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  3.本国及び初代

先祖の出た本国は、丹波の国氷上郡和田(現在は兵庫県丹波市山南町和田)の城主として郡司の官を勤め、その受け持ち管理は4万2千石であった

一 定紋(確定された変更されない家紋)は、赤旗に筋交いに交差させた矢筈 (矢の頭の弦をかける部分)を図案化したものを丸の中に印したものである(丸に違い矢筈)。

添紋(控えの副紋)は、カタバミ旗の紋 赤旗に丸の中に矢筈を図案化したものである。 本名は和田である。城主である和田但馬守は足利将軍義晴公に仕えた。

和田兵衛尉

和田但馬守の婿で、和田の城主を勤めた和田兵衛尉は、宇田源氏佐々木姓の流れを汲む播州高野郡野間の内(現兵庫県多可郡八千代区)の荒田の城主の高見助之丞である。

兵衛尉は、丹後領主赤井氏(赤井悪右衛門)の傘下にあったため、織田信長の命で攻め寄せた明智軍との戦いに参戦した。

しかし、赤井氏は明智光秀との戦いに敗れ、国は乱れ皆浪々の身となった(黒井城の戦い)が、兵衛尉も城を離れ浪人となった。その後名を新九郎と改め、羽柴大納言秀長公に仕えた。

兵衛尉弟 和田奥大夫 → 女子 → その子 和田弥五左衛門

兵衛尉弟 和田壱大夫 → 和田喜左衛門 → 女子

兵衛尉妹 女子 → 女子 → 和田小左衛門 その子は松平新太郎殿へ仕居された。小左衛門は新太郎殿のところで亡くなられた。

兵衛尉嫡男 和田長左衛門 → 和田十左衛門及び和田長四郎 いずれも寺沢兵庫殿に仕える

兵衛尉次男 和田半次 天正18年(1590年)奥州にて討死する。

兵衛尉三男 和田作左衛門 → 和田新十郎と名乗った。

兵衛尉長女 女子

兵衛尉四男 和田勝五郎重治 (高見家初代)

初代 和田勝五郎重治

羽柴大納言秀長公に仕えていたところ、丹後の宮津で、秀長公は重治を細川忠興公に紹介したが、忠興公の所望によって、知行200石で忠興公に召加えられた。

その後、忠興公の嫡男の忠隆公の付人として勤めた。

慶長5年(1600年)8月22日の美濃の国岐阜武藤津府羅の方にての合戦の折功が有った

9月15・6日の関ヶ原の合戦の折、忠隆公の下で細川忠興公の一陣に加わり、相応の働きがあったが、身体に7カ所の傷を負った。

三斎様(細川忠興公)が重大な決意をもって、嫡男忠隆公を責め廃嫡にすべく追放した折には忠隆公の付人を仰せつかっていた(廃嫡事件は忠隆公のリンクに詳しく記されている)。

忠隆公が高野山に流浪した折にお供をした。その後乞われて越前中納言様(結城秀康公)に仕えることになり、一時細川藩を離れた。

御領分(領地)に居候された折に、中納言様のご逝去によって再び浪々の身となったが、慶長16年(1611年)京都に在住していたところ、細川家に帰参が叶い、豊前の国小倉にて知行500石を賜り、番頭として相勤められる。        

このとき、母方の名字を継ぎ高見権右衛門重治と改名される(家紋も同時に高見家に引き継がれた)

病床に伏した折、忠興公へ二人の息子(嫡男権右衛門重政・当時9歳と弟少五郎同7歳)の世話を間七大夫経由で頼んだが、その経緯はこのリンクに詳しく述べてある。

同時に、三斎様(忠興公)御自筆の御書入と御朱印を拝領された。

元和4年(1618年)2月2日病死

法名 為照院春月善光 墓所は不明

 

兵衛尉五男 由良庄兵衛


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はじめに

2 高見家関連年表
3 本国及び初代和田勝五郎重治(後高見権右衛門重治) 4 二代高見権右衛門重政
5 三代高見権之助 6 四代高見三右衛門
7 五代高見権右衛門政武 8 六代高見権右衛門
9 七代高見権之助政朱 10 八代高見右源太政信
11 九代高見數衛政久(後権右衛門武久) 12
13 十一代高見熊之助(後嶋之助) 14