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14.十二代 高見祖厚

系 図(原文) 系 図(写真)

  母 右同断(武久の実娘 寿喜)

十二代 高見直熊

天保14年(1843年)6月28日出生 十一代嶋之助が病気になったためその養子となる。

後 権右衛門と改める。明治維新による改名でまもる(古の下が心)と称した。剃髪後は祖厚と改める。 妻は田中典儀の娘 道 

大正6年(1917年)9月30日午前2時45分長崎県南高来郡島原村魁の無何有庵で死亡。法名は 高見祖厚禅師 熊本市高麗門妙立寺の先塋(センエイ:先祖の墓)に葬る。

妻 道は明治四十五年(1912年)11月10日島原にて死亡

   法名 真鏡院妙貞日禪大姉 高麗門妙立寺葬

娘 豊 母は田中典儀の娘 道で、林新九郎長男忍人(うんど)の妻とな     る。 忍人は早世し、その子は、娘 よき 一人であった。

長男 日子太郎 母は右に同じ 明治24年(1891年)11月8日死亡

     熊本妙立寺高麗門葬 法名 正覚院迷破居士

日子太郎は第五高等学校(一期生)1年の時コレラで病死した。大変な秀才であったと云われる。熊本県立済々黌(せいせいこう)の校葬で送られた。
娘 満寿 母は右に同じ 明治8年(1875年)9月2日誕生

尚絅高等女学校(濟々黌の女子部として設立)に長年勤めるが、後に剃髪染衣して 妙念と称した

大正十一年(1922年)9月3日死亡 熊本高麗門妙立寺葬 法名 信力院妙念日唱法尼

満寿(まじゅ)は熊本私立尚絅(しょうけい)校 の裁縫教師をしていて生涯独身、47才で没す。

次男 安次 母は右に同じ 明治12年(1879年)8月7日出生

昭和34年(1959年)1月21日死亡 享年81歳

妻は東京市深川区富岡門前川岸68号 伊藤恵七の次女く丹

高見祖厚写真集

慶應年間に少司儀(旧称は使番と言った)を勤めていた時に廃藩となり、瓦解して(熊本藩は)廃藩県となって白川県と改められる。白川県十三等に勤め、諸務課に所属した。

明治7年(1874年)4月4日から出勤する。同月29日辞職する。 元治元年(1864年)長州征伐に出軍、小荷駄奉行の職として出軍したがほどなく退陣し熊本に帰る。

小倉の藩侯(小笠原豊千代丸様)を護衛した。藩侯は熊本の坪井(現熊本市中央区坪井)にある伊勢屋に滞在されていたが、事が静まると小倉に帰られた。

明治8年(1875年)宮内省に勤務し雑掌に任じられた。これまでこの名称は小侍従と呼ばれていたとのこと。

事情があって16年(1883年)辞職して熊本に帰り、山岡鉄太郎らと揃って辞職した。熊本に帰ると、上益城郡の東禅寺内に無何有(むかう:自然のままで、なんらの作為もないこと)庵を築て世俗をのがれ閑居する。

明治18年(1885年)事情があって熊本神宮教会長に任命され、3年後にここを退職、直ちに無何有庵に入る。

明治26年(1893年)9月1日旧知事君の(細川)護久公が急に病に倒れ御病死された。東京に行き御葬式に参加、翌日には剃髪法衣となり東京小石川にある白山龍雲院に閑居することになった。 南隠老(南隠全寓老師)の弟子となり、法名祖厚と改める。

東京滞在中脚気を大患いし危篤になったため、熊本より浅山知定(十一代嶋之助娘千代の嫁ぎ先)、安次(息子)をつれて箱根に来る。佐々(友房)等のすすめにより、東京からこの地に転養すると、偶然にも元気を取り戻して東京に帰ることができた。

佐々(友房)らは、かねてよりこの東京の空気が悪いので、どこかしかるべきところに転居した方が良いとの強い勧めもあって、京都高桐院裏に自在庵を建築してしずかに己を養うこと20年、ここに過ごした。

高桐院は三斎公叔父君が創立した寺であり、三齊公の御分骨の御墓所があるので、厚く御菩提をとむらうかたわら御掃除などを勤めようとこの地に来て住まわった。

この間、水野梅暁を弟子に取り、養育に励んだが梅暁が上海に渡った後も書状を送り続けた。

大正3年7月大患しまた、危篤になったため、満壽(二女)安次(二男)記頼等の頼みによって島原魁村に家居を求め、また無何有庵を建築して住むことになった。

これは大正4年(1915年)夏の6月のことである。この間にいろいろな国家大革命に出会った。後世の識者が察すべきところである。 祖厚が書きしるす。

十二代高見祖厚 幼名直熊、後権右衛門と改めるが、明治維新後改名しまもる(古の下が心)称した。(細川護久侯の逝去に際し仏門に入り)剃髪後祖厚と改める。

号に広川・林泉・自在庵等。中島広足に師事し、書・和歌を能くした。維新後宮内省に奉仕し、のち剃髪して京都に住した。大正6年(1917)歿、75才。

熊本市内に居住していたが、西南戦役で焼け出されてその後は居を上益城郡御船町に移った。

祖厚は幕末以来佐々友房と親交深く、お互いに人生を支援し合う仲であった。佐々友房は熊本の私学斎々黌の創立者であり、創立時の学監は祖厚が登用されたとのことである。

後年祖厚は細川家の京都の菩提所、高桐院(大徳寺塔頭)に自在庵を建てて晩年を過ごしたが、病を得て九州島原の息子の許に移るに当たり、高桐院に残した別れの和歌

 「白雲の立ち別れても思いやる 心は通ふ庵の松風」

の自筆の掛軸は同院にあり、またそれを彫った石碑が本堂庭先右手奥の木立のなかに今もある。

釣耕園にはぐくまれた想い出の「むら」』 

  牧兼之・石黒幸子共筆(平成十六年一月)抜粋。

恬淡なりしも機略に富み、世事を絶ってもなお世を忘れられず

高見まもるは廣川、林泉と号した。肥後藩に仕え、禄は900石だった。維新後は宮内省に入り、昭憲皇太后の和歌の指導に当たったという。山岡鉄舟が宮内大夫を辞めたとき、一緒に辞職し、熊本に帰ってくるが、古荘嘉門佐々友房らと交わり、表面には立たなかったが、国憲党の謀師となっていたという。

上益城郡辺田見の山上に4畳半の庵を結び、月花を友にする。明治27年、細川家当主護久の逝去をなげき、上京。長男を亡くしたこともあって小石川の龍雲院の高僧渡辺南隠禅師について剃髪染衣の姿となった。

京に移り、大徳寺の細川三斎廟のもとに草庵を結んだ。最晩年は島原の家族のもとに身を寄せていた。大正6年9月30日、75歳で死去。

「帰るなり見つる胡蝶の夢さめて地水火風の元の住家に」と辞世。

「恬淡なりしも機略に富み、世事を絶ってもなお世を忘れられず」と九州日日新聞の記事にある。

上記内容は、平成21年(2009年)9月30日 熊本日日新聞朝刊「言葉のゆりかご」に掲載された。

祖厚禅師寒山詩偈賛歌

1910年(明治43年)に其日按腐軒社によって出版された「釋教歌詠全集」に上記の和歌集が掲載されている。寒山詩の全287句の句題を和歌で表現した大作である。

肥後先哲偉蹟

1911年(明治44年)に武藤巖男編の上記書籍が東京隆文館から出版された。
序文に十二代高見祖厚(称号広川)による序文と九代高見権右衛門武久についての記述がある。
資料は国立国会図書館の近代デジタルライブラリー(書誌ID:000000434174)
のコマ番号1、3、377より。

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はじめに

2 高見家関連年表
3 本国及び初代和田勝五郎重治(後高見権右衛門重治) 4 二代高見権右衛門重政
5 三代高見権之助 6 四代高見三右衛門
7 五代高見権右衛門政武 8 六代高見権右衛門
9 七代高見権之助政朱 10 八代高見右源太政信
11 九代高見數衛政久(後権右衛門武久) 12
13 十一代高見熊之助(後嶋之助) 14
十二代高見直熊(後権右衛門・祖厚)