先祖附解説(明治23年)高見武之

私の先祖である和田但馬守は足利将軍義治公に謹んで仕え、丹波の国

氷上郡にある和田の城主で、4万2千石の領知を代々仕えていた。

一 その子の和田兵衛尉も和田に住んでいたが、丹波の領主である赤井悪右

門の傘下であった。天正7(1579)年に織田信長公の特命で明智日向

光秀が丹波へ向け出発し赤井氏と合戦に及んだが、赤井氏は討ち果

ててしまった(黒岩城の戦い)。

その時に赤井氏と共に戦った者たちは、散り散りになってしまった。

兵衛尉は城を離れ浪人となり、名を新九郎と改めた。

その後、羽柴大和大納言秀長公に召し抱えられて、嫡子(長男)の

長左衛門、次男の半次、三男の勝五郎(本家先祖附:庄五郎)を

授かった。

一 私の先祖である和田少五郎(本家先祖附:和田庄五郎)は、この秀長公に

仕えていたが、 三斎様(細川忠興公)のたっての希望で文禄2(1593)年

に丹後の宮津で召し出され、知行200石を拝領した。

一 慶長5(1600)年に石田治部少輔三成の謀反の折、美濃の国岐阜での

関ケ原合戦の時に、 三斎様、与一郎様も参戦に加わり、同年8月22日

岐阜城攻、同9月15日の関ケ原の戦いの折に、和田少五郎も

与一郎様のお供をして相応の働きをしたが、7ケ所の傷を負った

美濃の国岐阜武藤の津府羅まで向かった折に、三斎様から重大な決意

をもって与一郎様がとがめられたと伝わっている。

一 同じ年の冬 三斎様と与一郎様の間柄が悪くなってしまったので、与一郎様

は京の都に居住し、その後高野山で剃髪、休無様(長岡休無)と改名し

た。この時お付になっていた部下たちはすべて浪人となってしまった。

その時に少五郎は休無様から金吾中納言秀秋(小早川秀秋公

お預かりの身となっていたが(本家先祖附では越前中納言様=結城秀康公となっている)、

秀秋公(秀康公の誤り)が慶長7(1602)年9月(秀康公は慶長12年閏4月

8日死去)に逝去され、浪人となり数年間京都に住んでいた時、

慶長16(1611)年細川藩に帰参することを仰せ付けられ、豊前の

国小倉にて知行500石を拝領し番頭を仰せ付けられた。

その時に、母方の苗字を名乗り、見権右衛門(初代見家)と改名

した。

元和4(1618)年(本家先祖附より追記:2月2日)病死した。

(分家初代)

一 私の先祖である見少五郎(重治)は権右衛門の次男である。

寛永3(1626)年4月豊前の国小倉で、妙解院様(細川忠利公=豊前

小倉2代藩主)の代に召出され、知行100石を拝領した。

同10年9月熊本にて知行150石を拝領した。同12年江戸

城の外郭にある御成楼のお手伝、普請の折に少五郎も熊本から江戸に

登り、御用を勤めた。これにより御紋附の品々を拝領した。

同15年に島原一揆の折、忠利公出陣のお供をし、相応の働きをしたが、

負傷した。帰陣の折にご褒美として黄金(大判)1枚と、時服(その時に着

るべき服)の小袖、袷、単物、帷子合計5品を拝領した。

その後、鉄砲の係頭を仰せ付けられた。

妙應院(熊本藩主三代の細川綱利公)様の代の慶安5(1652)年には、

鉄砲10挺頭を仰せ付けられた。

寛文6(1666)年8月には知行50石加増となり都合200石を拝領した。

同12年鉄砲20挺頭を仰せ付けられ勤めていたところ、病気にかかり、

役職の変更を申し上げ、以後の知行と家屋敷を返上したくお願いした

ところ、延宝3(1675)年十月隠居を仰せ付けられた。

本家先祖附より追記:延宝5(1677)年6月11日逝去。

(二代目)

一 私の先祖である見次左衛門(重秩)は延宝3(1675)年10月、知行200石

家・屋敷共に違いなく拝領し、番方(主君の身辺を守り武備を受けもつ組

織)に召し加えられた。

同年11月小姓組 に仰せ付けられ、江戸への御供の使者、且つ大御番所

の番目附役そのほか組並の奉公を勤めていたところ、 病重くなり貞享

4(1687)年に小姓組を返上したところ、願いがかない番方に召加えられ

た。

それ以後は、江戸で留守詰を兼ね、当地(熊本)では人馬奉行、御償米

奉行等を仰せ付けられ勤めた。

元禄7(1794)年12月には奥村安左衛門組(千石、番頭)の組脇役を仰せ

付けられ勤めていたところ同12年12月に鉄砲拾挺頭を仰せ付けられた。

同14年には、江戸の留守詰を仰せ付けられ相勤めた。

同16年12月に役儀を変えて欲しい旨を申し上げたところ、願いがかない

番方の上月十郎左衛門組(読み=かみつき、500石)に

召し加えられた。ところが、病気になり勤めることも難しい体になってしま

い、知行と家屋敷を返上する旨をお願いしたが、これがかない宝永元

(1704)年に隠居を仰せ付けられた。

(三代目)

一 私の先祖である見次左衛門(重治)は宝永元(1704)年2月、知行200石

家屋敷共に相違なく拝領し、御番方を仰せ付けられ、上月十郎左衛門

組に召し加えられた。

同3年2月に償米奉行を仰せ付けられた。翌年3月迄勤めたが、小姓組

に仰せ付けられ、吉川仁左衛門組(200石)に召加えられた。

同年9月の見張り役を仰せ付けられ、

翌年七月まで勤めた。宝永5(1708)年江戸へ向かう様仰せ付けられた。

12月に出発、翌年の正月に江戸に到着したところ、上野の寛永寺の大

仏殿の手伝いのため工事現場に差し出され、11月に江戸城に就任す

るまで務めた。

これによって12月ご褒美として、紋附、上下、小袖を拝領した。

直ちに上屋敷に詰めるよう仰せ付けられた。

翌年の7年6月には熊本に帰るお供の下調べを仰せ付けられ実行した。

一 正徳元(1711)年5月江戸の小姓組の脇役を仰せ付けられた。

同2年 親が病気になり、介抱のために熊本に帰りたい旨を申上げたが、

願いがかない、

4月に江戸を出発し5月に熊本に着いた。

享保元(1716)年(正しくは正徳6年)江戸へお供することを仰せ付けられ、

同閏2月に熊本を出発、上屋敷の広間取次兼使者替や上野火の番では

一番出を勤めたところ、正月に上屋敷が類焼となってしまい、下屋敷へ

移り勤務した。

同4月(殿が)下国されるという事で、道中の宿の手配役を勤め、同5 月

熊本に帰られた。

同9年江戸へのお供を仰せ付けられ、正月熊本を出発し、道中の宿取役

を勤め、江戸上屋敷の廣間の取次役替や浅草花火の番については確か

に一番出を勤めた。

同年10月(殿様が)熊本に帰られるので宿取役を勤めた。

同11月1日に熊本に着いたところ、同18日花畑へ出向き、目付役を仰

せ付けられ、奉行所へ日勤をしっかり勤めた。

享保14(1729)年12月江戸詰を仰せ付けられ、江戸に登り、上屋敷へ詰

めていたところ、翌15年6月江戸にて病死した。

(四代目)

一 私の高祖父である見次左衛門は、享保15(1730)年9月に次左衛門の跡

目の知行200石と家・屋敷共に相違なく拝領し、番方を仰せ付けられ

曽我宇左衛門組へ召し加えられた。

同11月

嶋又左衛門組に加わり、組並の奉公を怠りなく勤めていたところ、

元文2(1737)年7月花畑番の目付役を仰せ付けられた。

翌年5月24日まで勤めいていたところ小姓組を仰せ付けられ、

堀次郎左衛門組に召し加えられ、花畑廣間番のお供前そのほかあたりま

えの奉公 を怠りなく勤めた。

一 寛保元(1741)年3月番勤のお供を仰せ付けられ、3月3日出発、道中江

迄のお供を仰せ付けられ勤めた。

一 同年11月22日御婚礼の折には、目黒の長屋筋の辻監(見張り役)を仰せ付

けられ、勤めた。

一 翌年4月1日

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八代の姫様の婚礼のお輿のお供を仰せ付けられ勤めた。

同月27日に熊本へ帰るお供を仰せ付けられ、道中のお供役を勤め、同

6月1日熊本に着いた。

一 延享3(1746)年7月神谷矢柄(1300石、鉄砲三十挺頭)組に入り、組並みの

奉公を怠りなく 勤めていたところ病気になり、小姓組の務めを変えてほし

いと願い出たところ、願いの通りお役ご免となった。

宝暦2(1752)年5月番方の片山多門(2000石、番頭)組に召加えられ、

組並の奉公を怠りなく勤めていたところ、同8年6月長谷川七兵衛(1000石、鉄砲三十挺頭)組に召加えられ、組並みの

奉公を怠りなく勤めていたところ、同12年6月病死した。」

(五代目)

一 私の曾祖父である見次左衛門(勝正)は宝暦12(1762)年7月に親の

役目の知行2百石、家、屋敷共に相達なく拝領し、長谷川七兵衛組に

召し加えられ、組並の奉公を勤めた。

明和3(1766)年 戌8月八代城付を仰せ付けられ、八代で組並みの奉公

を勤めていたが、寛政9(1797)年乙閏7七月に病死し、知行、家屋敷を

差し上げた。

(六代目)

一 私の祖父である見勝平は五代次左衛門の弟である。

天明7(1787)年

3月八代に於いて関口流抜刀師役を仰せ付けられ、褒賞として銀三枚

いただいた。その後も猶又お米5表も戴いた。

一 右勝平は寛政9(1797)年11月4日花畑へ召され、先祖の役に対して、

七人扶持を下し置かれ、中小姓に召し出され、須佐見素雄(500石、中

小姓頭)組に召し加えられることを用番が仰せ渡された。

同月27日この仰せ付けに対して八代の師範役を免じられる旨のお達し

があり、 これにて範師役を11年間勤めたことになる。

一 同12年4月

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常應院様の御廟の番を仰せ付けられ、それなりの務めを果たした。

一 同年5月 孫基院様の奥方が滞留されたので、奥向きの番の世話を仰せ付

けられ、翌13年2月迄二本木の御所の番、代参、代番、使者、お供など

怠りなく勤めていたが、殿様がお帰りになったので、お役ご免となった。

一 享和2(1802)年2月再び孫基院様の奥向きの番を仰せ付けられ、しばらく

勤めていたところ、

4月4日花畑へ呼ばれ、右の本役を仰せ付けられ、足給を15石役職手当

並みの通り下される旨を裏方支配役の支配に召し加えられる旨を用番が

仰せ渡された。当番やそのほかの用事を怠りなく勤めていたところ、

同3年1月10日孫基院様がご逝去になり、同月23日葬式の折に、

しっかり励むよう仰せ付けられ、お供を勤めた。

一 閏正月と同3月に妙解寺での法令の折に寺に詰めることを仰せ付けられ

都合三度勤めた。

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一 同1月21日おたまやの番を一度勤めた。

同2月14日 二本木の引き払いまで勤めていたが、同月17日

見右源組に召し加えられ、座班については元の席に付け置かれる

旨のお達しがあった。

一 享和3(1803)年5月15日穿鑿(せんさく=綿密にどこまでも調査すること)役

を当分の間仰せ付けられた。

文化 元(1804)年5月7日迄日ごとの勤めを怠りなく勤めていたところ、

同日穿鑿役をご免となり、所々御目付当分被 仰付日勤無 悔怠相勤居申候同二年六月四日御花畑二被為 19/54 召所々御目附本役被 仰付御足給拾五石并御役 料銀並之通被下置旨御用番被 仰渡候右御役 日勤怠りなく相勤居處同年閏八月廿三日御花畑江 被為 召御足給技然二而 若殿様御目付被 仰付御役料銀並之通被下置旨 御用番被 仰渡候文化三(1806)年正月廿三日 若殿様御参府二付熊本御叢駕被遊候御役立被 仰付同二月十一日熊本被差立同三月十八日江府江着仕候而 20/54 御奉公相勤居申候文化五(1808)年十月廿七日為休足江戸表差 立同十二月三日爰許着仕候同六年三月廿五日此許被 差立同五月三日江府江着仕候右御役儀相勤居候同 七月五日於江府病死仕候 (八代目) 一 私父見次左衛門武一儀文化七(1810)年正月廿三日於御花畑 跡目被 仰付七人扶持被下置御中小姓二被 召出斉藤 又太夫 堀尉左衛門触組二召し加えられ旨御用番被 仰渡候 一 同八年正月十一日組附御中小姓二組替被 仰付落合 21/54 弥次平衛組二召し加えられ旨御達御座候同十年正月志水 久馬助組二罷成同十二年三月姪尾仙吉組二罷成立改(文政の誤りか?) 二(1819)年小坂半之充組二罷成同四年九月横山藤左衛門組二 罷出同七年兼松群喜組二罷成同八年志水淳助組二 罷成同九年十二月片山多門組二罷成居処同十一年 十二月仮組脇被 仰付當前相勤居申候同十一年十二月 不破太尚組二罷成文政十二(1829)年二月九日於御花畑被為 召右本役被 仰付御足給弐拾石御役料銀並之通 22/54 被下置旨御用番被 仰渡候天保十一(1841)年十二月竹原 九左衛門組二罷成弘化元(1845)年八月廿八日於御花畑當御役 数年手全二相勤候二付目録之通被下置旨御用番被 仰渡御紋付御上下拝領仕候嘉永四(1851)年二月九日御花畑に 被為 召多年手全二相勤候二付御擬作高百石被下置 御番方被 仰付長谷川十之充組二召し加えられ旨御用番被 仰渡候安政二(1856)年五月見権右衛門組二罷成同年十月 常尾九郎左衛門組二罷成當前之御番怠りなく相勤居 23/54 申候處御城内東御門預當分被 仰付相勤居申候同年 十二月廿五日本役被 仰付御役料米並之通被下置岩 間此面組二召し加えられ旨御用番被 仰渡候万延元(1861)年 十一月此面役堀七郎兵衛組二罷成文久(1861)元年十二月 小笠原一學組二罷成申候病気二罷成御役儀難相勤 御座候旨御改之願書四月十二日差出申候五月遠坂 助左衛門組二罷成五月廿五日願之通御役御免被 仰付 御帷子一ツ拝領仕候同月廿七日御奉公御改之願差出 24/54 申候處七月廿五日隠居被 仰付候 (九代目) 一 見武之初直太朗後喜左衛門治左衛門小五郎武之ト改儀文久二(1862)年七月廿五日 御花畑江被為 召芸術心懸宣敷候二付御擬作高百石 其儘被下置御番方被 仰付沢村八之進組二召し加えられ當前之御番一度相勤申候 一 同年十一月九日 良之助様御発途仰御人少二而宮内御附御目附 助勤被 仰付當前之御奉公相勤申候文久三(1863)年 25/54 三月廿四日本役被 仰付御役料米並之通被下置旨 御用番被 仰渡候同年九月十一日宮内 御二方様御上京之御供二而罷登同廿八日京都江 着仕當然之御奉公相勤申候同四年正月五日 御二方様御帰着迄之旨御臺所御賄方御料理方 御留滞御用差入相勤候様被 仰付置 良之助様御下着迄相勤申候同六月到着以来御留滞 御用致心配候二付御内々白銀弐枚被下置候 26/54 一 元治二(1865)年十月十二日 良之助様小倉御出張之御供被 仰付當前之御奉公相勤 申候處同三年正月三日御解兵被 仰出候二付同月八日 御供二而下着仕候 一 慶応元(1866)年四月朔日御八回御用相務候様被 仰付候 一 同二年八月四日 良之助様一日亮御引離之節御同方御用相勤候様 被 仰付同月十八日より 27/54 御同方様御上坂之御供被 仰付同九月六日着坂仕候處 同八日御上京被 仰出御供二而同九日着京仕同十五日 御下國之御供二而同十月朔日着仕候同十月十九日天草 表御用二付被差越御用相仕舞同廿六日 御同方様三角嶽御狩御出向江参着仕候十一月二日より 天草表御巡回二付置二御供申上候 一 同三年九月 若殿様御実名ト差含候二付次左衛門与改名仕候 28/54 一 同四年二月廿一日 左京亮様御上京之御供被 仰付同晦日着京三月廿日 御下坂被遊候二付御供二而着坂四月十日為御上京同所御発 途御供申上當前之御奉公相勤居候内御下國旨二而御附 役助勤被 仰付同五月廿四日関東為御出張御下坂二付 御供二而下坂仕候同六月廿八日同所より御乗船七月九日 東京御着當前之御奉公相勤居候内御下國御願二而 十一月七日東京御發途東海道筋御通行之御供二而 29/54 同月晦日京都江着仕候十二月同所御發途大阪天保山 沖より御借替之異艦御乗船同十四日長崎港御着 同十六日同港御發船同十八日御国許被御供二而着仕候 其後當前之御奉公相勤居申候明治二(1869)年正月十二日更二 左京亮様御附助勤被 仰付相勤居候内四月三日右 助勤引除被 仰付本役手足不申節より本役之場をも 相勤候様被 仰付ん同五月八日 御同方様御上京之御供被 仰付同月十四日着京 30/54 八月二十二日京都御発途之御供二而着阪 左京亮様江は異艦御便船被遊少御人数被召連候 二付同所より御引別奮迅丸乗組被 仰付■湾港より 上陸■後路通行二而九月朔日着其後當前之御奉 公相勤申候 一 明治三(1870)年七月四日於藩座御用有之新御屋形内傳 被 仰付當前之御奉公相勤居候内内傳御役名被廃 新御屋形奥掛家従と被改同年九月二十日表家従之場 31/54 をも相勤候様被 仰付座席是迄之通近士然之口二被付 置旨御達二相成申候其後当然之御奉公相勤申候 一 明治四(1871)年八月朔日御用之儀有之東京表江被差登旨 御達有之御側御女中同道同月十二日熊本出立 四月廿日東京着仕候九月家従被 仰付奥懸をも 兼相勤居候様被 仰付相勤居申候内座席久野加傳上座二 被付置旨御達御座候當前之御奉公相勤候 一 同五年九月朔日御用二付帰縣被 仰付同日東京出立 32/54 同十日着縣御用相済十月十二日家内同道出立同廿日東 京着當然之御奉公相勤申候同年御布達二実名通 称二案之中一名二相改候様との旨二付武之ト改名仕候 一 於東京濱町御邸御用有之明治六(1873)年六月廿八日兼々 出精相勤御改正二就而者遂次職員■別而事労多 端二候處万事厚心を用昼夜心常心勞いたし候二付御紋 附絽御羽織一紬袷御綿入一召賜候當然之御奉 公相勤居候中明治七(1874)年二月廿四日 33/54 顕光院様為御窺東京御發途被遊候二付御供被 仰付東海道筋御通行大阪より郵便艦被為召馬 関御上港小倉路御通行二而三月十三日御着御供二而 着仕候跡地二而當然之御奉公相勤居申候四月十七日 當地御發途乃登丸江百貫石より御乗船二而 長崎江御渡海同廿一日アカンザ艦御乗船神戸 御上陸夫より大阪伏見伊勢路東海道御通行 御下縣御同様二而五月一日東京浜町御邸江被遊御着 34/54 御往来御滞縣中御人少参而骨折候二付葉桜御紋附 木綿御単物地一反被下置候其後當然之御奉公相勤 居申候同年九月廿一日当分北岡邸 御子様江被附置旨候条用意済次第爰許江差立旨被 仰附候二付十月三日東京家内共召連發足東海道陸行 奉願伊勢大神宮参拝同廿三日縣地着仕 御子様方江御奉公當然相勤居申候内石場新櫓側岩永 一路家居御借替二而相借被 仰付直二引移申其後 35/54 當然之御奉公相勤居申候明治八(1875)年七月廿日 顕光院様御凶変二付言上として同月廿二早打二而 爰許被差立小倉路通行下ノ関より乗艦廿六日神戸江 着港候處 今戸様 韶邦公 濱町様 護久公 顕光院様御窺として御下縣被遊候處同所二而御行合 申上御病気御以来御大変之儀委数言上仕翌廿七日 36/54 御左右御別申上同廿九日着京所々様江右御用相勤申候 東京表御人少二付暫ク滞京致し御奉公相勤居候間 縣地より御用之筋被 仰越候二付八月十四日東京出立同 廿一日爰許着仕候其後當然之御奉公相勤居申候同九(1876) 年一月 益姫様御病中以来御凶変二付而は格別心配いたし炎 暑中傷二東京江被差越彼是出精相勤候二付九曜御紋 附紬御袷一金子千五百疋下賜候明治九(1876)年二月十五日 37/54 迄近仕掛家従二而 御子様江被附置候處近仕掛長は被免更二 御子様附家従被 仰付職前相當之月俸下使旨御達 御座候座班之儀は是迄之通其後當然之御奉公相勤居 申候同年十月廿四日神風連百余人突然鎮臺営乱入 其外縣官舎等初所々乱入宿所之放火砲撃夥敷究 玉如雨放火益盛二相成候二付 御子様方乱玉為御用心宇土桂原御未家之御別邸江 38/54 御立除被遊候節御供申上候處翌日到り鎮静二相成二付 廿六日御帰邸被遊候其後當前之御奉公相勤居申候同十(1877)年 二月縣地変動二付 御子様方處々御立除御供申上城兵打出矢部郷迄 進撃使漸ク二四月廿六日北岡江御帰邸被遊候二付而御供二而 帰宅仕候同五月十日御用有之東京表江差越旨御達 有之十二日発足小倉路通行馬関より乗艦同月廿二日 着京直二御用筋相勤今戸濱町両御邸江勤仕候内 39/54 浜町様御着京被遊種々御用二付滞京仕候 但右は引返ト被仰付候へ共切文之通 一 明治十(1877)年十一月十六日當春変動之際 御子様方處々御立除御供二而彼是必定之苦心 有之候二付表桜御紋附紬御羽織一金子弐拾五圓 同十一(1878)年一月御改革二付葉桜御紋附紬御単一紬縞 御綿入一金子六拾五圓下約候 一 明治十一(1878)年二月八日帰縣被 仰付今度 御下縣御供可相勤旨被 仰付候同二月十二日東京御發途 40/54 御供二而出立東海道御通行神戸より御乗艦小倉御上 陸二而小倉路御通行同月廿七日高瀬より被遊御着御供 二而着仕候其後當前之御奉公相勤申候三月三十一日 御子様方上京二付而は當職被御免北岡邸守衛被 仰付四人扶持并出勤日當下約座班之儀高岡一太郎 上座二被附置上妻覚三州申続相勤 御子様方御居間向守衛いたして二ノ御間以下居住被 仰付志垣一静申渡御掃除向守受持相勤候様畢而此節 41/54 御子様方御立跡諸御道具御取纏一件をも申傳候様 右之通被仰付候二出勤御道具取纏メ相済四月廿日迄二而 家丁以下引払庶務懸森繁夫・小崎俊彦両人ハ其後日々御兼用 調二而出勤右御兼用相済両人共引拂家族共御邸江移 轉仕右御守衛相勤居申候明治十三(1880)年三月一日 御子様附家従被 仰付月俸拾弐圓五拾銭被下置旨 被 仰付候 於嘉壽様 於志津様被遊御下縣當然之御奉公 42/54 相勤候内 於嘉壽様二は御一門細川興増殿江御内縁約被整四月 一 一日より御滞留として御日喜越被遊候二付御供相勤申候 於志津様二は北岡御邸被遊御住居候二付森繁夫庶務 懸被命隔番二相勤申候右之通二而事務差支候節は 高岡一太郎・佐倉求呉・志垣一静・高岡数弥及び経 産方■より助勤致候様兼而被■■旨御達二相成候 一 明治十三年七月廿四日當春以来種々御用向格別多端 43/54 之處いつ連も勉励いたし候候二付思召を以當節金子千三百疋 下約候 一 飯田町護美公より御當家御道具等取扱彼是御注 意二付表桜御紋附紬御単物一紬縞綿入羽織一 被為拝領候 一 明治十六(1883)年 三位様護久公御墓参として御下縣中御側向 御用相勤同八月御帰京二付引返御供相勤東京 44/54 表廿日滞京仕候中右御供且御滞縣中御側向御用 相勤候二付紬縞一反 奥方様より博多帯地外御早々下約九月廿五日着 縣仕候 一 明治十七(1884)年一月十八日隠居且長男見純一郎江 家督仕度段届書戸長手元迄差出候 一 同年六月 三位様御墓参として被遊御下縣二付毎之通諸 45/54 御用相勤居候内偶々発病引入七月十日より出勤十日 程相勤候處病気再発尚又引入此許御発途之段 漸御機嫌伺出殿候處御下縣中心配いたし候二付御慰 労として金子千疋下賜候 一 明治十七(1884)年十月廿一日数年出精相勤候二付葉櫻御紋 附紬袷御羽織一ツ下約候 一 嘉壽子様 志津子様明治十九(1886)年三月より東京 御方々様御機嫌御伺として御上京御供申上同六月 46/54 御供二而下縣仕候右相勤候二付紬縞壱反下賜候 一 明治十九(1886)年 志津子様 阿蘇惟孝様より御縁約御内談被遊御整候二付 御用懸被 仰付同年十二月十三日御輿入御供相勤御役 諸御用相勤十六日開■ 一 明治二十(1887)年三月一日 志津子様御輿入目出度被為済候二付被遊御祝九曜御紋附 羽二重御小紬一金子拾五圓下賜候 47/54 一 三位様御滞縣中出精相勤候二付同二十年三月金子 千疋別段千疋下賜候 一 志津子様御日喜越被為済候二付退職内意奉願候處 内意之趣二付御慰被免多年出精相勤候二付九曜御紋附 縮緬丸御羽織一ツ八丈縞一反金子五拾圓賜金貮百 五拾円 奥方様方より浮泉梅御紋袷御羽織一金子三拾圓 御子様方より金子拾圓下賜候 48/54 一 明治廿(1887)年二月廿一日北岡邸御住居跡并奥向守衛安達 休を隔日宿直被 仰付月俸八圓支給セラレ候畢而座班 高岡一太郎口二被附置候 一 同年二月廿二日より安達休を隔番宿直相勤居候 一 明治廿一(1888)年十月十六日 於嘉壽様御婚禮御用懸被 仰付候 一 同廿二(1889)年三月十三日 三位様御墓参として東京御發途東海道御通行 49/54 神戸より御乗艦小倉御上港之旨御報知有之候同月 廿七日山鹿より御着被極候二付毎之通御滞縣中御家御附 家従之場相勤候様被 仰付候二付日勤諸御用相勤候内 戸下温泉御湯治中も詰切相勤申候御帰殿後不相変 相勤居申候五月二日御帰京として爰許御発途被遊候 二付御臺所向取纏メ當前之御奉公相勤申候六月 十八日勤労として金子拾圓外二月俸割合同貮拾 四圓五拾銭下約候其後當内之御奉公相勤居候内 50/54 當春来 御帰縣中出精相勤且此節二作思召之旨 有之別段を以金子拾円別段七圓五拾銭下約候其後 當前之御奉公相勤申候 一 明治廿二(1889)年五月十三日御婚禮御式を為在候得共下地御滞 留として御日喜越被為在候御事二付諸御道具御使 者を以御送り其外御手数向二而御取替ハ表向御當日より 右御用縣面々何連も罷出候處萬事無御滞御舅入も 目出度被為濟諸御使者向引続相勤申候 51/54 一 右御婚禮被為済候二付今般 嘉壽子様御婚禮首尾能被為済候二付被遊 御祝葉櫻御紋附七々子袷御羽織一金拾圓 下賜候其後當然之御奉公相勤申候明治二十三(1890)年 三月十七日 三位様御帰縣として東京御発途之電報至来 付而兼御雇入人負御臺所向御用之衆等夫々御整候処 同廿五日長崎御立山鹿御昼同所前十時御発車二而 52/54 后三時過被遊御着邸候右二付御供松崎廸・相賀壽雄 御滞縣中御附家従之場相勤候様被 仰付諸御用 壱人二而相勤居申候 奥方様御跡東京御發途伊勢御参宮を初勤参御立 寄等二而四月廿九日御着縣就而は 御二所様御用相勤候内戸下温泉御同道二而御湯治 夫より阿蘇殿江御初入等被為在御供申上御帰邸後 當前御奉公相勤申候同年六月十三日 53/54 御二方様御同行二而御上京として御発途同十九日 御着京之電報参着同廿日 御二所様御下縣中出精相勤候旨を以重拾弐圓五拾銭 月俸遠目弐拾四円五拾銭下約候 一 御側御女中春竹村二自宅求相成候二付同廿六日移転致 御居間御守衛として御居間次御間住居被 仰付家族共引越居住いたし候 一 同年八月 54/54 御二所様御滞縣格別骨折出精相勤候二付御慰労 いたして重拾圓別段同拾圓下約候 一 同廿三(1890)年十月 嘉壽子様御凶変二付同六日夜半より東京表 御方々様上申として早打二而被差立十一日着京御容 體委細言上御用相済十一月一日着縣仕候

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