |
2月江戸向出発3月江戸着白金詰
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1859 | 安政 6 |
慶順公参勤 2月18日発・3月22日着 |
1月 一橋御用懸
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1860 | 安政 7 |
井伊直弼暗殺され、尊王攘夷運動
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万延 1 |
3/18~ |
6月 国許へ 12月 お役御免にて座席は元の通り中着座、堀丹右衛門組 |
11月 堀七郎兵衛組
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1861 | 万延 2 |
2月 10代62才にて病死 相続後在職19年
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文久 1 |
2/19~ |
在大坂の中島広足時習館国学師範を命ぜられ帰国す
慶順公参勤 8月29日発・10月9日着 |
12月 小笠原一學組
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1862 | 文久 2 |
正月宮部鼎蔵松村深蔵と上京、一旦帰国するが12月再び上京。この年12月横井小楠江戸にて刺客に襲われ危うく難をまぬがる。人吉城下で大火、城全焼。 8月 参勤交代の頻度を3年に一回(300日)とし、大名の在国中は江戸屋敷の家来を減少する。 護久公24歳 慶順公就封 2月24日発・4月1日着 |
閏8月 11代 25才にて隠居 相続後在職1年 11代の養子として相続 50石減封 都合900石(明治7年改正有禄士族基本帳による元高) 大組附、堀丹右衛門組 10月 権右衛門と改(20歳) |
4月 病気の為役職辞退申し入れ 5月 遠坂助右衛門組に替わった後御役御免となる 7月 七代 武一隠居 7月 八代 武之 擬作高百石番方 沢村八之進組 11月 良之助様の宮内付目付助勤 |
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1863 | 文久 3 |
熊本藩・人吉藩が京都警備12月小楠士籍剥奪沼山津に蟄居
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3月 良之助様の宮内付目付本役 9月 御二方様お供で京都へ |
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1864 | 文久 4 |
正月 公儀定例のご祈祷の折、阿蘇上宮の御名代 10月 芦村嘉左衛門組、物奉行(22歳) |
6月 帰着 この間台所賄方料理方等
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元治 1 |
2/20~ |
6月5日京都三条の池田屋に於いて新選組に襲われ宮部鼎蔵、松田重助ら憤死、7月11日川上彦斎、佐久間象山を斬る。7月19日禁門の変、同21日天王山の戦、肥後勤王志士多数死す。
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長州征伐に小荷駄奉行として出軍(22歳)
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1865 | 元治 2 | ||||
慶応 1 |
4/ 7~ |
人吉藩で丑歳騒動(上意打ち)
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10月 良之助様出張のお供で小倉へ
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1866 | 慶応 2 |
小楠甥横井佐平太、同大平兄弟渡米 |
6月 小倉出張(24歳)
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1月 小倉よりお供で下着 8月 良之助様上阪、上京のお供 9月 着阪、着京 10月 御供で下着 その後天草へ御用、三角に嶽狩へ 11月 天草表巡回のお供 |
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1867 | 慶応 3 |
十五代徳川慶喜 熊本藩は廃藩白川藩へ |
9月 八代 次左衛門と改名
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1868 | 慶応 4 |
15代将軍徳川慶喜が大政奉還 4月小楠朝廷の召命にて上京、参与に任ぜらる
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閏4月 病気につき役ご免、 留守居大組附 11月 表取次本役(26歳) |
2月~12月 左京亮様のお供で京都、大阪、東京へ この間御付役助勤
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明治 1 |
9/ 8~ | ||||
1869 | 明治 2 |
1月5日小楠京都で暗殺さる
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10月 小倉戦争の折兵食運送等、帰陣の途中小笠原豊千代丸様方守衛 役名を少司儀と改(27歳) |
1月 左京亮様付の助勤 4月 本役も兼務 5月 同方様上京のお供 8月 上坂し、9月に下着 |
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1870 | 明治 3 |
12代細川護久実学党によって県政を占められ大改革行わる。時習館再春館等廃止。閏10月林桜園死去
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7月 少司儀(28歳) 第二回先祖附提出 |
7月 新御屋形奥掛家従 9月 表家従も兼務 座席 近士然之口 |
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1871 | 明治 4 |
4月横井大平死す。同月和蘭人マンスフェルトを長崎より招聘し古城医学所をひらく。7月廃藩置県、8月鎮西鎮台を熊本に設置す。同月ジェンス米国より来る。9月熊本洋学校を開校す。12月河上彦斎斬刑
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8月 側女中に同道して東京へ 9月 家従兼奥懸 座席 久野加傳の上座 |
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1872 | 明治 5 |
6月白川県となる。同月明治天皇熊本行幸、6月17日より同月20日に至る
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9月 帰縣のお供 10月 妻と共に上京 八代 武之と改名 武之次女・美津子 誕生 |
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1873 | 明治 6 |
5月白川県令として安岡良亮赴任
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7月 武之三女・愛 誕生
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1874 | 明治 7 |
佐賀の乱
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7月 小司儀から白川県十三等庶務課に勤務後直ちに辞職(32才)相続後在職12年
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3月 顕光院様御窺のお供で下縣 4月 上京の御供 5月 東京浜町御邸着 9月 北岡邸御子様付の為家族同道で東京出発 10月着縣 |
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1875 | 明治 8 |
昭憲皇太后(27歳) 4月植木学校認可 |
宮内省に雑掌として勤務(33歳)
9月 祖厚娘満寿出生(33歳)
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7月 顕光院様凶変の言上で神戸へ。今戸様・濱町様に言上其の後東京へ 8月下縣 9月 武之四女・ツク 誕生 |
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1876 | 明治 9 |
1月30日花岡山上にて熊本バンド結盟、2月白川県を熊本県と改む。3月廃刀令。6月断髪令。10月24日神風連の変おこる 11代慶順公没 |
2月 御子様付家従 10月 神風連の乱を避け、御子様方 宇土桂原別邸へ避難の御供 |
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1877 | 明治10 |
2月西郷挙兵、薩軍熊本城にせまる。同月19日熊本城天守閣焼失、火は城下に延焼す。同月21日協同隊挙兵、22日熊本隊挙兵、直ちに参戦、3月3日より田原坂の激戦、4月20日御船の血戦、8月17日熊本隊協同隊官軍に投降、9月24日西郷隆盛自刃。12月熊本隊池辺吉十郎ら幹部斬首さる
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2月 戦火(西南の役)を避け所々御立退きのお子様方のお供 4月 北岡へ帰邸のお供 5月 上京 今戸・濱町両邸勤務 |
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1878 | 明治11 |
2月 帰縣のお供 3月 北岡邸守衛 四人扶持 高岡一太郎上座
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1879 | 明治12 |
佐々友房ら同心学者をおこす。同じころ山田武甫、徳富一敬らは共立学舎を設立す
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8月 祖厚二男安次出生 |
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1880 | 明治13 |
3月 お子様附家従 4月 嘉壽子様 細川興増殿との内縁約の引越しのお供 |
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1881 | 明治14 |
同心学舎を濟々黌と改称
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1882 | 明治15 |
3月徳富蘇峰「大江義塾」をおこす
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61883 | 明治16 |
宮内省辞職熊本東禅寺内に無何有庵建立閑居する(41歳)
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三位様のご墓参りで下縣中の護久公お側向ご用 8月 帰京のお供 9月着縣 |
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1884 | 明治17 |
1月 隠居の上 長男 純一郎に家督を相続させる旨を戸長へ届る(八代武之61歳) 7月 発病 |
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1885 | 明治18 |
熊本神宮協会長を3年間務める(43歳)
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1886 | 明治19 |
蘇峰「将来の日本」を刊行、11月大江義塾を閉じ上京
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3月 嘉壽子様と志津子様の上京のお供 6月 お供にて下縣 12月 志津子様 阿蘇惟孝様とのご縁約お輿入れの諸ご用 |
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1887 | 明治20 |
5月第五高等学校熊本に設立さる
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伊勢参宮日記
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2月 北岡邸住居跡並びに奥向守衛 3月 志津子様引越済につき、退職の内意奉願(八代武之64歳) |
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1888 | 明治21 |
10月 嘉壽子様婚礼ご用懸
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1889 | 明治22 |
3月~5月 三位様ご墓参りで滞縣中の御家御付家従 5月 嘉壽子様御婚礼の諸ご用 |
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1890 | 明治23 |
3月 三位様帰縣の諸用を務める 4月 奥方様着縣に当たり二所様のご用 6月 側女中春竹村へ移転 居間守衛として居間次の間へ家族と引越 10月 嘉壽子様凶変の上申で東京へ |
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1891 | 明治24 |
11月小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)松江より五高教師として熊本に赴任
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11月祖厚長男日子太郎没
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1892 | 明治25 | ||||
1893 | 明治26 |
9月 12代藩主護久公没(54歳)
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9月 剃髪法衣となり東京白山龍雲院に閑居(51歳)
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1894 | 明治27 |
八雲熊本を去る
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京都大徳寺高桐院に自在庵を建立20年間三齊公の菩提を弔う(52歳)
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8月 八代武之三女 愛が中山家へ嫁ぐ
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1895 | 明治28 |
9月 八代武之逝去(72歳)
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1896 | 明治29 |
夏目漱石、松山より五高教授として熊本に来る
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1897 | 明治30 | ||||
1898 | 明治31 | ||||
1899 | 明治32 |
2月森鴎外第12師団軍医部長として小倉に赴任。~1902年3月
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1900 | 明治33 |
7月漱石熊本を去り、9月英国留学の途に上る
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1901 | 明治34 | ||||
1902 | 明治35 | ||||
1903 | 明治36 | ||||
1904 | 明治37 |
7月 中山家四男 宗道誕生
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1905 | 明治38 | ||||
1906 | 明治39 | ||||
1907 | 明治40 | ||||
1908 | 明治41 | ||||
1909 | 明治42 |
9月 武之長女 若子逝去
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1910 | 明治43 |
「寒山詩偈賛歌」出版(68歳)
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1911 | 明治44 | ||||
1912 | 明治45 |
一月十日祖厚妻道没
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6月 武之次女 美津子逝去
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大正 1
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1913 | 大正 2 |
1月森鴎外「中央公論」に「阿部一族」を発表
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1914 | 大正 3 | ||||
1915 | 大正 4 |
6月 京都より島原魁村に移り無何有庵を建立
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1916 | 大正 5 | ||||
1917 | 大正 6 |
9月祖厚没(75歳)
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2月 武之妻 ナツ逝去
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1918 | 大正 7 | ||||
1919 | 大正 8 | ||||
1920 | 大正 9 | ||||
1921 | 大正10 | ||||
1922 | 大正11 |
9月祖厚娘満寿没
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1922 | 大正12 | ||||
1923 | 大正13 | ||||
1924 | 大正14 | ||||
1925 | 大正15 | ||||
昭和 1 |
12/25~ | ||||
1926 | 昭和 2 | ||||
1927 | 昭和 3 | ||||
1928 | 昭和 4 |
6月 武之四女 ツク逝去 7月 中山家四男 髙見家へ |
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1929 | 昭和 5 | ||||
1930 | 昭和 6 | ||||
1931 | 昭和 7 | ||||
1932 | 昭和 8 | ||||
1933 | 昭和 9 | ||||
1934 | 昭和10 | ||||
1935 | 昭和11 | ||||
1936 | 昭和12 | ||||
1937 | 昭和13 | ||||
1938 | 昭和14 |
3月 武之三女 中山愛 逝去
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