また勝竜寺城は細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城としても有名である。天正6年(1578年)8月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。
細川藤孝は天正9年(1581年)に丹後に入封し、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変によって明智光秀の属城となる。
同年の山崎の戦いで敗走した光秀は勝竜寺城に帰城するも、羽柴秀吉軍の追撃を受け、勝竜寺城から坂本城へ落ち延びる途中で落命。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。
一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲って居城を田辺城に移し、ガラシャは離縁し幽閉してしまった。その後勝竜寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃する。
江戸時代に入った寛永10年(1633年)、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築を行うが、江戸幕府より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。
この際に不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成した可能性が指摘されている。しかしそれも短期間のもので、慶安2年(1649年)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となった。