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7.五代 高見権右衛門政武

養子 井関家より婿入り ご隠居の名前は拍山

井関家にての兄弟は次の通り

一 貞壽院 細川若狭守様の家中である西川氏の妻となる

一 真了院 名は八十後家より名のる  

       天明5年(1785年)6月19日没 妙立寺葬

一 掃雲院 荒瀬番蔵の妻となる

一 日禎 下総の国實総寺(茂原市日蓮宗寺院高應山実相寺?)

       在住の折に病死 法名は 誠如院

五代 高見権右衛門政武

                     

 妻 真了院

  高見藤太(跡継)

  高見市平(次男) 後 意 一 亀之丞 藤本家の養子になる。

  高見三郎(三男) 山尾善兵衛の養子となる。その折名を市三郎と改める。

         又蘊右衛門と改める。 

         実名は安良

  女子(長女) 藤崎作右衛門の妻 名は志の 法名 慈仙院

  女子(次女) 須佐美源左衛門の妻 名はくん 法名 蓮香院

初めは大組附であった。享保17年(1732年)12月留守居番頭を仰せつけられ相勤めていた処、勝手が違うために役儀を改め、留守居に着座することを仰せつけられる。

知行宛行状(享保19年11月朔日 宗孝公花押)

知行宛行状(寛延元年9月朔日 重賢公花押)

延享4年(1747年)八代の番頭に仰せつけられる。同(宝暦の誤り)3年(1753年)2月江戸城許にての大目付を仰せ付かり、江戸へも次第に登城する機会が増えることになる。
同5年(1748年)12月用人(藩の統治機構に属する職種)を離れ、大目付役を仰せ付けられ、座配持掛(応接役?)の役職で直ちに次の間に召された。
その後病気になったため役職を離れることを願い出て受け入れられ、隠居の身となる。その折に紋附羽織を拝領なされ、178石6斗を旧地に下されることを用番に仰せ渡される。
安永8年(1779年)9月22日病死。 法名 秋雲院 高麗門妙立寺葬

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はじめに

2 高見家関連年表
3 本国及び初代和田勝五郎重治(後高見権右衛門重治) 4
5 三代高見権之助 6 四代高見三右衛門
7 五代高見権右衛門政武 8 六代高見権右衛門
9 七代高見権之助政朱 10 八代高見右源太政信
11 九代高見數衛政久(後権右衛門武久) 12
13 十一代高見熊之助(後嶋之助) 14