江戸城の天下普請

江戸城は徳川家康、家忠、家光の三代にわたって大改革が行われ、細川家もこれに参加しているが、特に有名なのは慶長11年(1606年)の築城石の切出しである。細川忠興公は伊東市宇佐美の御石ヶ沢(ナコウ山)に主要な石丁場を築いたが、その頂上には今も「羽柴越中守石場」と記した標石が残されている。

慶長期天下普請

慶長8年(1603年) 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行っている。

慶長11年(1606年)、また諸大名から石材を運送させ、増築した。その工事分担は、

外郭石壁普請:細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明

天守台の築造:黒田長政

石垣普請:山内一豊、藤堂高虎、木下延俊

本丸の普請:吉川広正、毛利秀就

城廻の普請:遠藤慶隆 などであった。

翌慶長12年(1607年)には関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、このときは高虎はまた設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは堀普請を行った。この年に慶長度天守が完成。

慶長16年(1611年)、西ノ丸石垣工事を東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視した。

慶長19年(1614年)、石壁の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めた。10月2日(11月3日)には、家康は大坂の陣の陣触れを出し江戸留守居役を除く諸大名は、この地からの参加を余儀なくされ諸大名は著しく疲弊した。

このため翌年の大坂夏の陣終結後、家康は3年間天下普請を止めるように指示をした。

元和期天下普請

元和4年(1618年)に紅葉山東照宮を造営し、また神田川の開削を行う。

元和6年(1620年)、東国大名に内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築を行わせる。

元和8年(1622年)には本丸拡張工事を行ない、それに併せて天守台・御殿を修築し同年には元和度天守が完成する。

また寛永元年(1624年)、隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれた。

寛永期天下普請

寛永5年(1628年)から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われる。

寛永12年(1635年)、二ノ丸拡張工事が行なわれた。高見家分家初代の見少五郎はこの時の江戸城外郭の御成桜の整備に参加した。

寛永13年(1636年)には石垣担当6組62大名、濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・城門を築く外郭の修築工事が行なわれる。

寛永14年(1637年)には天守台・御殿を修築し、翌年には寛永度天守が完成する。

最後に万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、一連の天下普請は終了する。

本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。

その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。

以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。

明暦3年(1657年)  明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかった。

安政2年(1855年)  安政大地震により石垣、櫓、門など多大な被害を受ける。

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