天保5年6月28日
表桜の紋附の木綿単(ひとえ)を一つ、少将様の御前で戴いた。
天保5年7月9日 浮泉桜の紋附キビラ(さらしていない麻布)の帷子を一つ、長晒(さらし)を一つ、
少将様の御前で戴いた。
天保5年7月9日 昨年権右衛門が熊本へ休息のために帰るよう仰せつけられたが、(既定の期間より)短期でとのご沙汰であったので、
越後縞の帷子地を一反
妻のみちへ下された。
天保5年11月16日 八重桜の紋付縮緬の綿入り被風(ひふ=着物の上に着る外衣)を一つ、 但し古无(む)ゼ絽(夏用の涼しげな単衣の着物で、平織ともじり織を混ぜたもの)の型入りで色は紅、上田嶋の単(ひとえ)一つ、 近来とかく申し分は正しく色々と心配りをしているので、これらを下さるという旨を少将様の御前で老女の田川へ申達された。
天保5年10月2日 雅之進様がまだ公の場に登場される前から厚くお世話を申し上げたという事で、嶋縮緬一反を永田町の栄昌院様(熊本藩十代藩主の斉護公の生母で支藩宇土細川家八代藩主立之公の正室)から内々にお送りいただいた。
天保5年12月1日沢村八郎左衛門が休息中に、ご用を勤めたので、嶋縮緬一反、丹後琥珀(色の)袴地一反を
蓮性院様の御前で戴いた。
天保5年12月5日 太守様(斉護公)の筆で書いたものを龍ノ口の上屋敷でお屋形様(斉護公)の手で自ら下された。
天保5年12月8日 少将様の思し召しによって庵銅カイチの形の香爐を一つ御前で戴いた。
天保5年12月13日 沢村八郎左衛門の休息中に蓮性院様のご用意を勤めるよう仰せ付けられていたが、お役ご免の旨を浅口権之助から達しがあった。
天保5年10月23日 斑入り檜葉(ヒバ)の鉢植、鉢は尾張焼牡丹の染付、を少将様から戴いた。
天保5年12月21日 兼ねてより出精して、諸事は主に細やかな心で仕事に携わって以来、人数も少ない中で御間を抜け出すこともなく精勤したので、
紋附の縬(しじら=縮みじわ)の綿入熨斗目を一つ、紋附帷子を一つ、八重桜の紋附絽羽織を一つ、少将様から内々に戴いた。
右同年同月同日 屋敷内のご用について、よく勤めたので五三桐の紋付で龍紋裏附の上下一揃いを思し召しによって少将様から戴いた。
天保5年12月22日 兼々精を出し、かつ蓮性院様のご用をも勤め、雅之進様の公儀に就いた後のお世話もさせて頂き、この他諸事に心配りをしたので、九曜の紋附裏附上下一式と、葉桜の紋附縮緬小袖一つを、
太守様から内々に戴いた。
天保6年(1835)6月11日今井久兵衛の娘のおき世をこの時に養女に招くことについて、かれこれ心配し、その後もどのように世話をすべきかについては、さぞや(色々と)考えたであろうとの思召しで、九曜の紋附縮烏帽子を一つ、少将様から戴いた。
(今井久兵衛=備頭組 留守居大頭組 定府:江戸広間取次 百石)
天保6年6月26日 万年青(おもと)の鉢植を一鉢、鉢は尾張焼で、花車の染附、を少将様から戴いた。
天保6年7月6日 兼々仕事に励んだので、浮泉桜紋附絽織(糸目を透かして織った絹織物)の単(ひとえ)を一つ 但し、下絵は秉(へい=束)形、少将様の御前で戴いた。
天保6年9月19日
青い色をした貝細工の卓(机)を一つ少将様の御前で戴いた。
天保6年10月 春秋山水の二幅對の掛物 但し、養川院(狩野惟信)の筆 を少将様から戴いた。
天保6年11月9日 ここ数年に亘って出精して勤めたこの折に、お供を仰せ付けられ、道中筋に急ぎ入り勤める様、とのご意思で、堀江奥成作の金の倶利加羅龍三所物を太守様のお手自ら下された。
少将様のなきがらが熊本にお帰りになる出発点は、白金中屋敷の居間であると決められた。
同役の(用人である)坂本庄左衛門は(少将様のなきがらにお付になりたいと)名乗りをあげた。