光尚君御家譜抜書(原文)
光尚君御家譜抜書 阿部権兵衛兄弟共討手 竹内数馬 高見権右衛門江 被 仰付候覚書 一 二月二十一日阿部弥五兵衛、同市太夫、同五太夫、同七之丞等兄弟四 人を誅(せめ)世ら連候、竹内数馬、高見権右衛門等討手二被 仰付 数馬ハ討死を遂ケ権右衛門、栖本又七郎等手柄い多し候、その 根元ハ阿部弥五兵衛等、が父阿部弥一右衛門 妙解院様御逝去之時殉死<忠利君ノ譜、寛永十八年之処二詳二出>其遺跡千百石 <一ニ千石>嫡子権兵衛其外相残ル弟共ニ、夫々割ヶ被下候、権兵衛者 始メ権十郎ト申、弥五兵衛、市太夫、五太夫、何レ茂於原城働有り新知 百石宛拝領市太夫ハ其以前より光尚君江被召仕候 考二弥五兵尉五太夫市太夫御知行被下候事者月日分り候得共権兵衛江 被下候月日之いまた見當なし先に被下置候糺(調べてただす)又一云ニハ如意候 光尚君ニ勤仕世り登有 然る尓父之遺跡分知之事表ニハ難有迄(しんにょう+占)悦ふ様奈連共 何レ茂内公快からす別而権兵衛ハ案外之至ト徒ふやき 希(け)るも其上父弥一衛門ハ世上之批判彼是以懶(ものう)支事候 思ひ日を送り候処寛永十九年三月十七日 妙解院様御一周忌ニ當らせら連京都より大徳寺 天祐和尚下向有之於泰勝寺重支御追善御執行 御當日ニハ殉死之子共御寺詰次第之ごとく焼香被 仰付候然處ニ阿部権兵衛者焼香申上ると一同に髪を切 備置帝退候を詰衆見帝お心与里の事ニ阿らし登 各取懸り押當て子細を問候ニ述懐之積ニ而遁世のよし 申候得共時所をも不顧法外之振舞なる故追天 御聴尓達し候処甚御機嫌悪鋪(しく)早速禁籠以誹被 仰付残る弟共茂いたく可申様なく思入帝門戸を閉権兵衛 御仕置之筋如得可被 仰付哉と何やふも罷在妻子兄弟共 密ニ天祐和尚ニたよ里権兵衛述懐之佯り上之御外聞 甚敷御仕置筋難汁候偏御恵ミ奉願候段嘆キ鳧ハ 和尚茂黙止かたく君命尓かかる事阿らハ助命之願を い多し弟子共なすべき登受合其事と奈く滞留し 折を以可申上と窺れ候得共 光尚君是を御暁ニ 被成左様之色見えける時者餘の御咄被成候而権兵衛事 申出べき折もなく任職の僧久々の逗留も難成 帰京尓於およはれ権兵衛其後井手口ニ被引出縛里首 討れ候依之弟共歎の餘尓怒りを含権兵衛上越 不恐仕方御咎メハさる事奈れ共親弥一衛門不肖 なから 先君殉死之者之責帝侍之作法尓 被 仰付候は御恨ミ尓毛奉存へき様なし盗賊なとの ことく白昼ニ縛首を刎ら連御情なき御仕置の上ハ 堂(た)とひ我々此満ヽ(まま)被差置候而茂本家の一跡縛り 首を討置何の面目ニ忠勤を励ミ朋友ニ於つてを 向遍支奈連ハ(向くべきなれば)兄弟一所ニ討手を待帝潔く頓死し 去年以来の鬱憤を散し候王んと諾し覚悟致 極メ権兵衛屋敷ニ取以籠り候 一説ニ弥一右衛門御追腹之刻些ト於く連壽る(ちとおくれする)事阿里て 津崎五助可跡ニ津支(があとにつき)よし其子是を口惜く於もひ
御火葬之節妻子春日村ニ至り髪を雉(薙の誤字か?)火中ニ投ケ込ミ 刀を抜んとし希(け)るを 刀をハ奪ひ取申候 依之存念を達世さる事を含ミ只今之妙解寺脇乃 川を渡り三丁目御門脇より山崎へ至り候よし是は 人尓とらへらる遍(へ)し起(き)との存念のよし扨自分屋敷ニ 帰り一類中申談取以籠り候ト云候 一 弥一衛門跡式嫡子権兵衛ニ被為拝領自分之知行三百石者 被 召上候罷処寛永二十年二月 妙解院様三回御法事之節於御寺不届之仕方有之 討首被 仰付候弟共権兵衛屋敷江取以籠り候ニ付依被 仰付 同月二十一日討果ト云々考ニいつ連もいふ可し 此趣粗 御聴尓達御諚(命令)ニよりて外聞横目之面々 追々彼ノ屋敷之躰を窺ひ覚悟を極免し登聞衣静り 加衣川帝(かえって)居候段委細言上仕候 光尚君御氣色悪敷急度御誅伐可被成加迚(とても)討手之 面々被 仰付先表門ハ御側御鉄炮三拾挺頭竹内数馬 長政<知行千百石>副頭添嶋九(久)兵衛<百石一ニ九郎兵衛> 野村庄兵衛<百石後拾石御加増>裏門者 高見権右衛門重政<御役竹内同前五百石後七百石>副頭千場作兵衛<百石一ニ後五拾石御加増ト有誤之> 御目附畑十太夫<一ニ秦>其外茂有之二月二十一日阿部屋敷を 踏潰春偏しと也 考ニ千場可家記ニ千場作兵衛ハ竹内可副頭ニ而此時数ケ所手を負 候と有左(さ)候得ハ添嶋九兵衛竹内か討死を見帝本組頭之先途を 見届帝名乘帝斬死せしと云ニ相違ト見へ申候重帝可考 扨近隣之輩(やから)者當番堂(た)り共在宿して銘々屋敷相守り 火災を戒御下知奈支(なき)ニ猥ニ彼ノ屋敷ニ入らす落人等無之 様心を可付旨被 仰出都而見物とし帝参る者を被禁 出田宮内少松山権兵衛者警固被 仰付組を引連前夜より 屋敷廻り固メ申し候及深更侍分之者と見え帝面を 深く隠し塀を越へ忍出るを佐分利喜左衛門組足軽丸山 三之允と云廻り役之者見逢早速討留メ候 此首尾よかりし迚(とて)達 尊聴御褒美有之候と也<三之允嶋原ニ而も心ばせ有て> <忠利君御目見被 仰付>御言葉之御褒美有大筒打丸山一平が先祖也 私ニ云上羽左大夫先祖上羽弥兵衛も阿部兄弟御討果之節討手ニ 参り塀を越出候児小姓を長刀尓の世候よし右弥兵衛屋敷も 山崎に有之よし 阿部兄弟者屋敷内掃除等い多し見くるし支(き)物ハ焼捨二十日之 夜者一族之男女打寄最(ウ冠に取)期之酒宴を初メ囃子(はやし)を催し 数刻ニ及帝足手満とひなる妻子を刺殺し屋敷内ニ 穴を掘り死骸を一所ニ埋夫(そ)より兄弟四人并恩顧之 郎等共集リ帝鉦皷を奈らし高念佛を唱衣帝 夜を明し候権兵衛知行共ニハ弐千石ニ近ク其上一所ニ居候故 人数茂多可り鳧と也竹内数馬者未明より押寄門前ニ而 馬乘放し表門を押破ら世鑓(やり)提(ひっさげ)帝真先に入るニ敵 一人も見衣春数馬下知して玄関長屋臺所其外 屋敷内ニ人数を配帝自身ハ臺所之内ニ走り入帝 見連ハ鎖(かぎ)ノ口ほそ免ニ引出置堂(た)るを押明て進ミ入る 竹内が譜代の乙名(おとな)嶋徳右衛門<一ニ左衛門>立隔帝殿ハ今日の 惣大将成麁忽(そこつ)之御振舞不可然私御先仕候と言天 鎖口を入連ハ敵待受したヽかに突鑓脇ニ當り帝 深手な連ハよろよろとして数馬ニ倒連かヽらんとするを数馬 聲をあららけなましひニ先に進ミ足手まとひ也とて 取て押除ケ進ミ入る所を左右より一同ニ鑓付る然共本望 討死も覚悟の上ハ少もひるます死を遂る<一ニ鉄炮ニ中て死す>嶋徳右衛門も 痛手をいとわす一所ニ倒れて討死致し候添島九兵衛ハ 本組頭之先途を見届ヶ候と名乗て斬死しその外野村 庄兵衛を初メ数馬か家来ニ至迄思ひ〃に働き候と也 考ニ野村庄兵衛ハ阿部事ニ付て御追放ト一書ニ有然ハ 働たるハ虚説か外ニ事納有哉重て可考 竹内数馬者嶋村弾正<享禄年中細川高國ニ属し摂州尼ケ崎合戦討死武勇無隠>四代之孫 尓して竹内吉兵衛の末子也吉兵衛武功有(を)以(心) 三斎君御代<一尓忠利君>於豊前被 召出男子五人何レ茂被 召仕候 考ニ竹内政之允と申者當時諸役人段ニ而被 召仕候竹内七郎右衛門ケ 曽孫也右政之允ケ先祖附を見る尓数馬ハ七郎右衛門ケ弟と見え申候 其故ハ竹内吉兵衛親ハ八隅美作守之臣ニ而八隅市兵衛と申 河内國飯盛城之城主也八隅家没落之後其子竹内吉兵衛 <初ハ吉蔵>小西家ニ仕へ速々(連々)武功有小西亡候而已御(いご)吉兵衛於豊前 御當家ニ被 召出千石被下御鉄炮頭相勤候由子共五人被召出候ト 本行ニ有之候嫡子を吉兵衛と云末子数馬也中三人者 八兵衛次郎大夫七郎右衛門也八兵衛次郎大夫数馬共ニ子孫無之と見衣 七郎右衛門ハ八百五拾石迄被下代々相続仕候処政之允親代正徳四年 御暇被下先祖ニ被對(こたえられ)三人扶持(ぶち)被下置候を又政之允ニ被下候也 扨右八隅市兵衛可(が)親共嶋村弾正ニ而候得ハ数馬兄弟之者共 弾正より四代之孫ニ而候也 中ニ茂数馬者幼少より(合字) 忠利君御児小姓ニ而御意ニ叶ひ 原城ノ時者十六才ニ而働有手疵を被り御慶(ほめる)賀之時 三百石之知行を被下<本知百五拾石>今ハ千五百石<一ニ千百五十石>之身上ニ而 御側筒三拾挺頭今年二十一歳也血気荘壮盛尓し天 今度討死を極堂(た)る意レ趣者数馬者 忠利君ノ御近習ニ而甚御意ニ入又林外記ハ當御代無レ双ヒ(ならびなく) 御出頭(しゅっとう)尓し帝大御目附役被 仰付置大小と奈く御政 道筋ニ茂口入致し候然処いか奈る故ニや数馬とハ大尓 不和也今度阿部討手之者御参談之席ニ而外記申候ハ 竹内数馬者先御代御取立之者ニ而御厚恩身ニ餘堂連ハ 加様之時御恩を報世んニこそと申希るより数馬ニ極(きわま)り高見も 同役堂るニよ里同討手之仰(ぎょう)を蒙り候と也此事者以 数馬伝へ聞先御代御取成ル事ハ皆人之知る処也今度 御恩報世よとハ殉死をも遂遍支毛のヽ奈がらへ居るとの 事奈る尓也(にや)上ニ茂外記の申所最ト被 思召上候得ハこ楚(そ) 其満ヽ被 仰付堂る奈るべし御先代拝趨之輩者 腰抜ニ而當御代之御用ニ茂立奴(ぬ)身也今度い左支よく 討死壽るより外ハ阿る満し登おもひ定免希ると也 光尚君ニも此事内々被聞召候由ニ候得共者(は)や被 仰付候天 被差替候事茂難成数馬事若年にして原城ニ而も 手柄あり武勇におひてハ無比類事なれハ必無怪我 首尾好仕廻追罷歸候得と追々御懇意之仰有けるニも 只難有と計り御請申上候既ニ廿日之夜者(は)身を清免 拝領して得堂(た)る白菊の名香を阿く迄(しんにょうに占=飽迄)髪ニとめ(留木)白無垢に 白たすき白絹を以て鉢巻をし免 忠利君御手自被下春る無類之業サもの(わざもの)関兼光乃 脇指ニ重代之刀村正之弐尺五寸兼て覚え阿るを共尓 帯し(身につける)相印の角取紙を付草鞋の緒を男結にして 余りを切捨軍役の人数一期の晴と出立潔ク討死を遂候也 林外記ハ佐藤傳三郎<佐藤将監十郎子 実ハ伊藤十之允子>意趣有之慶安三年外記 宅ニ而討果候其時伊藤左内茂罷越傳三郎と共ニ果申候 左内ハ伊藤十之允兄次兵衛子ニ而傳三郎とハ従弟也一説 畑十太夫ハ天岸樣御肝煎<天岸樣御幼年也御肝煎ト在事い不可し(いぶかし=あやしい)>尓て被 召抱候 兼而臆病者とハ被 聞召候得共恰合(かっこう=きっちり)万端(ばんたん=あらゆる手段)宜敷もの故 い川そ(いつそ)ハ剛成る事もあらん可(か)と被 思召候処今度之仰を 承り候時新免武蔵手柄を仕やれと云て背中を 打候得バはや腰可(が)ぬ希(け)候よし扨(さて)小便壽連ハ討死世ぬもの迚(とて) 小便い多し候と也山崎喰違丁ニ屋敷有之候得共阿部討 果候砌者我家も分らすう路津支(うろつき)候と也依之御暇被下 其頃御家中ニ而者十太夫と云名左へも嫌ひ候と也かヽる臆 病成ル十太夫を以竹内数馬ニ討手之役を倶ニ(ともに)被 仰付堂る 我等分十太夫同前之臆病者と被 思召候事口惜と云て 途中ニ而着込ミをゑ里より引出し討死尓極メ候此事 被 聞召首尾好仕廻討死不仕様ニと御使者度々被下 候得共只畏々と(恐れ多くも)計り御請度毎ニ申上候登云々古老 茶話ニ曰数馬兄竹内八郎兵衛<一ニ八兵衛>と云者ハ仕手ニハ不有し天 阿部屋敷江来り働希る可事濟帝後御吟味之時 八郎兵衛儀仕手不被 仰付候処押而阿部屋敷へ来候事ハ い可尓との 御意也其時八郎兵衛弟数馬仕手被 仰付候而 無心元存参候よし其時尤(もっとも)之事也然ハ数馬討死之時者 一所ニ居候哉与(と)御尋阿り希るニ場所達討死之時不存と云 弟を無心元跡より参候程ニ而討死いたすも志らぬと云者 不都合之事第一御下知を背支(そむき)其上不埒(ふらち)之申分旁(そば・かたわら) 閉門被 仰付也と云々竹内屋敷夜話ニ云数馬ハ予可 大叔父也竹内と云在所也元来ハ嶋村と云享禄年中 摂州尼ケ崎尓て討死世し嶋村弾正可子を嶋村市兵衛ト云此市兵衛 河内八隅氏衣仕衣帝武功有希る時ニ八隅氏を授帝 同姓とし帝八隅市兵衛ト名乗り其後竹内越ト云所を領知 世し故竹内と名字を改帝竹内市兵衛ト名乗市兵衛子を 竹内吉兵衛ト云帝此者武功之働度々ニて信州大田城(紀州太田城?) 水攻之時奈とも働有之秀吉公より白練ニ朱之丸の 陣羽織拝領ス初メ小西摂津守行長ニ仕え帝居堂り朝鮮 尓ても武功有和平之時毛行長より之人質とし天朝鮮尓 三ケ年居多候此時金銀の膳椀なとも国守より給者里(たまはり) その外宝物奈ともらひ堂りし可御家へ被召出御入國 以後手取(自ら調達した)於屋敷類焼ス是より前小西氏滅亡之後清正尓 本知千石ニて出勤世し可とも吉兵衛心尓不叶事阿り天 熊本を白昼ニ立退天此時清正より之討手を気遣イ鉄 炮ニ玉薬を込メ火縄ニ火を付ケ混も討手之用心世し可とも 無別条豊前小倉ニ落着諸大名衆方々より抱可申よし 奈里希連ども 忠興公御懇意ニ而本知ニ而被召出其子毛 又竹内市兵衛ト云予可祖父也兄弟五人有之御入国以後 段々被 召出末弟竹内数馬也有馬御陣ニも嫡子吉兵衛者 御用ニ付宇治江罷越居候而御供不申上候七郎右衛門初残りハ 皆御供申上候七郎右衛門ハ 光尚公江勤仕壽る有馬御陣 之時者時疫(流行病)を煩喰奈らすし帝壽り湯なと飲て城乘之 御供申上堂り運強希連ハ人ハ死ぬものと(死なぬ)老年ニ成りても 折々咄し堂り次郎大夫ハ八兵衛働兄弟四人御褒美銘々 差イ阿り数馬十六才尓し帝御供申上御児小姓故御馬廻りニ 居多り先手ニ参度と再三願ひ申上希るニ御腹立遊し 小伜う世於ろふと御意阿り希連ハ阿川と云帝馳世出春 其時何連怪我左壽奈(さすな)と御意阿り跡より續帝数馬可 乙名一人草履取壱人鑓持壱人主従五人成乙名数馬と 一同ニ石垣ニ着城を乘数馬働支手負堂り御凱陣 之上三百石新知加増都合千百五拾石ニ成ル関兼光之 御脇指 忠利公より拝領し帝所持世り無類之大業 毛(も)のニて御秘蔵ニ被成希連ど毛数馬御意ニ叶ひ拝領春 御登城之時分拝領之後も兼光を借世と御意有 御差被成御登城被遊候事度々也徒(つ)り胴も御斬世被成候(試し切り) よく落堂り壱尺八寸直焼無銘尓し帝横鈩(たたら)目貫穴 二ツ阿り一ツハチ(=鉛)ニ而埋て阿里銀ニ九曜ノ三ツ並之目貫尓 赤銅ふち金拵(こしらえ)へ也目貫者竹内次郎大夫之拝領さ世ら連候よし 申傳也数馬男子奈し幼少の女子壱人阿り討死之跡式 養子被 仰付候得共不行跡(ぎょうせきあらぬ)故御知行被召上候よし竹内 作之允ト云者是可女子ハ本家故ニ予可祖父吉兵衛方引取 幼少ニ而病死断絶壽次郎大夫八兵衛も後年御知行差上 七郎左衛門(七郎右衛門の誤りか?)ハ代々相続の所(そ)ニ正徳年中 宣紀公御代 両竹内御暇何茂家断絶残念之事也右之数馬 拝領之脇差も本家竹内吉兵衛方へ相続ス又摂州尼崎ニ而 嶋村弾正討手之時形見ニ故郷え送り堂る三原正盛之刀 貳尺四寸五歩是も本家竹内ニ相続ス竹内吉兵衛御暇 被下候後ニ八隅見山ト改メ剃髪兼光之脇指ハ左(さ)る 御仁(おひと)躰之取次ニ而去ル御歴々尓御所望也三原正盛之刀 行衛(ゑ)不知此刀ニ而者我説奇怪之咄し多し竹内数馬ニ 立花飛州給りし感状ハ数馬渡辺新弥仲光小内膳 三人連名也ト云々 高見権右衛門茂千場作兵衛等と共ニ相図之刻限裏門乃 方へ向希るニ竹内者兼て討死トおもひ定メ刻限より毛 者(は)やく押寄候得ハ高見後レ堂りと者や川帝(はやって)打破里 押入るニ敵待まふ希帝(もうけて)突掛る権右衛門す可左壽鑓を合る尓(あわせるに) 敵の鑓者やくし帝腹ニ當候得共懐中鏡ニ<此鏡今ニ傳来鼻紙ハ末家(分家)ニ伝え候> と満り候其内ニ相手を仕留メ仕候散々ニ入乱レ切結ひ 家ニ火を掛ケ帝相働く是より先隣屋敷之塚本(栖本の誤り) 又七郎ハ阿部屋敷ニ討手之面々押入る音トを聞ト飛としく 堺能(の)垣を踏ミ破川て年来手訓堂る大身の鑓を 提ケ(さげ)案内知り堂る事奈連ハ兄弟之者を尋累(る)尓 阿部弥五兵衛下知を奈して臺所之前に有又七郎言葉を 可希(かけ)弥五兵衛日頃手練之鑓を見堂し我等見置シ越(みすえしを) 見る歟(みるや)ト云希連ハ弥吾兵衛云ニや及ふト答互ニ恥し免帝 突合ニ又七郎可鑓胸板ニ當り候得ハ弥五兵衛鑓を捨引退候を 臆病也楚こを引奈と又七郎聲を掛希連ハ逃ハ世ぬそ 腹を切と言捨帝内ニ入る其時弟七之允又七郎ニ渡合 暫く鑓合ニ又七郎高股(たかもも)を志たた可ニ突連働奈らす 七之允ハその満々鑓を捨帝立退候<一ニ又七郎を捨帝外ニ働ク>余人ニ討連 希る可腹を切希る尓や一族一同ニ滅亡い多し候又七郎ハ 鑓をか奈ぐり捨希連ども深手奈連ハ歩行難叶(きょう=かなう)打伏世 居堂るを誰とハ不知<考ニ高見権右衛門可>又七郎手負堂るや天晴見事之 働支也者や退連よと申候得ハ又七郎聞帝云ク甲斐奈き 事可奈引程之足阿連ハ先ニ進ムト申希ると也其時 譜代之家来走り来り肩ニ加希帰り候 光尚君今日者松野右京所ニ御成也夫(そ)故高見権右衛門ハ 阿部可家悉ク(ことごとく)焼拂直ニ右京宅ニ至り始終之様子言上仕候 其躰衣類之血ニ染ミ堂る上焼(ほこ)りのかゝ里てよ己連堂る可 殊ニ見事ニ而有し登也扨今日第一の功ハ栖本又七郎奈る 与し也(くみしなり=同意した)具ニ(ともに)言上仕候間早速栖本可組頭谷内蔵允上使 登し帝又七郎宅ニ至り今日之働無比類之段委細被 聞召上御満悦ニ被 思召候随分手疵(きず)保養仕遍支旨の 上意申渡候其後内臓允を被 召出又七郎働 御感之旨御意之儀米田監物より申渡し候と也 栖本又七郎ハ生質温和尓し帝文武ニ志し深く妻女も貞潔ニ して愛有希るよし阿部とハ隣家内外之交り厚く阿部可 子共ハ又七郎夫婦を常ニ叔父様叔母様と云帝馴志多しミ候 と也然ニ阿部一家之者御咎メを蒙りて後ハ上を憚り(はばかり)心の外ニ 疎々(そそ=うとうとしい)敷成し尓阿部兄弟滅亡近ニ阿ると聞え希連ハ又七郎申希るハ 日頃の志多しミいり手王り奈支迚も(とても)上を憚り(はばかり)王連らハ思ひ てもとひ(問い)難し女の事ハ御咎(とがめ)メも有満し希連ハ夜更比と 志川満つ帝忍ひ聞ニとひ慰メ候得とて由るし希連ハ妻 喜び或夜密ニ阿部屋敷ニ至り候得ハ兄弟の妻子とも尓 情深尓事を甚感し奈支跡の事迄も懇に頼置候登也 扨二月廿一日屋敷責(せき=せめる)と聞帝隣家之面々ハ於の連/\可 屋敷を堅メ与火災を慎ム遍支との被 仰出な連ども又七郎ハ 安閑とし帝居堂らんハ勇者之本意ニ阿らし後の御咎メもし 阿らハ安連(あれ)年来手練(てならい)之鑓術此時也ト於もひ希連ハ 廿日の夜密(ひそか)ニ堺の垣之結ひ目を切置討手の押入る 音トを伺ひ居本文のことく働支候と也又七郎手疵(てきず)も快く 成り候上正保元年六月御前ニ被召出阿部御誅伐之時 相働キ手柄を致し手疵も快ク一段之儀被 思召上候未タ 病も残候者湯治奈とい多し可然由 御意ニ而御鉄炮拾挺御預ヶ ニ成候段御直ニ被 仰渡猶又御意ニ府中ニ罷在候而ハ気分 晴や可尓有之間敷(まじく)候間府外ニ居て暖々保養仕候得望ニ満可せ 何方ニ成り共山荘之地可被下よし也又七郎身ニ餘り難有よし 御請申上退出仕候得ハ是を承り候面々扨々御手柄と 賞美申鳧ニ又七郎申候ハ段々結構ニ被 仰付難有奉存傳え承る 元亀天正之頃ハ合戦ト城攻武士朝夕之茶飯のことし阿部 兄弟可こと支の事ハ朝茶のこ奈らんと笑ひ候と也かくのことく 又七郎御感賞ニ預り候者御免を被り帝手ニ合候故也然ハ 堅く御意を守り出合ふ申山中又兵衛事身罷ト人口悪敷聞之 候間又兵衛是非ニ不及次弟ト存候而御暇願申候処 光尚君被思召 栖本可御意を背堂るも尤ニ被答候山中可御意を守り申候ハ其 筈の事也迚御留メ被遊候又兵衛是を深く難有奉存故御追腹仕候と也 一書阿部屋敷ハ山崎今之斎藤勘助屋敷栖本ハ今之 有吉専助屋敷山中ハ今之鯛瀬三郎大夫屋敷也満た一書尓 向屋敷ハ山中又左衛門両隣ハ栖本又七郎外山源左衛門平野 三郎兵衛屋敷也ト云々考ニ此一書者いつ頃之筆記ニ而候哉 今ニ而者屋敷茂追々入替り候又栖本又七郎ハ阿部兄弟 仕物(しもの=仕事)被 仰付候節手を合ケ様ニ御内意を承り居堂る尓てハ 無之哉後日ニ組頭谷内蔵允を被召候而今度阿部兄弟の儀 被 仰付候処栖本又七郎精を出し首尾よく仕廻(しまい=すっかりかたをつける)骨折 申候段具ニ被 聞召上候御直ニ右之段可被遊御意之儀共 御家老中江以先被仰渡旨米田監物申渡候是者 又七郎手疵(きず)未タ平癒世佐る内之よし申傳も有之候との 説阿り又高見権右衛門ハ折節(その時)當番ニ而候を直ニ被差向候 満多 光尚君その日水前寺衣御出被成候可火ノ手 揚り候を御覧被成高見可仕於ふ世堂る事を御存ニ而 御帰ニ松野右京宅ニ御出ト云々いつ連も実事奈るや 又古老茶話曰予か父十二才より 光尚君御近習ニ有之 阿部兄弟ニ討手を被遣候その日者松野右京宅江御成也 御供ニ茂行堂り未明ニ御供中御玄関前ニ揃有之時分 阿部屋敷討手之面々押寄堂りと聞え帝時の聲と 覚え帝大勢の聲御殿ニ聞え堂り 光尚君御意ニも 仕手之者共可只今散り堂るハとの御言葉を御側ニ而 聞堂り其後御駕壱町斗も御出浮御途中ニ而歩衆 馳来り只今竹内討死仕堂るとの注進阿り是越(を) 被聞召甚タ惜世(おしませ)給ふ其後ノ御意ニも数馬事ハ 思召違ニ而仕手被 仰付候との御事也世上ニ而茂林外記可 讒(ざん=悪口をいう)故数馬ハ討死仕堂りとの沙汰也此林外記ハ大 御出頭(しゅっとう=抜きんでる)ニ而大目付勤堂り御家老中を先とし帝 御家中之尋向門前賑々敷中々言葉ニも述難し 人大ニ恐阿へ里然るニ 真源院樣御逝去御懇意之 衆中何連茂殉死之時外記ハ多分一番ニ殉死春可と 諸人於もひ候処曽而(かさねて)切腹せ壽其時諸人の物笑ひニ成り 臆病者と沙汰して初之威勢ニ引替帝御家中 出入春るものなし長岡監物殿斗り始ニ不替懇意ニ而 外記追腹世ぬも臆病とて見加支り堂連共我ハ 左様ニ不思外記何堂る所存阿りて切腹世すニ居るやらん 外記可(が)心ニ奈ら祢ハ(ならねば)知難し士ハ一期の後ニ奈らてハその 人の善悪志連(しれ)ぬ迚(とて)前々の通り也 綱利公御代初ニ 八月朔日伊藤十之允(外記を)討果ス跡より伊藤一家押寄踏潰申し候 家断絶也 考ニ阿部権兵衛髪を切帝御霊前ニ置堂るハ 妙解院様御一回御忌之節ニ而寛永十九年三月十七日也 光尚君者御在江戸ニ而候間達御内聴候事御下國前 四五月之内奈るへ支可御國御着ハ六月十三日也天佑和尚ニ 頼ミ阿部一家より権兵衛御赦免之事等歎支その事 可申上奈らハ六月末七月迄も御國ニ被滞候と見え申候 畢竟(終わる)妙解寺新ニ御建立ニ付而諸事御差図奈とも 御頼被成レ旁を以被相滞候可左候而上京以後権兵衛被誅候与 有事何月幾日奈るニや何レニ十九年の事ニ而弟共御恨ミ尓 奉存奈がら押移候処三回御忌之御法會ニも阿部家ハ御咎メ 之事故焼香をも不被 仰付爰(ここ)尓於ゐていよいよ面目を 失ひ思ひ定メ帝申談(もうしだんず=申上げて相談する)取籠候哉又権兵衛被誅候事 三回御忌御追善迄ハ差延於可連二月十七日御取越之 御法會済候而被誅夫を奉恨弟共直ニ取罷り候儀 同廿一日御誅抜被 仰付候可委細之儀難分候 |