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11.九代 高見権右衛門武久

妻 須佐美素雄 娘 みち

権之助の実子

右源太の養子になる

九代 高見數衛政久 後に 権右衛門武久 と改める

文化2年(1805年)11月4日右源太跡目の知行(知行引渡差紙)家屋敷を相違なく引き継ぎ、大組附を仰せ付けられ、澤村宇右衛門組に召し加えられる。

同4年(1807年)阿蘇上宮の公義定例の祈祷の折には名代を勤める。

同6年(1809年)4月9日使番を仰せつけられる。

同年6月4日花畑(国許の屋敷)犬追物の競技の折に犬のとらえ方や騎馬射的の技が並外れていたため、紋附・上下を拝領される。

同9年(1812年)8月23日お城の御禮(諸作法)の用を相勤め、もって紋附・上下と帷子を花畑にて拝領される。

知行宛行状(文化9年9月18日 斉樹公花押)

同11月28日花畑にて長崎への留守居を仰せつけられ、同10年(1813年)3月4日この地を出発、同所へ詰める。

同11年(1814年)3月1日長崎を出発、同月9日熊本へ着。同月14日奥権之丞を引き継ぎ、中小姓頭を仰せ付けられる旨花畑の用番から仰せ渡される。

同年10月1日花畑にて用人を仰せ付けられる。

同12年(1815)江戸詰めを仰せ付けられ、正月15日熊本を出発、当面用人を勤め同年12月28日仕事に精を出し勤めたのでお次の間にて内々に紋附横麻の上下をくだされた。

同13年(1816)3月11日江戸を出発し、4月9日熊本に到着、用人の仕事を勤めていたところ、同年閏8月この役職が良く理解できないので断りを申し出たところ免除され、大組附を仰せ付けられ、座席は元の通りに着き、松井直記組に召加えられた。

同15年(1818)3月25日花畑の用番から用人を仰せ付けられる旨が伝えられた。

文政元年(1818年)7月7日この秋に江戸詰を仰せ付けられる旨のお達しがあり、同年8月22日熊本を出発、9月江戸の龍ノ口の屋敷に着く。

文政元年8月養浩院様(第九代熊本藩主細川斉樹の弟君)ご逝去につき、附役の中から紙面をもって、櫻の紋付羽二重の袴一と同紋附帷子一を戴いた。

文政元年10月5日江戸の龍ノ口邸の家老の間の座席を堀尉右衛門の上座に仰せ付けられる旨美濃殿より申し渡された。

文政元年12月、仕事に精を出し勤めたので、九曜の紋附羽二重の袴一を次の間で戴いた。

文政2年(1819)9月1日、日光にある御霊屋(みたまや)と諸堂の社を修復するご用掛を仰せ付けられた。

文政2年12月14日、兼々仕事に精を出し励んだので紋付継上下一具を次の間で戴いた。

文政2年12月27日明日江戸城にまかり出ることになったので格別の思召しで九曜紋付織熨斗目一 つを次の間にて戴いた。

文政2年12月28日、この度日光のお手伝いのご用を勤めたので、江戸城の公義で時服(季節の服:冬服)を三つ(その内訳は小袖二と熨斗目一)、更に羽織を一つと白銀20枚を下される旨用番の土井大炊頭(おおいのかみ:土井利厚)が 柳の間檜の間にて申し渡された。

文政2年12月29日江戸の龍ノ口で御殿からご用向きがあると知らされ罷り出たところ、この度の日光お手伝いのご用懸をしっかり励んだので、九曜の紋附上下一具と紋付羽二重、小袖一さらに紋付縮緬袷(ちりめんあわせ)羽織一を表海の間にてお殿様から戴いた。

文政3年(1820)3月1日龍ノ口の御殿で数年仕事に精を出し励んだので座席の着座同列を仰せ付けられる旨、長岡治部丞方が申渡された。

この度日光御社参り後直ちに御殿の帰国のお供を仰せ付けられる。

文政3年4月25日御殿は江戸を出発なされ禰(みたまや)の御社をお参する。

同年5月4日龍ノ口屋敷にお立寄りなされ、同日直ちに龍ノ口の屋敷を出発された。

同年6月17日熊本にお着きあそばれた。道中で用人の諸々の勤務について懈怠(けたい=間違い)なく勤め申し上げた。

文政3年8月9日ご用があるということで、花畑の屋敷へ罷り出たところ、この度の日光拝禮の担当から、直接熊本に帰られる御殿のお供を仰せ付けられた。

数日の道中ことに川々が洪水になった折、その格別な心配りをしたので、九曜の紋附縮緬単羽織一 同紋附帷子一 を下される旨用番が申し渡された。

文政3年12月28日次の間に於いて兼々仕事に精を出し、勤めたので内々より二桐紋付羽二重袷一を戴いた。

文政4年(1821)正月20日この春江戸へ行くことを仰せ付けられ、財津善内との交代を仰せ付けられる旨、奉行所よりこのお達しがあった。

同年3月9日熊本を差し立たれ、同年4月1日江戸へ到着。用人の職務を勤めた。

同年12月11日次の間にて兼々仕事に励んだので葉桜紋附小袖一 を戴いた。

文政4年12月11日篤姫様の縁組のご用がかりを仰せ付けられる旨を家老の間で織部殿が申し渡された。

文政5年(1822)正月11日龍ノ口の御殿で、篤姫様の縁組のご用を勤めたので、お祝いに九曜紋付上下一具と紋附小袖一を下される旨、織部殿が申し渡された。

文政5年閏正月19日この年帰国のお供を仰せ付けられる旨織部殿が申し渡された。

同年4月24日お殿が江戸を出発され、道中筋の用人の諸責務を相勤めた。

同年5月28日熊本にお着き遊ばされ、お供に加わった。

文政5年9月2日来年の参勤のお供についての調査をする旨永郎殿が申し渡された。

同年10月10日来年の参勤が仰せ付けられる旨、美濃殿が申し渡された。

文政5年12月28日兼々出精に勤めたので五三桐紋附羽二重小袖一を内々より戴いた。

文政6年(1823)2月13日濱町の屋敷(肥後藩8代藩主の細川斉茲公が造る)のお誕生ご用の受入れを仰せ付けられる旨織部殿が申し渡された。

同年3月21日、耇(コウ)姫様のお誕生のご用受入れを仰せ付けられ、勤めたのでお祝遊ばされ、九曜紋付小袖一を戴いた。

文政6年3月27日熊本を出発されるお供として罷り立ち同年5月6日江戸にお着き遊ばされた。道中、用人の責務を相勤めた。

文政6年12月3日、来年帰国のお供についての調査を仰せ付けられる旨美濃殿が申し渡された。

文政6年12月25日兼々精を出し勤め、かつ秋以来篤姫様の体調がすぐれないことで、用事が増加したところで出精し勤めたので、五三桐の紋裏添え上下一具を内々で戴いた。

文政7年(1824)正月27日今年帰国のお供を仰せ付けられる旨美殿が申し渡された。

文政7年5月15日江戸を出発遊ばされる。

同年6月17日熊本へお着き遊ばされたが、このお供で熊本に着いた。貞厳院様(八代細川斉茲公側室)ご逝去遊ばされたので遺物(つかいもの=プレゼント)として九曜紋付小袖一、同紋付袷一を附役等の礼の意味をもって文政7年7月戴いた 。

文政7年9月15日来年参勤のお供調べを仰せ付けられる旨用番に申し渡された。

文政7年12月24日兼々出精に勤め、この度のお庭、お宮の建方を仰せ付けられ、しかもその心配りを行ったので、九曜紋付羽二重小袖一を次の間にて戴いた。

文政8年(1825)8月7日江戸へ行くことをを仰せ付けられ(御殿が)出発されるその日のうちにお供するようお達しがあった。

文政8年9月25日熊本を出発遊ばされる。同年12月2日江戸へお着き遊ばされ、道中筋の本陣の番等を勤め同じ日に江戸に着いた。

文政9年(1826)2月12日諦観院様(第九代藩主細川斉樹公)がご逝去されたので、翌13日葬式兼法事のご用掛けを仰せ付けられる旨お達しがあり準備していたところ、同年2月18日このご用掛けは不要であるとのお達しになってしまった。

同年2月27日家督・元服のご用掛けを仰せ付けられる旨家老の間にて申し渡された。

文政9年3月2日諦観院様の道具のうち錫の花活け一、提ケ弁当(持ち運び用弁当箱)一、お椀一、紙入一、式紙(色紙)一枚、扇子二本、石筆(鉛や粘土を用いた鉛筆のようなもの)一本、煙管(きせる)一本、小蓋(こふた=小蓋物、蓋のある小さな容器)一枚、汗取り一をそれぞれ(形見分けとして)戴いた。

太守様(熊本藩十代藩主細川齋護公)の家督のお礼を仰せ上げられる折に、家老代理として江戸幕府の将軍に直接拝謁することを仰せ付けられる旨、家老の間で美濃殿が申し渡された。文政9年4月18日お城へまかり出て、公儀へお目見え申し上げた。

文政9年4月6日当年熊本へ入国のお供を仰せ付けられる旨、家老の間にて織部殿が申し渡された。

文政9年5月16日諦観院様関驛(東海道五十三驛の一つ旧三重県鈴鹿関)にご滞留中に期待通りの勤めをしたので、越後縞二端(二反)を頂いた。同日諦観院様がお召しになっていた古着のうち、葉桜紋付裏附の肩衣一、琥珀袴一具、九曜の紋附熨斗目一、五三桐紋附縮緬袷一、五三桐紋附縮緬袷羽織一、厚板野袴一具を戴いた。

文政9年5月9日ご家督のお祝いで蓮性院様(諦観院様の正室)から菱文の袴地一反を戴いた。

文政9年5月18日このたび家督並びに元服のご用を相勤めたのでお祝いとして、紋付長上下一具、同半上下一具、同袷熨斗目一、同帷子一を殿(10代細川齋護様)の御前にて戴いた。

文政9年5月18日この春以来格別な心配事が多かったので、(上記とは)別に九曜の紋附薄上下一具、五三桐縮帷子一を下さった。

文政9年5月25日江戸を出発された折にお供した。同年6月27日熊本へお着きになられ、道中筋色々と勤めあげ、同日着いた。

文政9年7月20日御書出しのご用掛けを仰せ付けられる旨を家老の間に於いて直施殿が申し渡された。文政9年8月21日入国遊ばされたお祝いに九曜紋付上下一具、同紋付帷子二つを下される旨花畑の館にて用番内道殿が申し渡された。

文政9年9月15日来年参勤のお供調べを仰せ付けられる旨家老の間にて織部殿が申し渡された。

知行宛行状(文政9年9月18日 斉護公花押)

文政9年10月15日来年参勤のお供を仰せ付けられる旨用番の織部殿が申し渡された。文政9年12月15日書出しご用掛けを勤めたので九曜の紋附上下一具、同紋附小袖一を戴いた。

文政10年(1827)1月27今年は特別にご用が整い(具合よくまとまり)、心配りなど精を出したので五三桐の紋附、羽二重、小袖 一、琥珀の裏附袴一具を内々に戴いた。文政10年2月18日今年の参勤のお供を仰せ付けられたところが免除され、しばらく二の丸に待機を仰せつけられ、 濱町様(熊本藩八代藩主細川斉茲公)の熊本へ戻るお供をするよう奉行所よりお達しがあった。

文政10年2月17日 梅珠院様(耇姫様)がお亡くなりになった折二の丸に引除(待機)を仰せ付けられ出精したので、内々に 八丈縞一反を戴いた。文政10年2月掛物二幅の対三組、盃一組、お椀と弁当箱一組を二の丸に於いて少将様(熊本藩主八代細川斉茲公)から戴いた。

文政10年3月15日 少将様が熊本を出発なされ、同日お供に加わり同年5月11日江戸に着き、お供の任務を果たした。 道中下関で野袴一具を御前に於いて戴いた。同様に大坂にて縮上布嶋一反をくだされた。文政10年6月7日この度少将様が帰国の長旅の道中で出精を勤め大坂に滞留中格別な心配りをしたので八重櫻の紋附裏附の上下一具を内々に戴いた。

文政10年6月21日この度少将様の帰国の長旅の道中で出精を勤め、大坂滞留中格別な心配りをしたので、二桐紋附薄継上下一具を内々に太守様より戴いた。文政10年11月19日この度婚姻が滞りなくすんだのでお祝として九曜の紋附上下一具、同紋附小袖太守様から下される旨を江戸の山城殿が申し渡された。

文政10年11月19日前に触れたとおりお祝いとして嶋縮緬一反を御前様(八代細川斉茲公)の奥方より戴いた。

文政10年11月少将様から下されるという事で、銀かんざし三本を江戸の老女詰の間で戴いた。文政10年12月22日兼々出精を相勤めた支配方など諸々の事を申し渡したので五三桐紋附小袖一太守様より江戸で戴いた。

政10年12月25日兼々仕事に励んだ本人と詰方も同様に格別に励んだので、思し召しによって九曜の紋附織熨斗目一 二桐紋附縮緬綿入羽織一を内々に少将様より戴いた。

文政11年(1828)4月10日しばらく白金(江戸の下屋敷)に待機を仰せつけられていたところ、直ちに白金詰引除(待機)を仰せつけられる旨を九郎太郎殿から(正式に)お達しがあった。

文政11年7月13日決められていた通りの仕事であったが、本人が格別に精を出して勤めたので特別の思し召しによって、表櫻紋附薄継上下一具江戸にてくだされた。

文政11年12月14日人数が少なかったが、手抜きもせずに頑張ったので、松蓋菱(松かさ菱)紋附裏附上下一具と八重桜紋附縮緬袷一を江戸で戴いた

文政11年12月21日梅珠院様の三回忌につき、桜菱紋附縮緬袷羽織一を下される旨、ご老女詰間にてご老女より申し渡しがあった。

文政12年(1829)1月21日これまでの役目以来、多年に亘り精して勤め、他には少将様の御奉養筋に大いに心配りをし、支配下の者たちに熟知させたとして、座席を佐敷番頭の上座(中着座)に仰せ付けられ、百石を戴いた。

文政12年7月2日少将様が今年七十一歳になられ、染筆(せんぴつ=揮毫)の絵画松月一幅を特別にお書きになり直ちに戴いた。

文政12年7月10日兼々出精したので、十郎左衛門の新役で全ての事柄を一人で取斗(=指示)するのに老年ではお手許のご用向よりも働きが多いので、御意(思召し)によって奥方(蓮性院様)の居間にて表櫻紋附小紋絽単一を蓮性陰様自らの手で戴いた。

文政12年11月少将様の筆による水墨画 中國之内今津浦之 を 御前にて(自ら)戴いた。

文政12年12月1日雪月花(をあしらった)々(しょうじょう=赤色)の三ツ組盃を御前にて戴いた。

この度の内祝については、思召しによって戴いたことが、心が熱くなるまで恐縮・困惑した。御前にて頂いた全ての(畢=ことごとく)盃の内、第一の盃は 菊のお屋形様(亡き九代藩主の正室蓮性院様か?)のお酌で、第二の盃は、太守様(十代藩主細川斉護公・泰厳院様)のお酌で第三の盃は少将様(八代藩主細川斉茲公)のお酌で頂戴した。

文政12年12月19日兼々出精を勤めたので、五三桐紋附及び横麻長上下一具、浮泉桜の紋附縮緬の小袖一、九曜の紋附木綿上張り一を戴いた。

右の浮泉桜のご紋は、少将様のお好みで作られたご紋なので容易に近習(殿様近くに仕える家来)向へは下されないが、(この度は)格別の思し召しによってくだされたものであると、その時に 服部武兵衛によって申し添えられたご沙汰であった。

    文政12年12月23日兼々出精を勤めたので、五三桐の紋附薄継の上下 一具を太守様より戴いた。

    文政13年(1830)2月14日兼々出精とともに長時間の働きであったので、九曜の紋附縮緬草羽織一、同紋附薄継上下一具を戴いた。

    文政13年2月14日兼々少将様のご用向きに出精を勤め且つ、長時間の働きであったので、九曜の紋附羽二重小袖一段(反)を太守様から戴いた。

    文政13年2月24日縮緬一反 妻 おみちへ下される旨、ご老女詰の間にて田川よりお達しがった。

    文政13年1月この春国許へ休息を仰せ付けられる旨を内道殿より達しがあった。同2月15日江戸表を出発、同3月13日国許に着いた。
但し、文政10年より同13年迄計4年間の江戸詰から帰ってきた事になる。

文政13年閏3月18日用意が済み次第、江戸へ行くことを仰せ付けられる旨奉行所より達しが有ったので、同年4月1日国許を出発同5月11日江戸白金の屋敷に到着、翌日より用人の諸々の仕事を勤めた。但し国許での休息日数47日目で出発された。

文政13年8月30日厚板金織物腰(厚い銀の板が織り込まれている携帯用お椀)一つと、在原菱(業平菱=格子模様の)彫物の銀製大形烟管(きせる)一本を戴いた。但し腰椀の金具は銀枝菊の根付(留め具)と緒(細紐)には共に火打袋が添えてある。

文政13年12月15日兼々出精を勤めたので、この仕事を休むよりも速やかに江戸へ行くことを許されることについて、諸事主に思召しになるべく心配りをされて、九曜の紋附裏附上下一具と松蓋(まつかさ)菱の紋附羽二重の小袖一、松蓋菱の紋附羽二重の単(単衣)一を戴いた。

天保元年(1830)白金に於いて雪中の山水掛物一幅。文岱策(中国の文岱の作)を少将様から戴いた。

天保2年(1831)7月11日 兼々精を出して勤めた旨思召し遊ばされ、五三桐の紋附縮帷子一を奥の居間で少将様より戴いた。

天保2年12月17日兼々精を出すことが多い諸事は、主に取り計らい(熟慮)によって対処したので、困ったことではあるが、思し召しにより八重桜の紋附裏附上下一具 二桐紋附紬綿入一 九曜の紋附縮帷子一を内々に少将様から戴いた。

天(保)2年(1831)12月16日祝盤井(細川斉茲公の側室で今井氏の女倉子)からの肝に銘ずべき沙汰(指図)は次の通り。

昨15日大崎の屋敷(戸越屋敷)へ行き、先に居た人に会った折に、御前にてお汁子餅を頂戴するよう仰せ付けられ、退去してからお側の女中に指示されたことによると、権右衛門が続いて酒を飲むことを止められると、旨い酒を飲まずに寒い中食事を摂るのが辛かろうと思し召され、

御前で召される胴召(上着と下着の間の寒さをしのぐ着物=胴着)を戴けるということであったが、胴着の裏が赤いので着用してはまずいと考え、御前で着用するときは、赤裏は外から見て(苦言を)言われないように仕立て直しをするよう、裁定があった由。

翌16日奥の詰所にて、前文の通り祝盤井から申達(しんたつ=文書によるお達し)が同17日下された。
      但し、16日の権外の用事(私用)で居間を訪ねた折、すぐにでもこの品を戴けるように、接へぎ(接いだり剥いだり)されたが、未だにできていない。
日は家屋の縁(へり=縁側)に急いで行こうと考えた。居間の末の間の(居間のはじにある)小姓の詰所で女中二人で中(がいちゅう=夜の10時頃)まで仕立て(の作業を)されていたとのこと。

浅黄縮緬(あさぎ色に染めたちりめん)雲菱の形(端雲を菱形に整えた紋)裏は本日野絹(滋賀県の日野町で産した薄地の生絹)紅色の綿が入っている胴召一つを頂戴した。

天保2年(1831)12月24日 澤村八郎左衛門が休息中にご用を取り扱うという事で嶋縮緬一反を蓮性院様の御前で戴いた。

天保3年(1832)2月12日 諦観院様が病気の間お世話を申し上げたがそのときに7回もお忘れになったり、思い出されたりされたので、女将様(蓮性院様)の御前で黒琥珀の帯地を一筋(一条)戴いた。

天保3年6月27日兼々仕事に励んだとのお考えにより、米沢丈布の緯カスリ(よこがすり=緯絣)の帷子(かたびら=生糸・麻で作ったひとえもの)を一つ、仙台平菱の袴一具(=ひとそろい)を少将様の御前で戴いた。

天保3年7月5日内密のご用について、心配りをしたので赤胴(金と銅の合金)三疋の牛をかたどった三所物(みところもの=小柄/こづか・笄/こうがい・目貫/めぬきの3つの総称で刀剣の装具)をお祝いとして、御間にて少将様から直接戴いた。

但し、真(へいしん=包金)代金10枚 笄には桃(の絵)がある 小柄には玩縄(がんなわ=飾りの縄)がある。裏哺金(うらふくみきん=小柄と笄の裏面の下地を包み込むように薄い金の板を着せたもの)捍(かん=防ぐ)下地をまもったのは私。

元禄4年(1691)9月7日 後藤廉秉 判 

上包み  赤銅三疋牛の証文   代金は金10枚

天保3年9月25日少将様より、鉢植一鉢を下さる旨田川をもって知らされ、それを戴いた。

但し、 それは万年青(おもと)の都城という種類の一鉢で、鉢は尾張焼の鶴波潦付(鶴の波しずく模様)の大振のもの。

天保3年12月15日万事は、いつもながら心からしっかりと仕事を勤めているので、紋附の織線入熨斗目(絹織物)を一つ、三ツ桐の紋附縮帷子(ちぢみ織で作った単衣もの)を一つ、 表桜の紋附縮緬袷(ちりめんあわせ)の羽織一つを少将様から戴いた。

ほかに、八丈縞の被風(ひふ=羽織に似た外衣)を一つ、 この春は寒気が強い砌(みぎり=時節)という思召しによって棉を厚くするようなご意向にもとづき御前にて戴いた。

天保3年12月21日 少将様へ太守様から差上げた金子(きんす=お金)のうち、思し召しによって金子拾両を内々に少将様から戴いた。

天保3年12月23日 明24日は梅珠院様の七回忌になるので、嶋縮緬一反を少将様から戴いた。

天保4年(1833)2月3日九越の祝(49歳を無事に終わったお祝い)をするということで、少将様達は、(九代権右衛門が)目出たくも50歳になったとのご意向で、貝細工の置物 梅の羈彜(きい=馬に使うくつわの紐の祭器)を一つ、金鶏(きんけい=キジ科の中国の鳥)の蒔絵(まきえ=漆器の表面につけられた絵模様)の盃 光山作を一つ御前で戴いた。

天保4年3月7日 諦観院様のお筆(による作品)を少将様と太守様(=十代藩主細川斉護公)の思し召しによって頂戴した。

天保4年4月14日用事があって江戸瀧ノ口(上屋敷)に参上したところ、殿はまさに(私の)仕事の役割が多年に亘って難事が多くあったにも関わらず、仕事に良く励んだので座席を組外同列(仕事の役割はないが身分は保証する)に仰せ付ける旨志水孫七郎を通じて申し渡された。

 

同年同月同日白金(中屋敷)の用人の間に於いて浅口権之助より高見嶋之助(高見家十代)へ申し渡された。すなわち

左(次)の通り

嶋之助は白金中屋敷の近習に雇われることを仰せ付けられていたところご免となり、白金中屋敷のお側の取り次ぎの場に雇われることを仰せ付けられた。

同年同月同日浅口権之助からの通達は右(以上)の通り
権衛門養子 高見嶋之助

右の白金中屋敷のお側取次の場にて仕事を行うよう仰せ付けられた目的については、今日お達しがあった通り、権右衛門がこの度昇進を仰せ付つけられ、嶋之助が着座することについては、お雇いにはそぐわない処置といえども、格別な思し召しによって、直ちに社頭の場(社殿の前)にてお雇いを仰せ付けられることになった。

これまでの役目との違いは大組附の振合(都合)によって召し仕われる旨であるので、このありようは権右衛へ申し渡しておくべきである。

天保4年7月9日 兼々精を出して勤めたので 葉桜の紋付柿色の晒(さらし)帷子(かたびら=夏の麻製衣服)を一つ、奈良地(奈良産のさらし)の帷子下(ズボンか?)を一つ、御前で戴いた。

天保4年8月27日 兼々万事に於いて4年もの間仕事に励み、その間ことさら人数も少ないこの時に出発するので思し召しによって、五三の桐の紋付の袷(あわせ=裏のあるきもの)継上下(つぎかみしも=礼服)を一組、木綿形付袷羽織を一つ、太守様から戴いた。

天保4年8月27日 少将様の思し召しで奥の居間にて、御前が九曜の紋付羽二重の小袖一つを妻のみちへ下さる旨の申達(しんたつ=文書による指令)がご老女の田川よりあった。但し裏地は紅。

同年同月同日 少将様の思し召しによって小桝織の金入帯を一品、娘のすきへ下さる旨、奥の居間に於いてご老女の田川より申達があった。

天保4年7月この秋国許で休息することを仰せ付けられる旨を市部兵衛殿からの申入れがあったので同年8月28日江戸を出発し同年9月28日熊本に到着した。但し、苦節4年の勤めの休息を仰せ付けられた。

天保4年10月16日用意が済み次第早々の出府を仰せ付けられる旨、用番からお達しがあったので同年10月18日熊本を出発、同年11月13日江戸の白金中屋敷に到着した。

但し、その折には少将様が病気にかかっていたので、御前に来なければならず熊本での休息は20日間であった。

天保4年11月15日床揚(病気の快復)され、そのお祝いとして紋附横麻の上下一式を戴いた。

天保4年11月21日青貝細工の吹筒(すいづつ=酒や水を入れて持ち運ぶ筒状の容器)を一つ、唐銅海老の置物を一つ、少将様の御前で戴いた。

天保4年11月24日 松葉蘭の鉢植一鉢をお城で拝領する案内を蓮性院様から戴いた。但し、鉢は尾張焼で白の瀧に鯉の染付け。

天保4年12月21日兼々出精し相勤め、休息よりも変則に仰せ付けられ速やかに出府する諸事が主な仕事となり、心から一生懸命働いたので、 少将様が下さった。

天保5年(1834)4月14日沢村八郎左衛門が熊本へ休息中のとき、蓮性院様のご用を勤めることの必要はないと仰せ付けられる旨のお達しがあった。

天保5年5月11日今度、雅之進様(熊本藩十代藩主細川斉護公の長男・泰樹院)のお引き取りについては、当初からかれこれ心配をしているので、 鍔(刀のつば)を一腰、(但しこれは、雪歴透かし重ね彫りの大小對)、九曜紋附椋(むくの木)麻長上下を一そろい を少将様の御前で戴いた。

同年同月同日右と同じ趣意(考え方)で、仙台平の袴地を2端(反)を太守様から戴いた。

天保5年6月28日  表桜の紋附の木綿単(ひとえ)を一つ、少将様の御前で戴いた。

天保5年7月9日 浮泉桜の紋附キビラ(さらしていない麻布)の帷子を一つ、長晒(さらし)を一つ少将様の御前で戴いた。

天保5年7月9日 昨年権右衛門が熊本へ休息のために帰るよう仰せつけられたが、(既定の期間より)短期でとのご沙汰であったので、 越後縞の帷子地を一反 妻のみちへ下された。

天保5年11月16日 八重桜の紋付縮緬の綿入り被風(ひふ=着物の上に着る外衣)を一つ、 但し古无(む)ゼ絽(夏用の涼しげな単衣の着物で、平織ともじり織を混ぜたもの)の型入りで色は紅、上田嶋の単(ひとえ)一つ、 近来とかく申し分は正しく色々と心配りをしているので、これらを下さるという旨を少将様の御前で老女の田川へ申達された。

天保5年10月2日 雅之進様がまだ公の場に登場される前から厚くお世話を申し上げたという事で、嶋縮緬一反を永田町の栄昌院様(熊本藩十代藩主の斉護公の生母で支藩宇土細川家八代藩主立之公の正室)から内々にお送りいただいた。

天保5年12月1日沢村八郎左衛門が休息中に、ご用を勤めたので、嶋縮緬一反、丹後琥珀(色の)袴地一反を 蓮性院様の御前で戴いた。

天保5年12月5日 太守様(斉護公)の筆で書いたものを龍ノ口の上屋敷でお屋形様(斉護公)の手で自ら下された。

天保5年12月8日 少将様の思し召しによって庵銅カイチの形の香爐を一つ御前で戴いた。

天保5年12月13日 沢村八郎左衛門の休息中に蓮性院様のご用意を勤めるよう仰せ付けられていたが、お役ご免の旨を浅口権之助から達しがあった。

天保5年10月23日 斑入り檜葉(ヒバ)の鉢植、鉢は尾張焼牡丹の染付、を少将様から戴いた。

天保5年12月21日 兼ねてより出精して、諸事は主に細やかな心で仕事に携わって以来、人数も少ない中で御間を抜け出すこともなく精勤したので、 紋附の縬(しじら=縮みじわ)の綿入熨斗目を一つ、紋附帷子を一つ、八重桜の紋附絽羽織を一つ、少将様から内々に戴いた。

右同年同月同日 屋敷内のご用について、よく勤めたので五三桐の紋付で龍紋裏附の上下一揃いを思し召しによって少将様から戴いた。

天保5年12月22日 兼々精を出し、かつ蓮性院様のご用をも勤め雅之進様の公儀に就いた後のお世話もさせて頂き、この他諸事に心配りをしたので九曜の紋附裏附上下一式と、葉桜の紋附縮緬小袖一つを、 太守様から内々に戴いた。

天保6年(1835)6月11日今井久兵衛の娘のおき世をこの時に養女に招くことについて、かれこれ心配し、その後もどのように世話をすべきかについては、さぞや(色々と)考えたであろうとの思召しで、九曜の紋附縮烏帽子を一つ、少将様から戴いた。

(今井久兵衛=備頭組 留守居大頭組 定府:江戸広間取次 百石)

天保6年6月26日 万年青(おもと)の鉢植を一鉢、鉢は尾張焼で、花車の染附、少将様から戴いた。

天保6年7月6日 兼々仕事に励んだので浮泉桜紋附絽織(糸目を透かして織った絹織物)の単(ひとえ)を一つ 但し、下絵は秉(へい=束)形、少将様の御前で戴いた。

天保6年9月19日  青い色をした貝細工の卓(机)を一つ少将様の御前で戴いた。

天保6年10月 春秋山水の二幅對の掛物 但し、養川院(狩野惟信)の筆 を少将様から戴いた。

天保6年11月9日 ここ数年に亘って出精して勤めたこの折にお供を仰せ付けられ、道中筋に急ぎ入り勤める様、とのご意思で、堀江奥成作の金の倶利加羅龍三所物を太守様のお手自ら下された。

少将様のなきがらが熊本にお帰りになる出発点は、白金中屋敷の居間であると決められた。

同役の(用人である)坂本庄左衛門は(少将様のなきがらにお付になりたいと)名乗りをあげた。

天保6年11月9日 この時お供で出発するので、五三桐の紋附縮緬小袖一つを太守様から戴ける旨を用人の間にて、永田内蔵次(奉行副役、150石+足高350石)より申達があった。

天保6年11月1日 少将様のご遺骸が熊本に移されるので、監物殿からお供をする旨の口達書を渡された。

同じ日に落髪(髪を切る)するよう、仰せ付けられる旨を監物殿から申達された。

天保6年11月10日 この時に、熊本に到着したら、引き返し江戸へ向かう様仰せ付けられる旨のお達しがあった。

天保6年11月11日 諦了院様のご尊骸が江戸を出棺するときにお共で出発し、同12月24日熊本に到着した。

天保7年(1836)1月1日 引き返えしに、江戸へ出発するよう仰せ付けられていたが、落髪が不都合である間は、その用意は不要であるとのお達しが直記殿からあった。

天保7年1月12日 江戸へ出発することが仰せ付けられていたが、この15日に小倉経由で熊本を出発するようにとのお達しがあり、同15日国許を出立し、同年2月14日江戸の白金中屋敷へ到着した。

天保7年2月26日 諦了院様のお道具のうち、青貝細工花之丸の斬紙(切り紙)箱、同じく硯箱、青貝細工の御印たんす(印鑑を入れる小道具箱?)の三品は太守様が白金のお屋形に入られる折に、御前で戴いた。

天保7年2月 諦了院様のお道具のうち、太守様、蓮性院様の思し召しで夜具、その他お膳周りのこまごまとした品々、長持などを戴いた。但し、この一連の遺物拝領の品々と、そうでないものの区別はされていない。

天保7年3月3日 ご用があって、 諦了院様が在世中に遅くまで長詰することが多く、ご高齢の身でもあったので、奉養筋(お世話をする方面)を初め皆ねぎらいの強い心を用いて数年の間出精も多く、且つこの役目も多年に亘り勤めたので、この席を考慮され思し召しによって、今まで下された足高百石を禄高に繰り上げる旨を仰せられた。

天保7年3月3日 裏方支配頭の仕事の分担を仰せ付けられ、蓮性院様のご用の引除(待機)詰を仰せ付けられ、雅之進殿のご用までをも兼任するよう仰せ付けらた。

この白金の屋敷の近習(主君のそば近くに仕える家来)やその次の家来、裏方(奥方達)を指導することについては、これまで通りだと家老の間の口達の場で書付をもって渡された。

天保7年3月16日 諦了院様の遺物である浮泉桜の紋附木綿上張一、松蓋菱の紋附羽二重小袖一、八重桜の紋附笹文様の絽単一、浮泉桜の紋附蘭文様の縮緬単一、表桜の紋附風織縮緬被風(かざおりちりめんひふ)一を戴いた。

天保7年3月26日  諦了院様のお側の道具の内 若松蒔絵の重箱一組但し、これは五重組 大ヒビ焼(貫入)花生け紫檀の台付一箱 但しこれは唐焼 桜紋透し煙草(たばこ)盆一組、紙入一、烟草(たばこ)入ときせるは共に一組、白銅(ニッケル入り銅合金)香合(香を入れる蓋付の小さな入れ物)一、蒔絵の盃一組、外に特別に、掛物一幅、明倚雲山人の筆による榮兎の絵画二枚を戴いた。

天保7年3月 思召しによって少将様から戴いた九曜の紋附羽二重小袖一つを太守様から娘の壽亀(すき)へ下された。

天保7年4月19日 諦了院様がお書きになった絵 江の島の図一枚を太守様から戴いた。

天保7年4月22日 一橋ご用掛(御三卿の一つである一橋徳川家との交渉の窓口)を仰せ付けられた。

天保7年4月22日 松蓋菱の紋附縮緬綿入羽織を一つ、五三桐の紋附羽二重袷を一つ、桜菱の紋附縮緬袷羽織を一つ、表桜の紋附縮緬小袖を一つ、八重桜の紋附段洞絽肩衣を一つ、これら諦了院様がお召しになった衣類を雅之進様へお譲りになったものを、雅之進様から戴いてしまった。

天保7年6月14日 表葵の紋附縮帷子を一つ、縮白の下召を一つ蓮性院様の御前にて戴いた。

加増知取附目録(天保7年7月28日)

天保7年10月2日 表桜の紋附上下一揃い、表桜の紋附縮緬小袖を一つ、それに雅之進様のお召しの古着を孫の数衛に着用のために、私に下さるという旨を奥座敷の詰の間でご老女より書面でのお達しがあった。

天保7年10月9日 冬玉梅を一鉢 但し、一松形尾張焼の鉢で蓮性院様が登城された折に拝領いただくとの連絡を戴いた。

天保7年11月21日 諦了院様の一周忌につき、帯地一筋を太守様から戴いた。この因縁(関わり合い)で、茶一箱を就君様(諦了院様の長女)から戴いた。

天保7年12月1日 文庫を一組、表葵の紋附縮緬小袖を一つ、ご用を勤めたという事で、蓮性院様の御前で戴いた。

天保7年12月21日 嶋縮緬振袖小袖を一つ、白地カスリの振袖烏帽子を一つ、雅之進様の御前で古着を孫に着用のためにとのお考えで下された。

天保8年(1837)1月 煙草入れ一組、盃を一つ、袂落(たもとおとし=袂に入れる小物入れ袋)を一組、お鉢を一つ、小盃(小さな杯)を一升(ひとます分)に荻(おぎ)の蒔絵一組 青地のお猪口一つを雅之進様から戴いた。

天保8年1月 華柄の博多帯地を一筋、お猪口を一つ、袂落(たもとおとし=袂に入れる袋)左右一組を、蓮性院様から戴いた。

天保8年3月15日 雅之進様が、この度嫡子としての届けをなさるはずなのでこのご用掛を仰せ付けられた。

天保8年5月5日 (九代権衛門が)雅之進様のご縁組のご用掛を仰せ付けられる旨を家老の間の九郎右衛門殿が申し渡された。

天保8年5月22日 新しいお屋方様の近習とお次支配頭の分職を仰せ付けられ、その外の諸々の分職やご用掛も同時にすべて勤めるようとの内容を九郎右衛門殿が書類で渡された。

天保8年6月18日 越後縞一反と晒(さらし)一反を蓮性院様の御前で戴いた。

天保8年7月1日 嫡子様(雅之進様)のお届けのご用係を勤めたので、紋附長上下を一式、同じく烏帽子を一つ、龍ノ口の上屋敷の御前で戴いた。

天保8年7月4日嫡子様の届と縁組についても、最初の登城から骨を折りこの心配りをしたので、内々に五三の桐の紋附薄継の上下一式、九曜の紋附縮帷子を一つ、八丈縞を一反を内々に頂戴した。

保8年7月4日 嫡子様の届けについては、初めから心配りをしたので、九曜の紋附上下一式、同紋附晒帷子(さらしかたびら)を一つ、薄袴一式を若殿様から戴けるという旨を詰の間において、清成八十朗(御近習二百石)から申し渡された。

同日、若殿様のお筆一枚を御前で戴いた。

天保8年8月1日 紋附上下一式と、帷子を一つ、若殿様の縁組ご用掛を勤めたので戴けるという旨を龍ノ口上屋敷において、御殿様から九郎左衛門殿へ申し渡された。

天保8年12月1日 兼々仕事に励んだので、嶋縮緬小袖を一つと外に煙草入れ一組、焼物の脇徳利を一つ、表切れ(表面から出し入れする?)の紙入を一つを蓮性院様の御前で戴いた。

天保8年12月13日 来春には熊本へ休息を仰せ付けられる旨のお達しがあった。

天保8年12月25日 嶋縮緬一反と扇子を2本、盃を一つを若殿様の御前で戴いた。

天保8年12月25日 今年は格別のご用が多かったので、このところ御問(おあいだ=不用になったとき)に抜け出す様子もなく精勤したので、五三桐の紋附横麻上下一式、葉桜の紋附縮緬小袖を一つ、特別に八丈縞一反を龍ノ口上屋敷の次の間で内々に戴いた。

天保9年(1838)1月13日 九曜の紋附羽二重小袖一柴紋の縮緬一反 彝(い=祭祀用の青銅器)の置物を一つ、袂落(たもとおとし=袂に入れる袋)を一つ、お薬を明後日に熊本へ出発するので、若殿様の御前で戴いた。

天保9年1月13日 銀のかんざしを2本、筥世古(はこせこ=女性が懐中に入れた紙入れの一種)、そのほかの品々を明後日出発するので、蓮性院様の御前で戴いた。

天保9年1月14日 葉桜の紋附縮緬袷羽織を一つ、野袴を一揃いを、兼々しっかり働き、長時間の詰めをもした後で明日出発をするという事で

太守様から(この品々を)戴けるとの旨を龍ノ口の次の間で、山崎太郎左衛門が申達された。右と同じ日に嶋縮緬一反を明日出発するということで、御前様から直接戴いた。

天保8年12月13日 公の仕事が暇になり、熊本へ休息の仰せ付けがあった旨のお達しがあったので、翌天保9年1月15日江戸を出発同年2月15日熊本に到着した。

天保9年4月8日 休息の日数が残っていたが、承掛の(承諾すべき)ご用があったので、江戸に向かう様仰せつけられる旨のお達しが奉行所からあった。

天保9年4月22日 江戸へ出発するよう仰せ付けがあったので、来月の朔日にここを出発し、 小倉経由で(江戸を)目指すようにとのお達しがあった。

予定通りに天保9年閏4月1日 熊本を出発、同年5月10日江戸の白金中屋敷に到着した。

天保9年6月4日 裏葵の紋附縮帷子を一つ、晒(さらし)を一反、 兼々しっかり働いたので、蓮性院様の御前で戴いた。

天保9年6月28日 御前様(太守様)から盃を戴いた。

天保9年11月22日 裏葵の紋附縮緬小袖を一つ、蓮性院様の御前で戴いた。

天保9年11月29日 吸物のお椀とお膳を共に5人前を蓮性院様の御前で戴いた。

天保9年12月21日 嶋縮緬一反と、黒の帯地一筋、扇子2本を若殿様の御前で戴いた。

天保9年12月27日 兼々ご用の準備を具合よくまとめていたところ、十分な気配りをし、万事格別な骨折をしたので、

紋附薄上下一式、二桐の紋附羽二重小袖一つを、太守様から内々に戴けるという旨を近習のお次の組脇の奉札(太守様のご意向を近習が文書化したもの)

でもって江戸に近づいて来たので、同所で二重に(奉札を)書き記した。 但し、江戸に到着したのは天保10年(1839)1月27日であった。

天保10年3月4日 江戸の龍ノ口の御殿で、座席は留守居役の大頭と同列を仰せ付かり、若殿様のお守役も仰せ付けられ、足高五百石と役料(米+斤)は米並に下され、用人の立場よりも蓮性院様のご用についても諸事は今迄通りに心得るよう命じられた。

天保10年4月6日 若殿様がお出ましの折には、お詰の仕事をするように命じられた。 同日 新しいお館の用人の分職、ご用掛部については承認するように仰せ付けられ、裏方の分職についても今迄通りに承諾するよう仰せ付けられ、一方一橋家のご用掛については辞退するよう命じられた。

天保10年4月7日 九曜の紋付晒帷子を一つ、 今年はその結婚についても(お役を)仰せ付けられるので、兼々格別な仕事をこなしたので、太守様から内々にこのお品を戴いた。

天保10年4月19日 太守様(熊本藩10代藩主細川斉護公)の内分の(表沙汰にしない)考え方は次の通りである

近頃は一向に外出もしない様子を(太守様が)お聴き遊ばされ。これでは自然と病気にかかってしまう。権右衛門がもし痛みなどしてはおれもけしからん、困惑をする。

先を見ずに勝手に外出してしまうさまは、家中の者どもへ心配をかけるだろうけれど、それは俺も承知している。勝手に外出をしてしまっても構わない。

右の趣きは、白金へ移り住む折に蓮性院様の奥の間で(太守様から)ご沙汰があった。

天保10年4月 若殿様のお目見を遊ばされ、御願号(自らの願い事)なので、右の諸々のご用は承るよう命じられた。

天保10年10月6日 若殿様の元服に関するご用の諸事は承知するよう命じられた。

天保10年12月1日 裏葵の紋附縮緬小袖を一つ、蓮性院様の御前で戴いた。

天保10年12月21日 表桜の紋附縮緬綿入羽織を一つ、葉桜の紋附薄継上下を一式、上田嶋の単(ひとえ)一つを太守様の次の間にて戴いた。

右と同じ日に、琥珀(こはく色の)白嶋の袴一式、紙入れ一つ、盃一つを若殿様の御前で戴いた。

天保11年(1840)2月4日 高見権右衛門の妻
右は家内のことは熟知しており、夫に対する忠誠の勤めは数年の留守中での世話に関しても行き届き、召し仕えの者達に対しても慈愛をもって接する様子は、委達(こと細かに行き届き)尊徳奇特(徳をうやまう姿がすぐれている)の手本として思し召され、この際一戸(一家の戸籍)として記録しておくよう命じられた。

右その月の用人永田内蔵次(150石)におゐくがこの書附を渡した。

天保11年3月15日 紋附長上下を一式、同じく半上下を一式、熨斗目を一つ、小袖を一つ、 若殿様の御目見並びに元服のご用を勤めたので、これをお祝いとして戴ける旨を龍ノ口上屋敷にて御殿から仰せ渡された。

天保11年3月16日 お召し古(古着)の五三桐の紋附裏附継上下を一式、若殿様の乗出(元服)の一件は最初の公務から萬犒(ねぎらい)の心配りを十分に行い、このとき滞りなく済ませたので、太守様の思し召しによって若殿様から内々に戴いた。

天保11年5月7日 掛物を三幅、左右対で山水、中心は郭子儀(中国の唐朝に仕えた軍人・政治家)の像。

去年から数多くの心遣いが多かった。 兵部大輔(ひやうぶたいふ=官位兵部省次官ここでは雅之進様・慶前公で10代斉護公の長男で24歳で早世)の御目見・元服が滞りなく済み、安心したので、

必尭(ひつぎょう=まちがいなく)最初の勤めから示し合わすなど、特別に心配りをして、未解決の諸問題等もなく(いつも)物事の整理がなされており、

内々にこの品書は右(上記)の通りのお考えで、龍ノ口上屋敷の表居間に於いて、御前から戴いた。

天保11年12月1日 嶋縮緬小袖を一つ蓮性院様の御前にて戴いた。

天保11年12月23日 江戸白金の中屋形において病死。行年56歳

江戸白金聖坂功運寺葬 法名 真龍院殿乾道義強居士

遺髪 高麗門妙立寺葬

肥後先哲偉蹟

1911年(明治44年)に武藤巖男編の上記書籍が東京隆文館から出版された。
序文に十二代高見祖厚(称号広川)による序文と九代高見権右衛門武久についての記述がある。

 原本の原稿(九代武久)

 原本の現代語訳

資料は国立国会図書館のデジタルコレクションより。


1

はじめに

2 高見家関連年表
3 本国及び初代和田勝五郎重治(後高見権右衛門重治) 4 二代高見権右衛門重政
5 三代高見権之助 6 四代高見三右衛門
7 五代高見権右衛門政武 8 六代高見権右衛門
9 七代高見権之助政朱 10 八代高見右源太政信
11 九代高見數衛政久(後権右衛門武久) 12
13 十一代高見熊之助(後嶋之助) 14