細川斉茲公(諦了院様)

細川 斉茲(ほそかわ なりしげ)、元の名細川 立礼(ほそかわ たつひろ)は、肥後宇土藩の第6代藩主、のち肥後熊本藩第8代藩主となる。熊本藩細川家9代。1759年から1837年迄81年もの長命であったため呼び名も時代によって変遷している。系図では、藩主時代は斉茲

生涯

宝暦5年(1755年)4月26日、宇土藩第5代藩主・細川興文の三男として生まれる。宝暦12年3月18日、父興文の嫡子となる。明和8年(1771年)2月15日、将軍徳川家治に拝謁する。明和9年(1772年)1月25日、父興文の隠居により家督を継いで宇土藩主となり、12月18日に従五位下、和泉守に叙任する。

宇土時代には、藩財政再建のために倹約を行ない、天明の大飢饉で大被害を受けたときには、窮民救済に尽くした。

天明7年(1787年)9月19日、本家の熊本藩主・細川治年の死去にともない、治年の実子が全て早世していたことから、支藩の宇土藩主だった立礼が治年の養子となって跡を継いだ。

これに伴い、宇土藩は長男・立之が継いだ。同年11月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従四位下侍従に昇進した。

また、将軍徳川家斉から諱名を賜り、立礼から斉茲に改名した。 熊本藩主時代には、先々代の名君・重賢以来の名臣を登用して倹約を主とした藩財政再建に乗り出す。

寛政4年(1792年)10月には銀札を発行して藩財政再建を目指したが、これが不首尾に終わって享和2年(1802年)には御銀所騒動が起こった。

しかも江戸の藩邸が焼失するなど、結局は出費も重なり、藩財政再建には失敗した。 文化7年(1810年)11月10日、三男・斉樹に家督を譲って隠居し、天保6年(1835年)10月23日に死去した。享年81。

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