勝竜寺城(青竜寺城)

勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)は、現在の京都府長岡京市勝竜寺に所在した、南北朝時代から江戸時代初期に存在していた城である。城名は付近の同名古刹(勝竜寺)に由来する。

概要

勝竜寺城は京都盆地の西南部、小畑川と犬川の合流地点に位置し、西国街道と久我畷が交差する交通上の要衝で、京都では山崎城につぐ防衛拠点であった。

また勝竜寺城は古墳を流用して築いたのではないかと言われているが、『図説中世城郭事典』によると「主郭や沼田丸ではそれらしき痕跡は認められない」としている。

沿革

延元4年/暦応2年(1339年)、京都をうかがう南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築いた城と言われてきたが、『よみがえる日本の城』によると「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝(幽斎)の正当性を強調するための創作である可能が高い(幽斎は頼春次男頼有の末裔)」としている。

勝竜寺城の戦い

観音寺城の戦いで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する2日前の永禄11年(1568年)9月26日、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友通が守る勝竜寺城を攻撃させた。

岩成友通は足軽衆を全面に押し立て応戦したが、織田軍は精鋭の馬廻り衆を乗り入れ戦いを有利に進めて首級を50余りあげ、上洛を果たしていた信長の陣所である東福寺へ届けたとされる。

自ら首改めを済ませた信長は、上洛を果たした翌9月29日に全軍に出陣を命じ、信長自身が5万兵を率いて勝竜寺城の攻略に向かった。畿内の広範囲を勢力下に置いていた三好三人衆であったが、織田方の大軍を前に降伏・開城する。

これは観音寺城の戦いで近江守護であった六角義賢・義治父子が織田軍の上洛を防ぐと予想していたが、一日も経たずに観音寺城が落城したことが少なからず影響していたと考えられている。

その後信長は芥川山城、越水城、高屋城を攻城、降伏させていき、三人衆を阿波に追い出し畿内から掃討することになる。

元亀2年(1571年)、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。

また勝竜寺城は細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城としても有名である。天正6年(1578年)8月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。

細川藤孝は天正9年(1581年)に丹後に入封し、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変によって明智光秀の属城となる。

同年の山崎の戦いで敗走した光秀は勝竜寺城に帰城するも、羽柴秀吉軍の追撃を受け、勝竜寺城から坂本城へ落ち延びる途中で落命。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。

一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲って居城を田辺城に移し、ガラシャは離縁し幽閉してしまった。その後勝竜寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃する。

江戸時代に入った寛永10年(1633年)、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築を行うが、江戸幕府より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。

この際に不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成した可能性が指摘されている。しかしそれも短期間のもので、慶安2年(1649年)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となった。

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