上野火の番

江戸幕府の時代、江戸の消防組織は定火消、大名火消、町火消の三種あるが上野火の番は大名火消に属する。

大名火消のはじまり

 大名火消 又は大名火の番と称していた。寛永11年10月安藤長重以下5人に、火災の時には速かに馳せ消防すべしと命じた。

この後に大名火消の始まりと言われるが、その前に6年5月、参勤交代に当たって、帰国する大名に代って、火の番を命ぜられた大名が十数家あり、各1万石について30人の割合で消防に従事させた。

20年9月には大名火の番を四隊に分け、10月に交代のに時期と定める。

各隊共に四家より構成し、萬石につき30人宛を出した。

正保元年5月更に萬石以上の消防番を分けて三隊とし、各隊は三家を以て編成した。

慶安2年6月には一隊四家、他の二隊は共に三家より構成された。

大名火消の出動人数

天和2年11月には、防火の人員は騎士2,3騎、足軽2,30人を超えてはならない。但し、火消道具を担当する者はこの限りではない。

火事場に定火消が出動していたら、諸家の家人は代って風下を防火をすること。

正徳2年6月の指令によれば、20萬石以上の大身であっても、騎士20騎を超えてはならない。

徒士や足軽もこれに倣うとあり、又制令を下して火消の装束は華美に流れてはならない。

元禄3年4月先例の様に、火事羽織は華飾でないこと、絵模様のあるものを着てはならない、と規制された。

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