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2.高見家関連年表 (細川氏系譜)

西暦
元号
改元
将軍・細川藩
高見家本家関連事象
高見家分家関連事象
1554
天文23
1571
元亀2
 
藤孝 勝竜寺城主となる。6月まで信長の意思を足利義明に披露する取次をしていたが、10月14日付の朱印状により信長との主従関係を形成した。
1573
天正1
7/28~
忠興公10歳
1574
天正2
1575
天正3
信長により丹波二郡の国衆を藤孝の軍事指揮下に入れる。
1576
天正4
1577
天正5

2代細川忠興(三斎様)

14歳

1578
天正6
忠興 元服忠興と名乗る。勝竜寺城にてガラシャと結婚、新婚時代を過ごす。
1579
天正7

藤孝丹後國を与えられる

信長、光秀に丹波攻め命令(第二次黒井城の戦)

1580
天正8

藤孝山城西岡から丹後宮津へ移封、鳥取城の攻略にあたる。

忠興嫡男忠隆(長岡休無)誕生

1581
天正9
藤孝 丹後に入封
1582
天正10

6月2日本能寺の変により信長死去。

6月13日山崎の戦いにより、秀吉光秀を討つ。7月秀吉と藤孝父子との間で入魂を約した起請文を交換。

1583
天正11
1584
天正12
1585
天正13

7月5日 大阪・京都・伊勢大地震

11月29日 天正地震(東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震)M8クラスが3回

1586
天正14

4月幽斎(藤孝)秀吉から山城国西岡に3千石の所領を給与される。

忠利公生誕

1587
天正15
6月豊臣秀吉は九州平定の後佐々成政に隈本城を与え肥後の領主とする
1588
天正16
閏5月佐々成政尼崎にて賜死、秀吉肥後を二分し加藤清正に隈本城を、小西行長に宇土城を与える
1589
天正17
1590
天正18
2月16日 安房地震
1591
天正19
1592
天正20
文禄 1
12/ 8~
2月清正朝鮮に出兵、8月秀吉、阿蘇惟光を殺さしむ
1593
文禄 2
忠興公満30歳 忠隆公満13歳

初代和田勝五郎重治   

和田庄五郎丹後宮津へ召出される

1594
文禄 3
知行2百石 細川忠隆公の御附
1595
文禄 4
1596
文禄 5

閏7月9日 慶長伊予地震 M7.0

閏7月12日 慶長豊後地震 M7.8

閏7月13日 慶長伏見地震 M7.5

慶長 1
10/27~
1597
慶長 2
12月清正蔚山籠城
1598
慶長 3
8月秀吉死去、10月頃清正ら帰還
1599
慶長 4
1600
慶長 5
9月関ケ原合戦。戦後清正は行長の領地を加え一躍54万石の領主となる。細川藩豊前中津藩に移封。幽斎67歳。忠興公39歳。忠隆公23歳
初代 和田勝五郎 忠隆公に従い岐阜関ケ原に参戦
1601
慶長 6
1602
慶長 7

小倉城建立移封

1603
慶長 8

初代徳川家康

江戸城天下普請始まる
1604
慶長 9

細川忠隆廃嫡追放さる 27歳

細川竹千代(後の忠利)世子となる

12月16日 慶長地震(関東から九州) M8

 

 

1605
慶長10
二代徳川秀忠
1606
慶長11
1607
慶長12

隈本新城落成。隈本を熊本と改称する

2月家康書札礼を整えるため、幽斎に対して問い、室町家式三巻を提出。これにより家康との関係が強化される。

1608
慶長13
1609
慶長14
1610
慶長15
2代 誕生
1611
慶長16
2月二条城会見、清正秀頼を守護す。6月24日清正死す

初代 一時結城秀康公に仕えた後、京都に在住時、忠興公に呼ばれ小倉城に帰参。500石で番頭。和田庄五郎から高見権右衛門と改名。

1612
慶長17
6月清正一周忌日遥上人ら法華経8巻を頓写す
2代弟 少五郎重治小倉にて誕生
初代 少五郎重治小倉にて誕生
1613
慶長18
1614
慶長19
1615
慶長20
元和 1
7/13~
武家諸法度制定
1616
元和 2
1617
元和 3
1618
元和 4
忠興公満55歳

3月23日初代間七大夫宛伺い書発給、忠興公から返事を戴く。初代在職25年(但し一時外様)

2代高見権右衛門重政

初代病死により2代相続、当時9才。 知行100石を拝領

1619
元和 5
2代光尚公生誕
1620
元和 6
1621
元和 7
1622
元和 8
1623
元和 9
三代徳川家光
1624
元和10
寛永 1
2/30~
1625
寛永 2
6月17日肥後で大地震発生。城の天守その他甚大な被害発生。城内の死者は50名。火薬庫から出火。周囲800mの家は跡形もなくなった。
1626
寛永 3

側者頭(17歳)

4月2代100石加増 都合200石

 

4月初代 少五郎重治(16才)知行100石

1627
寛永 4
1628
寛永 5
1629
寛永 6
1630
寛永 7
正月2代 150石加増 都合350石(21歳)
1631
寛永 8
1632
寛永 9

初代熊本藩主細川忠利

6月加藤忠広領知没収出羽庄内1万石となる。子光正は飛騨高山に配流。8月豊前小倉の細川忠利肥後領主に任ぜられ12月熊本城に入る

三斎様は八代城へ隠居される

1633
寛永10
正月21日小田原大地震小田原城崩壊。2月末から5月まで熊本度々地震発生。5月大雨で球磨川氾濫。八代城は二の丸まで浸水。

忠利公参勤 9月12日発・10月10日着

9月 初代 150石加増(23歳)
1634
寛永11
幕府の許可を得て熊本城の修復に数年にわたって取り掛かる。

忠利公就封 5月9日発・8月13日着

12月2代 171石4斗加増 都合521石4斗(25歳)
1635
寛永12

12月小笠原玄也一家切支丹の故を以て殺さる。

7月25日台風により家屋3万軒が家屋損壊。

武家諸法度改訂 参勤交代の義務化(制度は忠利公による献策に基づく)

忠利公参勤 1月16日発・2月14日着

初代 江戸に登り江戸城二の丸拡張工事に参加
1636
寛永13

江戸城公儀御普請始まり、石垣普請を担当、伊豆に石切場を確保。

6月16日忠利公花畑屋敷に居住。

忠利公就封 5月13日発・6月9日着

1637
寛永14
7月立田山麓泰勝寺建つ。 10月島原の乱おこり、天草の切支丹も蜂起して島原に応ず

忠利公参勤 3月20日発・閏3月9日着

光尚公就封 11月15日発・12月6日着

島原一揆の折忠利公のお供(28歳)

1638
寛永15
原城陥落。細川勢は大手から一番乗りをする

忠利公就封 1月12日発・1月25日着

光尚公参勤 3月15日発・4月9日着

初代 島原の陣に参加、手負。鉄砲係頭(28歳)

1639
寛永16

忠利公参勤 2月26日発・3月23日着

光尚公就封 4月16日発・5月7日着

1640
寛永17

2月宮本武蔵細川忠利に仕え熊本に来往す

忠利公就封 5月18日発・6月12日着

1641 寛永18
2代細川光尚(真源院様)3月初代忠利公卒去。阿部弥一右衛門ら19士殉死

光尚公就封 5月19日発・6月14日着

光尚公参勤 9月29日発・10月26日着

1642
寛永19

光尚公就封 5月14日発・6月12日着

1643
寛永20

3月阿部一族の騒動起こる。10月宮本武蔵岩殿観音にこもって兵法五輪の書を書く。この年小堀流踏水術始まる

3代綱利公生誕

光尚公参勤 3月19日発・4月17日着

2月 2代 阿部一族討手に裏門指揮役として参加
(34歳)
1644
寛永21
7月 2代 300石加増 都合821石4斗(35歳)
正保 1
12/16~

光尚公就封 6月13日発・7月11日着

1645
正保 2

参勤規模 知行取149、同下々1266、切米取1305計2720名。5月19日宮本武蔵没享年62歳

12月26日三齊様(忠興公)八代で没す享年85歳

光尚公参勤 2月12日発・3月12日着

1646
正保 3
宇土藩成立。松井氏八代へ

光尚公就封 6月13日発・7月11日着

1647
正保 4
長崎聞役(留守居)制度確立

光尚公参勤 3月13日発・4月4日着

妙解院様・真源院様の当代江戸城へお供(38歳)
1648
正保 5
慶安 1
2/15~

光尚公就封 2月14日発・3月3日着

1649
慶安 2

光尚公参勤 3月3日発・3月25日着(万治3年まで滞府)

夏 阿蘇中岳噴火。

12月26日2代光尚公江戸にて病死。享年31歳

1650
慶安 3

使番触頭

妙應院様の代に度々江戸へお供

1651
慶安 4
四代徳川家綱
隣国への使者を勤める
1652
慶安 5

小姓頭(43歳)

3代 幼少時児小姓として江戸に召出される

初代 鉄砲拾挺頭(44歳)

承応 1
9/18~
1653
承応 2
3代 その後外様に出る
1654
承応 3
1655
承応 4
明暦 1
4/13~
1656
明暦 2

10月 2代 病死(47歳)

相続後在職38年

3代高見権之助

11月 跡目相続
1657
明暦 3
1658
明暦 4
万治 1
7/23~
9月吉田司家、京都を離れて細川綱利に仕え熊本に下る
1659
万治 2
1660
万治 3
1661
万治 4
寛文 1
4/25~

綱利公初而御暇 就封 3月27日発・4月28日着

綱利公参勤 9月18日発・10月22日着

8月 3代使番として度々江戸に行く
1662
寛文 2
2月 2代妻 真如院没
1663
寛文 3

綱利公就封 8月7日発・9月6日着

1664
寛文 4

綱利公参勤 6月18日発・7月9日着

1665
寛文 5

綱利公就封 5月18日発・6月10日着

1666
寛文 6
人吉新田支藩成立

綱利公参勤 3月4日発・4月13日着

8月 初代 知行50石加増、都合200石(62歳)
1667
寛文 7

綱利公就封 5月19日発・6月15日着

1668
寛文 8

綱利公参勤 3月4日発・4月4日着

1669
寛文 9
10月肥後藩で陽明学者北島雪山ら24名を追放

綱利公就封 9月6日発・10月2日着

1670
寛文10

綱利公参勤 7月5日発・8月7日着

1671
寛文11

綱利公就封 5月30日発・7月2日着

1672
寛文12

綱利公参勤 2月22日発・3月22日着

初代 鉄砲20挺頭(68歳)
1673
寛文13

3代 八代へ罷り越17年勤める

8月 3代八代番頭を仰せ付けられ、178石6斗加増 都合千石

延宝 1
9/21~

綱利公就封 6月14日発・7月10日着

 

1674
延宝 2

綱利公参勤 2月11日発・3月7日着

1675
延宝 3

綱利公就封 8月22日発・9月21日着

10月 初代 隠居。(71歳)

二代 次左衛門重秩200石番方。

11月 小姓組。江戸のお供、大番所の番目付役

1676
延宝 4

綱利公参勤 2月14日発・3月13日着

1677
延宝 5

綱利公就封 9月6日発・10月84日着

6月 初代 少五郎重治病死(73歳)
1678
延宝 6

綱利公参勤 9月11日発・10月11日着

1679
延宝 7

綱利公就封 8月22日発・9月22日着

1680
延宝 8

五代徳川綱吉

地方知行改め蔵前知行となる。大飢饉発生

綱利公参勤 7月18日発・8月13日着

1681
延宝 9

綱利公就封 4月29日発・5月27日着

天和 1
9/29~
この年僧鉄眼、一切経の刻板完成、後水尾院に奉献
1682
天和 2
3月鉄眼死す。同月俳人西山宗因死す

綱利公参勤 3月6日発・4月7日着

1683
天和 3

綱利公就封 5月10日発・閏5月7日着

1684 天和 4
貞享 1
2/21~

綱利公参勤 3月10日発・4月6日着

1685
貞享 2

綱利公就封 5月23日発・6月21日着

1686
貞享 3

綱利公参勤 閏3月6日発・4月6日着

1687
貞享 4

綱利公就封 6月1日発・6月29日着

2代 小姓組から番方に

江戸留守詰人馬奉行、賞米奉行

1688
貞享 5

綱利公参勤 3月4日発・4月7日着

元禄 1
9/30~
長崎聞役(留守居)制度廃止
1689
元禄 2

綱利公就封 5月11日発・6月10日着

3代 17年間八代に勤めた後隠居 相続後在職33年

4代高見三右衛門重故

7月 大組附

 

1690
元禄 3

綱利公参勤 3月4日発・4月4日着

1691
元禄 4

綱利公就封 5月4日発・6月4日着

4代 弓弐拾挺頭
1692
元禄 5

綱利公参勤 3月4日発・4月4日着

1693
元禄 6

綱利公就封 5月13日発・6月18日着

9月 4代 番頭
1694
元禄 7

綱利公参勤 3月4日発・4月9日着

12月 奥村安左衛門組脇役
1695
元禄 8

綱利公就封 8月19日発・9月28日着

4代 江戸留守詰(元禄10年4月迄3年間)

1696
元禄 9

綱利公参勤 3月6日発・4月11日着

1697
元禄10

綱利公就封 5月19日発・6月25日着

1698
元禄11
9月6日龍ノ口上屋敷が勅額火事により焼失

綱利公参勤 3月4日発・4月9日着

1699
元禄12

綱利公就封 8月25日発・9月7日着

4月 長崎奉行林藤五郎着任折、小倉へ使者として勤める
12月 鉄砲拾挺頭
1700
元禄13

綱利公参勤 2月28日発・4月3日着

9月 立花英山比奈久温泉湯治折に相詰める(10泊)
1701
元禄14

綱利公就封 8月25日発・10月4日着

11月 4代 大組附
江戸留守詰
1702 元禄15
12月15日赤穂浪士の仇討、大石良雄ら17名が江戸藩邸に預けられる

綱利公参勤 2月25日発・4月3日着

1703
元禄16
2月4日大石良雄以下細川氏の芝白金邸にて切腹

綱利公就封 9月28日発・11月5日着

12月 番方 上月十郎左衛門組
1704
元禄17

綱利公参勤2月25日発・4月2日着(正徳2年まで滞府)

宝永 1
3/13~

二代 次左衛門重秩隠居

2月 三代 次左衛門重治 知行200石 番方 上月十郎左衛門組

1705 宝永 2
1706 宝永 3

7月 3代 病死

12月 4代 八代の番頭

2月 償米奉行

1707 宝永 4

肥後国地震、人吉城大破。

熊本城下に大火、侍屋敷78戸焼失。

3月 小姓組、吉川仁左衛門組

9月 大番所番見張役…翌年7月迄

1708 宝永 5

宣紀公就封 6月19日発・7月27日着

12月 江戸へ
1709 宝永 6
六代徳川家宣

宣紀公参勤 1月27日発・3月3日着

1月 江戸着 上野仏殿普請手伝

11月迄務める

12月 上屋敷詰

1710 宝永 7

宣紀公就封 7月6日発・8月6日着

6月 下国のお供帳調を務める
1711 宝永 8

宣紀公参勤 2月4日発・3月7日着

正徳 1
4/25~
5月 江戸小姓組の組脇
1712 正徳 2
4月 親病気の江戸より熊本へ
1713 正徳 3
七代徳川家継

宣紀公就封 4月27日発・5月28日着

1714 正徳 4
3代綱利公没

宣紀公参勤 3月4日発・4月11日着

1715 正徳 5

宣紀公就封 4月22日発・5月25日着

1716 正徳 6

宣紀公参勤 閏2月28日発・4月3日着

2月18日 知行宛行発給千石
閏2月 江戸お供 上屋敷広間取次兼使者、上野火の番
享保 1
6/22~

八代徳川吉宗

享保の改革
1717 享保 2

宣紀公就封 4月19日発・5月22日着

1月 上屋敷類焼のため下屋敷へ移る

4月 帰国の道中宿取役 5月 熊本着

1718 享保 3
5代宗孝公生誕

宣紀公参勤 2月27日発・4月1日着

1719 享保 4

宣紀公就封 4月18日発・5月18日着

6月 病気に付き役義ご免
1720 享保 5
6代重賢公生誕

宣紀公参勤 2月27日発・4月1日着

正月 4代隠居 相続後在職31年

5代高見権右衛門政武

大組附

9月 阿蘇上宮 御名代

1721 享保 6

宣紀公就封 4月19日発・5月15日着

1722 享保 7

宣紀公参勤 2月27日発・4月2日着

4月 5代 妙解寺法会の節火廻
1723 享保 8

宣紀公就封 3月27日発・4月24日着

8月 4代 病死
1724 享保 9

宣紀公参勤 1月27日発・3月1日着

宣紀公就封 10月4日発・11月4日着

1月 江戸お供 宿取役、 上屋敷広間取次役、浅草花火の番

10月帰国の宿取役

11月熊本着 奉行所目付役

1725 享保10
1726 享保11

宣紀公参勤 2月4日発・3月6日着

宣紀公就封 10月4日発・11月7日着

1727 享保12
1728 享保13

宣紀公参勤 1月28日発・3月7日着

宣紀公就封 9月26日発・?月?日着(享保17年迄御滞府)

1729 享保14
12月 江戸上屋敷詰
1730 享保15

6月 三代 次左衛門重治、江戸にて病死

9月 四代 次左衛門、知行200石 番方 曽我宇左衛門組

11月 嶋又左衛門組

1731 享保16
1732 享保17

5代細川宗孝(隆徳院様)

4代宣紀公没

害虫と干ばつによる大飢饉。

宗孝公参勤 7月16日発・8月20日着

12月 5代 留守居番頭

千石

 
1733 享保18
享保の改革
1734 享保19

宗孝公就封 4月27日発・6月1日着

5代 11月1日 知行宛行状 千石
1735 享保20

宗孝公参勤 閏3月3日発・4月8日着

5代 役義ご免、留守居着座
1736 享保21
元文 1
4/28~

宗孝公就封 5月3日発・6月7日着

1737 元文 2

宗孝公参勤 2月27日発・4月3日着

7月 番目付役
1738 元文 3

宗孝公就封 5月3日発・6月11日着

5月 5代 阿蘇下宮 御名代
5月迄上記を務め、小姓組 堀次郎左衛門組、花畑広間番のお供
1739 元文 4

宗孝公参勤 3月3日発・4月9日着

1740 元文 5

宗孝公就封 4月23日発・5月23日着

1741 元文 6
寛保 1
2/27~

宗孝公参勤 3月3日発・4月8日着

3月 江戸お供

11月御婚礼のときに目黒の長屋筋辻監

1742 寛保 2

宗孝公就封 4月27日発・6月1日着

4月 八代姫様ご婚礼のお輿のお供、ならびに帰国のお供役

6月 熊本着

1743 寛保 3

宗孝公参勤 3月3日発・4月8日着

1744 寛保 4
延享 1
2/21~

宗孝公就封 4月27日発・6月1日着

1745 延享 2
九代徳川家重

宗孝公参勤 6月18日発・7月19日着

1746 延享 3

宗孝公就封 4月27日発・6月1日着

2月 江戸お供にて罷登(同5年秋まで)大目付
7月 神谷矢柄組、病気のため小姓組をまぬがれる
1747 延享 4
5代細川宗孝江戸で斬られ死亡。重賢兄宗孝のあと襲封

宗孝公参勤 3月4日発・4月8日着

4月 5代 八代の番頭
1748 延享 5

重賢公就封 4月18日発・5月27日着

寛延 1
7/12~
6代細川重賢(霊感院様)12月重賢藩士に直書を下し宿幣五条をあげて匡正を命ず
5代 9月1日知行宛行状千石発給
1749 寛延 2
宝暦の改革開始

重賢公参勤 2月27日発・4月5日着

1750 寛延 3

重賢公就封 4月28日発・5月29日着

1751 寛延 4

重賢公参勤 2月27日発・4月7日着

宝暦 1
10/27~
1752 宝暦 2
7月重賢、堀平太左衛門を大奉行に抜擢。のち中老を経て家老となる

重賢公就封 4月25日発・5月27日着

5代 2月 用人 6月 新組頭
5月 番方 片山カ多門組
1753 宝暦 3

重賢公参勤 2月27日発・4月11日着

2月 5代 江戸定元での大目付

1754 宝暦 4
時習館開設

重賢公就封 4月28日発・6月3日着

1755 宝暦 5
藩校時習館開校 諦了院様生誕

重賢公参勤 2月25日発・4月1日着

1756 宝暦 6
藩政機構改革。7月蕃慈園を、12月再春館を創建

重賢公就封 4月28日発・6月1日着

1757 宝暦 7

重賢公参勤 3月1日発・4月日着

2月 5代 病気に付き隠居 相続後在職37年

6代高見藤太

100石減封にて相続 都合900石

大組附(有吉市左衛門組)

 

 

1758 宝暦 8

重賢公就封 5月3日発・6月4日着

6月 長谷川七兵衛組
1759 宝暦 9
7代治年公生誕。斉茲公生誕

重賢公参勤 3月1日発・4月3日着

正月より権右衛門と改名
1760 宝暦10
十代徳川家治

重賢公就封 8月9日発・9月11日着

1761 宝暦11

重賢公参勤 3月1日発・4月5日着

1762 宝暦12

重賢公就封 5月22日発・6月21日着

6月 四代 次左衛門病死

7月 五代 次左衛門勝正 知行200石 長谷川七兵衛組

1763 宝暦13

重賢公参勤 9月1日発・10月5日着

1764 宝暦14
明和 1
6/ 2~
1765 明和 2
1766 明和 3

就封 5月1日発・6月4日着

9月 6代 鉄砲30挺副頭
8月 八代城付
1767 明和 4

重賢公参勤 3月5日発・4月9日着

1768 明和 5

重賢公就封 5月1日発・6月6日着

1769 明和 6

重賢公参勤 3月5日発・4月17日着

3月 6代 鉄砲10挺頭
1770 明和 7

重賢公就封 5月3日発・6月8日着

1771 明和 8

重賢公参勤 3月5日発・4月12日着

1772 明和 9
1月25日細川斉茲公宇土藩主
安永 1
1/16~

重賢公就封 4月28日発・6月7日着

1773 安永 2

重賢公参勤 3月27日発・4月8日着

1774 安永 3

重賢公就封 5月1日発・6月5日着

1775 安永 4

重賢公参勤 3月5日発・4月9日着

治年公初而御暇 就封 9月28日発・11月7日着

閏12月 6代病死 相続後在職19年
1776 安永 5

重賢公就封 8月6日発・9月7日着

治年公 参勤 4月22日発・6月4日着 安永9年まで在府

7代高見権之助政朱

3月 養子にて相続(17歳)900石

番方(松野外記組)

1777 安永 6

1月25日細川斉茲公

江戸参勤 規模546名

重賢公参勤 2月28日発・4月3日着

1778 安永 7
1779 安永 8
1780
安永 9

重賢公就封 8月22日発・10月2日着

1781 安永10

重賢公参勤 3月7日発・4月12日着

天明 1
4/ 2~

治年公就封 5月22日発・6月11日着

1782 天明 2

重賢公就封 8月19日発・10月1日着

治年公参勤 2月19日発・3月23日着 天明4年まで滞府

3月 出府
1783 天明 3
7月浅間山噴火による江戸降灰・鳴動。大雨による利根川決壊・隅田川氾濫

重賢公参勤 3月6日発・4月9日着

6月 帰国
1784 天明 4
1785 天明 5

6代細川重賢病死(68歳)。治年公、白金から龍ノ口へ移徒

7代細川治年(大詢院様)

治年公就封 2月15日発・3月18日着

治年公参勤 9月11日発・10月11日着

1786 天明 6

治年公就封 4月29日発・6月3日着

1787 天明 7

十一代徳川家斉

7代治年公没

8代細川斉茲(諦了院様) 36歳

米価高騰し城下打ち壊し

治年公参勤 2月28日発・4月8日着

 

1月 8代 御目見

2月 7代病気に付隠居(28歳)相続後在職11年

8代高見右源太政信

養子にて相続(23歳)900石 

番方(横山五郎大夫組)

 

 

1788 天明 8
10月高本紫溟時習館教授となる

斉茲公就封 5月10日発6月21日着(初而御暇)

知行宛行状 900石(24歳)
3月 高見勝平 八代関口流抜刀師役
1789 天明 9
寛政 1
1/25~
9代斉樹公生誕

斉茲公参勤 3月19日発・28日着

3月 出府(25歳)

10月12日 7代 病死(28歳)

1790 寛政 2

斉茲公就封 4月29日発・6月4日着

6月 帰国
1791 寛政 3
年末高山彦九郎熊本に来り、高本紫溟宅に逗留越年す

斉茲公参勤 2月27日発・4月15日着

1792 寛政 4
島原温泉岳爆発、大津波発生。彦九郎肥後の諸士と交遊、2月薩摩に向かう。7月末豊後路より再び熊本に入り、8月下旬離熊

斉茲公就封 4月19日発・5月25日着

1793 寛政 5

斉茲公参勤 2月25日発・4月9日着

6月 使番(29歳)
1794 寛政 6

斉茲公就封 5月4日発・6月9日着

1795 寛政 7

斉茲公参勤 2月25日発・4月2日着

2月 お供にて出府
1796 寛政 8

斉茲公就封 4月23日発・6月1日着

5月 帰国
1797 寛政 9
10月 八代城内焼失。紫溟、長瀬真幸とともに伊勢松坂にゆき本居宣長と会う

斉茲公参勤 2月23日発・4月9日着

10月 江戸へ早打ちにて指立(33歳) 

11月 帰国

7月 五代 次左衛門勝正病死 知行家屋敷返上

11月 六代 勝平 七人扶持、中小姓 須佐見素雄組 八代師役をまぬがれる

1798 寛政10

斉茲公就封 5月7日発・6月13日着

2月 留守詰のため出府(34歳)

4月 江戸留守居助勤

1799 寛政11

斉茲公参勤 3月4日発・4月11日着

5月 当分助勤御免、江戸を立ち6月帰国

9月 留守居助勤として出府(35歳)

1800 寛政12

斉茲公就封 閏4月15日発・5月23日着

10月 助勤御免帰国(36歳)

4月 常應院様の御廟番

5月 孫棋院様廣敷番助勤

1801 寛政13
~2月  二本木御所番 代参代番、使者お供
享和 1
2/ 5~

斉茲公参勤 2月23日発・3月27日着

2月 出府

8代 養子数衛(17歳)を江戸に連れて行く 8月 御目見(37歳)

 

 

1802 享和 2

斉茲公就封 5月9日発・6月11日着

正月 養子数衛雇われる。(18歳)

6月 帰国

7月中小姓頭(佐藤仙九郎跡)(38歳)

2月 孫棋院様 廣敷番

4月 同本役 裏方支配役 支配 用番

1803 享和 3

斉茲公参勤 2月25日発・3月27日着

2月 出府(39歳)

1月 孫棋院様葬式の節 力技お供 

1月~3月 妙解寺法令時 寺詰    

2月 高見右源太組 

5月 穿鑿役

1804 享和 4
文化 1
2/11~
10代斉護公生誕

斉茲公就封 8月22日発・10月3日着

2月 秋まで留人

10月 帰国(40歳)

5月 穿鑿役免 所々御目付
1805 文化 2

斉茲公参勤 2月4日発・3月14日着

斉樹公就封 5月3日発・6月7日着(初而御暇)

2月 お供にて江戸へ登る

7月 8代 41歳にて病死 相続後在職18年

9代高見数衛政久

11月 21才にて相続900石

大組付(沢村宇右衛門組)

 

6月 所々目付本役 足給15

8月 若殿様の目付 用番

1806 文化 3

斉樹公参勤 1月23日発・3月2日着

2月 若殿様参府のお供で上京、3月に江戸着

1807 文化 4
5月 公儀定例の祈祷の折、阿蘇上宮の名代を勤める(23歳)
1808 文化 5

斉茲公就封 4月28日発・6月7日着

10月 休息の為江戸を離れ 12月に熊本着
1809 文化 6

斉茲公参勤 5月15日発・6月18日着

4月 使番(25歳)

6月犬追物で優秀

 

3月 江戸へ出発し、5月に着

7月 六代 勝平江戸にて病死

1810 文化 7

9代細川齋樹(諦観院様)

1月 七代 次左衛門武一 7人扶持 中小姓  斎藤又太夫 、堀尉左衛門触組
1811 文化 8
1月 組付中小姓 落合弥次平衛組
1812 文化 9
江戸参勤 規模694名

斉樹公就封 5月1日発・6月3日着

10代 養子として御目見(13歳)

8月 お城の御禮(諸作法)の用

9月 知行宛行状 900石

11月 長崎留守居(堀田諸兵衛上座)(28歳)

1813 文化10

斉樹公参勤 2月27日発・4月6日着

3月 長崎詰 留守居

10月 権右衛門と改名(29歳)

1月 志水久馬助組
1814 文化11

斉樹公就封 4月24日発・6月2日着

3月 長崎より帰国、中小姓頭(奥田権之允跡)

10月 用人(30歳)

1815 文化12

斉樹公参勤 2月23日発・3月23日着

正月 出府(31歳)
3月 堀尾仙太組
1816 文化13

斉樹公就封 4月24日発・6月7日着

斉茲公御隠居後 就封 閏8月4日発・11月3日着

4月 帰国(32歳)

9月 9代 高見家系図作成

9月 大組附(松井直記組)

1817 文化14

斉樹公参勤 4月21日発・6月18日着

斉茲公参勤 8月7日発・9月29日着

1818 文化15

3月 用人(34歳)

文政 1
4/22~

9月 出府

10月 堀尉左衛門上座

1819 文政 2

9月 日光御霊屋向、諸堂社御修復に参加(35歳)

12月 土井大炊頭(土井利厚)が 柳檜の間にて褒賞を申し渡され、翌日御殿から祝品を直接拝領

小坂半之允組
1820 文政 3

斉茲公就封 2月22日発・4月14日着

斉樹公就封 4月25日発・6月17日着

3月 座席中着座同列

8月 日光の拝礼夫より直接お供で帰国 用人(36歳)

1821 文政 4

斉樹公参勤 9月13日発・10月20日着

4月 出府  財津善内と交代

用人(37歳)

12月 篤姫様の縁組のご用掛

9月 横山藤左衛門組
1822 文政 5

斉樹公就封 4月24日発・5月28日着

5月 お供にて帰国(38歳)

9月 来年御参勤のお供調査

1823 文政 6

2月14日耇姫誕生

斉樹公参勤 3月27日発・5月6日着

3月 出府 濱町屋敷の誕生受け入れのご用(39歳)
八代 武之誕生
1824 文政 7

斉樹公就封 5月15日発・6月17日着

6月 お供にて帰国(40歳)
兼松群喜組
1825 文政 8

斉樹公参勤 9月25日発・12月20日着(病気にかかり東海道関宿に10月20日より11月12日迄御逗留)

9月 10代 剣術槍術が芸術に近いとして表彰される(26歳)

9月 お供にて罷登(41歳)

志水淳助組
1826 文政 9

2月12日9代諦観院様逝去

10代細川齋護(泰厳院様)

斉護公就封 5月25日発・6月27日着

12月24日 耇姫亡くなる

9月18日 知行宛行状(斉護公)
12月 片山多門組
1827 文政10

2月 斉茲公(濱町様)江戸へ向かう

斉護公参勤 3月4日発・4月19日着

2月 濱町様のお供にて罷登(43歳)
1828 文政11
八代天草地震、阿蘇噴火、城北大洪水西北の突風など大災害。

斉護公就封 4月28日発・6月13日着

12月 仮組脇 不破太直組
1829 文政12

斉護公参勤 2月28日発・4月3日着

正月 座席佐敷 番頭の上座、足高100石

8月 10代 白金御近習御雇 9月國許出発(30歳)

900石(45歳)

 

2月 仮組脇から本役へ 

足給20石

1830 文政13

斉護公就封 4月27日発・6月11日着

3月 休息で帰国(46歳)

4月 出府

天保 1
12/10~
1831 天保 2

斉護公参勤 3月23日発・4月28日着

1832 天保 3

斉護公就封 5月1日発・6月5日着

4月 10代 休息で帰国(33歳) 10月江戸着
1833 天保 4

斉護公参勤 3月1日発・4月7日着

4月 座席組外同列(49歳)

4月 10代 白金御側取次(同7年5月迄)(34歳)

9月 休息で帰国

10月 罷登

1834 天保 5
1835 天保 6

10月23日8代諦了院様死去 76歳(満年齢)。

慶順公生誕

12月 諦了院様御尊骸お供にて帰国(51歳・数え年)

10月 10代 休息で帰国(36歳) 11月江戸着二日後に御尊骸を追い12月1日大蔵谷駅にて追い付く。12日熊本着。18日には南関まで出迎え、20日に熊本着。

1836 天保 7

斉護公就封 4月25日発・5月30日着

正月 罷登

3月 足高100石地面

100石加増 都合千石(御加増知取付目録)(52歳)

1837 天保 8
十二代徳川家慶

斉護公参勤 3月11日発・4月17日着

1838 天保 9

斉護公就封 閏4月6日発・5月13日着

12月 休息で帰国(54歳)
1839 天保10
12代細川護久公誕生

斉護公参勤 2月9日発・3月17日着

3月 座席留守居大頭同列、若殿様お守役、足高500石、用人兼務
1840 天保11

斉護公就封 5月15日発・6月16日着

12月23日九代江戸白金にて逝去。

行年56歳 相続後在職35年

12月23日 先祖附提出

12月 竹原九左衛門組
1841 天保12

人吉藩内で茸山騒動(百姓一揆)

幕府老中の水野忠邦による天保の改革はじまる

斉護公参勤 4月6日発・5月5日着

 

2月 42歳にて相続、三淵永次郎組座席朽木内匠次席 

10代高見嶋之助武棟

4月 座席持懸で志水新之丞組の小姓頭 (権右衛門と改名)

1842 天保13

斉護公就封 4月29日発・6月1日着

1843 天保14

斉護公参勤 2月5日発・3月4日着

2月 参勤のお供

6月 12代 直熊出生

8月 當年上野火の番

1844 天保15

慶前公就封 4月27日発・6月4日着

3月 江戸着

6月 別段として御次締り御用詰込

9月 帰国

弘化 1
12/ 2~
1845 弘化 2

慶前公参勤 7月11日発・8月20日着

7月 若殿様お供にて罷登
1846 弘化 3

斉護公就封 5月22日発・閏5月24日着

閏5月 帰国
1847 弘化 4
天草の農民による大一揆

斉護公参勤 3月9日発・4月11日着

3月 お供にて罷登

100石加増都合千石 知行宛行状

1848 弘化 5
嘉永 1
2/28~
9月 帰国
1849 嘉永 2
昭憲皇太后出生(4月17日)

2月 出府

12月 勇姫様婚礼儀用懸

1850 嘉永 3

斉護公就封 5月18日発・6月28日着

7月 11代 御目見(13歳)
1851 嘉永 4

斉護公参勤 3月15日発・4月19日着

2月 擬作高100石 番方 長谷川十之允組
1852 嘉永 5

斉護公就封 4月24日発・5月25日着

1853 嘉永 6

十三代徳川家定

ペリーが浦賀に来航、幕命による相模湾沿岸警備

斉護公参勤 2月10日発・3月20日着

慶順公就封 4月12日発・5月16日着

1854 嘉永 7

慶順公参勤 1月16日発・2月23日着

5月 出府
安政 1
11/27~
1855 安政 2

斉護公就封 3月7日発・4月16日着

4月 御供にて帰国

5月 座席持懸にて長谷川十之允組の番頭

10月 病気につき役ご免座席今迄通り留守居大頭組

5月 髙見権右衛門組

10月 寺尾九郎左衛門組から江戸城内東門預に移る

12月 城内東御門預から本役に戻り、岩間此面組へ

1856 安政 3

斉護公参勤 2月18日発・3月26日着

慶順公就封 4月11日発・5月13日着

正月 座席持懸にて田中典儀跡御小姓頭 2月出府
1857 安政 4

慶順公参勤 2月21日発・月日着

斉護公就封 4月21日発・5月26日着

5月 お供にて帰国

閏5月 座席持懸にて用人

1858 安政 5

十四代徳川家茂

井伊直弼が大老となり独断で安政五か国条約締結

斉護公参勤 3月6日発・4月15日着

慶順公就封 5月16日発・6月17日着

2月江戸向出発3月江戸着白金詰
1859 安政 6

慶順公参勤 2月18日発・3月22日着

1月 一橋御用懸
1860 安政 7
井伊直弼暗殺され、尊王攘夷運動
万延 1
3/18~

4月17日10代細川斉護公逝去(57歳)

11代細川韶邦(慶順)

慶順公就封 閏3月17日発・4月20日着

慶順公参勤 5月8日発・6月14日着

慶順公就封 9月19日発・10月24日着

6月 国許へ

12月 お役御免にて座席は元の通り中着座、堀丹右衛門組

11月 堀七郎兵衛組
1861 万延 2
2月 10代62才にて病死 相続後在職19年
文久 1
2/19~
在大坂の中島広足時習館国学師範を命ぜられ帰国す

慶順公参勤 8月29日発・10月9日着

11代高見熊之助

4月 24才にて相続、備前組座席小笠原一學次座

50石減封 都合950石

12月 小笠原一學組
1862 文久 2

正月宮部鼎蔵松村深蔵と上京、一旦帰国するが12月再び上京。この年12月横井小楠江戸にて刺客に襲われ危うく難をまぬがる。人吉城下で大火、城全焼。

8月 参勤交代の頻度を3年に一回(300日)とし、大名の在国中は江戸屋敷の家来を減少する。

護久公24歳

慶順公就封 2月24日発・4月1日着

閏8月 11代 25才にて隠居 相続後在職1年

12代高見直熊

11代の養子として相続

50石減封 都合900石(明治7年改正有禄士族基本帳による元高)

大組附、堀丹右衛門組

10月 権右衛門と改(20歳)

4月 病気の為役職辞退申し入れ

5月 遠坂助右衛門組に替わった後御役御免となる

7月 七代 武一隠居     

7月 八代 武之 擬作高百石番方 沢村八之進組

11月 良之助様の宮内付目付助勤

1863 文久 3
熊本藩・人吉藩が京都警備12月小楠士籍剥奪沼山津に蟄居

3月 良之助様の宮内付目付本役

9月 御二方様お供で京都へ

1864 文久 4

正月 公儀定例のご祈祷の折、阿蘇上宮の御名代

10月 芦村嘉左衛門組、物奉行(22歳)

6月 帰着 この間台所賄方料理方等
元治 1
2/20~
6月5日京都三条の池田屋に於いて新選組に襲われ宮部鼎蔵、松田重助ら憤死、7月11日川上彦斎、佐久間象山を斬る。7月19日禁門の変、同21日天王山の戦、肥後勤王志士多数死す。
長州征伐に小荷駄奉行として出軍(22歳)
1865 元治 2
慶応 1
4/ 7~
人吉藩で丑歳騒動(上意打ち)
10月 良之助様出張のお供で小倉へ
1866 慶応 2

小楠甥横井佐平太、同大平兄弟渡米

6月 小倉出張(24歳)

1月 小倉よりお供で下着   

8月 良之助様上阪、上京のお供

9月 着阪、着京

10月 御供で下着 その後天草へ御用、三角に嶽狩へ

11月 天草表巡回のお供 

1867 慶応 3

十五代徳川慶喜

熊本藩は廃藩白川藩へ

9月 八代 次左衛門と改名
1868 慶応 4

15代将軍徳川慶喜が大政奉還

4月小楠朝廷の召命にて上京、参与に任ぜらる

閏4月 病気につき役ご免、

留守居大組附

11月 表取次本役(26歳)

2月~12月 左京亮様のお供で京都、大阪、東京へ この間御付役助勤
明治 1
9/ 8~
1869 明治 2
1月5日小楠京都で暗殺さる

10月 小倉戦争の折兵食運送等、帰陣の途中小笠原豊千代丸様方守衛

役名を少司儀と改(27歳)

1月 左京亮様付の助勤    

4月 本役も兼務

5月 同方様上京のお供

8月 上坂し、9月に下着

1870 明治 3
12代細川護久実学党によって県政を占められ大改革行わる。時習館再春館等廃止。閏10月林桜園死去

7月 少司儀(28歳)

第二回先祖附提出

7月 新御屋形奥掛家従    

9月 表家従も兼務 座席 近士然之口 

1871 明治 4
4月横井大平死す。同月和蘭人マンスフェルトを長崎より招聘し古城医学所をひらく。7月廃藩置県、8月鎮西鎮台を熊本に設置す。同月ジェンス米国より来る。9月熊本洋学校を開校す。12月河上彦斎斬刑

8月 側女中に同道して東京へ

9月 家従兼奥懸 座席 久野加傳の上座

1872 明治 5
6月白川県となる。同月明治天皇熊本行幸、6月17日より同月20日に至る

9月 帰縣のお供 

10月 妻と共に上京 

八代 武之と改名 武之次女・美津子 誕生

1873 明治 6
5月白川県令として安岡良亮赴任
7月 武之三女・愛 誕生
1874 明治 7
佐賀の乱
7月 小司儀から白川県十三等庶務課に勤務後直ちに辞職(32才)相続後在職12年

3月 顕光院様御窺のお供で下縣

4月 上京の御供

5月 東京浜町御邸着

9月 北岡邸御子様付の為家族同道で東京出発 10月着縣

1875 明治 8

昭憲皇太后(27歳)

4月植木学校認可

宮内省に雑掌として勤務(33歳)

 

9月 祖厚娘満寿出生(33歳)

7月 顕光院様凶変の言上で神戸へ。今戸様・濱町様に言上其の後東京へ

8月下縣              

9月 武之四女・ツク 誕生

1876 明治 9

1月30日花岡山上にて熊本バンド結盟、2月白川県を熊本県と改む。3月廃刀令。6月断髪令。10月24日神風連の変おこる

11代慶順公没

2月 御子様付家従 

10月 神風連の乱を避け、御子様方 宇土桂原別邸へ避難の御供

1877 明治10
2月西郷挙兵、薩軍熊本城にせまる。同月19日熊本城天守閣焼失、火は城下に延焼す。同月21日協同隊挙兵、22日熊本隊挙兵、直ちに参戦、3月3日より田原坂の激戦、4月20日御船の血戦、8月17日熊本隊協同隊官軍に投降、9月24日西郷隆盛自刃。12月熊本隊池辺吉十郎ら幹部斬首さる

2月 戦火(西南の役)を避け所々御立退きのお子様方のお供                

4月 北岡へ帰邸のお供    

5月 上京 今戸・濱町両邸勤務

1878 明治11
2月 帰縣のお供 3月 北岡邸守衛 四人扶持 高岡一太郎上座
1879 明治12
佐々友房ら同心学者をおこす。同じころ山田武甫、徳富一敬らは共立学舎を設立す

 

8月 祖厚二男安次出生

 

1880 明治13

3月 お子様附家従       

4月 嘉壽子様 細川興増殿との内縁約の引越しのお供

1881 明治14
同心学舎を濟々黌と改称
1882 明治15
3月徳富蘇峰「大江義塾」をおこす
61883 明治16
宮内省辞職熊本東禅寺内に無何有庵建立閑居する(41歳)

三位様のご墓参りで下縣中の護久公お側向ご用 

8月 帰京のお供 9月着縣

1884 明治17

1月 隠居の上 長男 純一郎に家督を相続させる旨を戸長へ届る(八代武之61歳)

7月 発病

1885 明治18
熊本神宮協会長を3年間務める(43歳)
1886 明治19
蘇峰「将来の日本」を刊行、11月大江義塾を閉じ上京

3月 嘉壽子様と志津子様の上京のお供

6月 お供にて下縣 

12月 志津子様 阿蘇惟孝様とのご縁約お輿入れの諸ご用

1887 明治20
5月第五高等学校熊本に設立さる
伊勢参宮日記

2月 北岡邸住居跡並びに奥向守衛   

3月 志津子様引越済につき、退職の内意奉願(八代武之64歳)

1888 明治21
10月 嘉壽子様婚礼ご用懸
1889 明治22

3月~5月 三位様ご墓参りで滞縣中の御家御付家従

5月 嘉壽子様御婚礼の諸ご用

1890 明治23

3月 三位様帰縣の諸用を務める  

4月 奥方様着縣に当たり二所様のご用

6月 側女中春竹村へ移転 居間守衛として居間次の間へ家族と引越

10月 嘉壽子様凶変の上申で東京へ

1891 明治24
11月小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)松江より五高教師として熊本に赴任
11月祖厚長男日子太郎没
1892 明治25
1893 明治26
9月 12代藩主護久公没(54歳)
9月 剃髪法衣となり東京白山龍雲院に閑居(51歳)
1894 明治27
八雲熊本を去る
京都大徳寺高桐院に自在庵を建立20年間三齊公の菩提を弔う(52歳)
8月 八代武之三女 愛が中山家へ嫁ぐ
1895 明治28
9月 八代武之逝去(72歳)
1896 明治29
夏目漱石、松山より五高教授として熊本に来る
1897 明治30
1898 明治31
1899 明治32
2月森鴎外第12師団軍医部長として小倉に赴任。~1902年3月
1900 明治33
7月漱石熊本を去り、9月英国留学の途に上る
1901 明治34
1902 明治35
1903 明治36
1904 明治37
7月 中山家四男 宗道誕生
1905 明治38
1906 明治39
1907 明治40
1908 明治41
1909 明治42
9月 武之長女 若子逝去
1910 明治43
「寒山詩偈賛歌」出版(68歳)
1911 明治44
1912 明治45
一月十日祖厚妻道没
6月 武之次女 美津子逝去

大正 1
1913 大正 2
1月森鴎外「中央公論」に「阿部一族」を発表
1914 大正 3
1915 大正 4
6月 京都より島原魁村に移り無何有庵を建立
1916 大正 5
1917 大正 6
9月祖厚没(75歳)
2月 武之妻 ナツ逝去
1918 大正 7
1919 大正 8
1920 大正 9
1921 大正10
1922 大正11
9月祖厚娘満寿没
1922 大正12
1923 大正13
1924 大正14
1925 大正15
昭和 1
12/25~
1926 昭和 2
1927 昭和 3
1928 昭和 4

6月 武之四女 ツク逝去

7月 中山家四男 髙見家へ

1929 昭和 5
1930 昭和 6
1931 昭和 7
1932 昭和 8
1933 昭和 9
1934 昭和10
1935 昭和11
1936 昭和12
1937 昭和13
1938 昭和14
3月 武之三女 中山愛 逝去

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