先祖附解釈 永青文庫所蔵(明治3年)

p1            9百石 高見 まもる

 

一 先祖の和田但馬守は丹波の国氷上郡和田の城主で、

 代々4万2千石を領有し、その子の和田兵衛尉も和田の

 城主でここに居住していた。丹波の領主の赤井悪右衛門の旗のもと

 天正7年(1579)信長公の命令によって明智日向守光秀が

 丹波に向かって赤井と合戦に及び(赤井は)討ち果てた。その折

 赤井旗下の者どもはちりぢりに分散してしまった。兵衛尉も城を離れ

 浪人となってしまった。この兵衛尉は和田新九郎と改名し、 羽柴

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 大和大納言秀長公(秀吉の弟)に召し抱えられた。この新九郎の舅

 (しゅうと)は播州(播磨の国)高野郡野間の内にある荒田の城主の

 高見助之允である。

  新九郎の嫡子(長男)は長左衛門、次男は半次、三男は庄五郎という。

 半次は天正18年(1590)の冬、奥州合戦(秀吉による奥州仕置)の折に

 討死してしまった。

 

初代

一 高祖父の和田庄五郎は文禄年間に丹後に於いて

 三齋様(細川忠興公)の代に召し抱えられ、知行2百石を拝領した。

 その後 休無様(細川忠隆公・忠興の長男)の付け人となった。岐阜関ヶ原の  合戦の折、

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 お供をしてそれ相応のご奉公を勤め、以後

 休無様が加賀へ出発(前田利家公の娘である千代姫との婚儀)の折、お供を  した。 高野山にて

 剃髪して法衣をまとった折に、越前中納言様(前田利家公)に御預りの身で

 いたところ、中納言様がご逝去され、(和田庄五郎は)浪人となってしまった。

 慶長16年に(忠興公のもとに)帰参を仰せつけられ、豊前の国(小倉)におい  て知行5百石

 を拝領され、番頭を仰せ付けられた。その折に、高見権右衛門と改名した。

 元和4年(1618)に病死したが、その折に間七大夫に(余命がわずかで、当時 9歳の二代への相続をお願いする内容の) 覚え書きを差し出したところ、

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 三齋様自筆の御書入(現存している)と御朱印を頂戴した。

 

二代目

一 曽祖父である高見権右衛門(二代)は高祖父の権右衛門(初代)が死去した 時は9歳であった。 元和4年6月頃

 三齋様より知行100百石を拝領、(三齋様が)隠居されて以後

 妙解院様(細川忠利公・細川家三代)の御側に召仕え(当時12歳)、寛永3年

 4月(1626)に加増

 100石を拝領、御側者頭(当時18歳)を仰せ付けられた。

一 同7年(1630)正月に150石を加増拝領した。同11年(1634)

 12月171石4斗を加増・拝領した。同14年(1637)

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 肥前の国の島原一揆の時に、妙解院様(細川忠利公・細川家三代)のお供を した折に、

 血気盛んな感情に動かされる状況にあったが、(指図がなかったのに行動を

 したことが不届きであるということについては)何の咎めもなかったが、遠慮

 (刑罰の一つで自宅謹慎)を仰せ付けられた。

 同20年(1643)2月(当時35歳)阿部権兵衛兄弟を討ち取るべく

 仰せ付けられ実行した。

 真源院様(細川光尚公・細川家四代)の代の同21年(1644)7月加増3百石  を拝領した。

 妙應院様(細川綱利公・細川家五代)の代に使番(伝令、監察、使者)の職を  仰せ付けられた。その後

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 小姓頭(藩主の則近である小姓や小納戸を統括する役職)を仰せ付けられた。

 妙解院様 真源院様の代には江戸城にお供された。

一 妙應院様の代にも江戸に度々お供を勤めた。

 其の外、隣国の使者等を勤めた。  明暦2年(1656)

 10月病死された(享年52歳)。

 

三代目

一 祖父の高見権之助は児小姓に召出され、江戸にて勤めた。

 その後、外様(藩主から離れること)になり、明暦2年(1656)11月

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 曽祖父権右衛門の跡目、知行が祖父の権之助に相続された。

 寛文元年(1663)8月使番を仰せ付けられ、その内江戸詰めや

 使者など度々相勤めた。 延寶元年(1673)8月に八代

 の番頭を仰せ付けられ、加増178石6斗を拝領され

 都合千石になり、八代に向かい17年相勤めた。

 元禄2年(1689)病気となり、役儀を断わったところ

 願いがかなって直ちに隠居を仰せつかった。

 

四代目

一 私の養父である高見三右衛門は祖父権之助の家督を

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 継ぎ、大組附(留守居組の大頭の下)を仰せ付けられた。

 元禄4年(1691) 弓20挺頭

 を仰せ付けられた。同6年(1693)9月 番頭を仰せ付けられた。同8年

 (1695)江戸で御留守詰(留守居・城使)を仰せ付けられ、翌年(藩主が)参勤 の折まで江戸詰をした直後、もっぱらお供役として召し置かれた。

 同10年(1697)4月まで3年間勤めた。同12年(1699)4月長崎の

 上使(上司)である林藤五郎様が長崎にお帰えりの折に、小倉への使者として

 仰せ付けられ勤めた。 同13年(1700)9月、立花英山様(立花鑑虎1646〜1 702)が 日奈久(八代市日奈久温泉)に湯治に向かうとき、そこに詰めるように 仰せ付けられた。

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 日奈久へ9月29日参上し、10月9日帰られるまでそこに詰めた。

 同14年(1701)11月役儀を召し上げられ、大組附を

 仰せ付けられた。宝永3年(1706)12月八代の番頭を仰せ付けられ、享保

 4年(1719)6月迄勤めたところ、病気になり役職を断り、その

 願いが叶ったが、益々以て病気がひどくなったので

 同5年(1720)正月願いのとおり隠居を仰せつかった。

 

五代目

一 私(高見権右衛門政武)の養父である高見三右衛門は同年正月に家督を拝 領、大組附を仰せ付けられた。同17年(1732)12月御留守居の御番頭を

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 仰せ付けられ、同20年(1735)役儀を断り申し上げたところその願いが通り、

 (御番頭・長官を)御免となり御留守居着座(平の任官)に仰せ付けられ、元文 4年(1739)4月

 八代の御番頭を仰せ付けられた。延享4年(1747)2月御留守居

 御番頭を仰せ付けられ、寶暦2年(1752)2月御用人に仰せ付けられ

 同6月新組頭を仰せ付けられ同3年(1753)2月大目付を

    <同4年4月にも左の御品を拝領した>

 仰せ付けられ、同2月江戸へ御供として罷り登り同5年(1755)の秋迄

 詰めるよう仰せ付けられ同年11月江戸に向かい、12月

 到着した。その後病気になり御役儀をお断り申し上げたところ

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 寶暦7年(1757)2月数年に亘り精勤したので、直ちに隠居を仰せ付けられ

  御紋縮緬(もんちりめん=紋織りの一種)の袷御羽織(あわせばおり)一式を拝領された

 

六代目

一 高見藤太の曽祖父が下された加禄の内七拾八石余は

 旧知の禄のもと九百石を嫡子藤太へ拝領なされ大組附の

 有吉市左衛門組に召し加えられた。同九年(1759)正月より権右衛門と

 名を改めた。明和三年(1766)九月御鉄炮三十挺の副頭を

 仰せ付けられた。 同六年(1769)三月御鉄炮十挺の頭を仰せ付けられた。

 安永四年(1775)閏十二月病死した。

 

七代目

一高見権之助は権右衛門の養子で安永五年(1776)

  三月17歳で父に下された御知行は相違なく家

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 屋敷と共に下され、番方を仰せ付けられ、松野外記組に

 召し加えられ、天明二年(1782)三月江戸に行く。同三年(1783)六月江戸詰 が済んで熊本に戻り、同七年(1787)二月病気につき二十八歳で隠居を仰せ 付けられた

 

八代目

一高見右源太は権之助の養子で、天明七年(1787)正月

 御目見の栄誉を見た。同年二月二十三歳で、父へ下された御知行

 は相違なく下され御番方を仰せ付けられ直ちに横山五郎大夫組に

 召加えられ、寛政元年(1789)三月江戸へ立ち同二年(1790)六月帰国

 同五年(1793)六月御使番を仰せ付けられた。同七年(1795)二月御供

 にて江戸に罷登った。

 同八年(1796)五月江戸から帰参、同九年(1797)十月八代の御城内が

 焼失したのを機に

 江戸へ早打にて差し立ち同十一月熊本に帰参。同十年(1798)二月

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 御留守詰のため江戸へ出発、同年四月江戸の御留守居の助勤を

 当分仰せ付けられ、同十一年(1799)五月この助勤を當分の間

 御免あそばされ、江戸を出発、同六月に熊本に帰参する。同年九月

 御留守居助勤を仰せ付けられ江戸に立ち同十二年(1800)この助勤を御免

 遊ばされ、十月熊本に帰参した。享和元年(1801)二月江戸に立ち、同二年  (1802)六月熊本に帰参、同年七月佐藤仙九郎の後を継ぎ御中小姓頭を

 仰せ付けられ、同年十二月この度の御祝御用懸を相勤めたので

 御紋附御上下一具同御小袖一下され、同三年(1803)

 二月江戸に立ち、文化元年(1804)二月この秋まで御留人を

 仰せ付けられ同年十月熊本に戻り文化二年(1805)二月

 御供として江戸に登る。同年七月四十一歳で病死

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九代目

一高見数衛は右の右源太の養子である。享和

 元年(1801)右源太は江戸に召し連れられた。同年八月

 御目見えが叶い、同二年(1802)正月御雇を仰せつけられ、

 同年五月右源太一同は熊本に戻り、同年六月

 追い廻し騎射と犬追物の催しで活躍した旨が伝え届き

 詰の間で口頭で伝えられ、文化二年(1805)三月犬追物ならびに

 追廻騎射を数年心懸け厚く頑張ったので

 騎射者として抜群の腕があるとして御褒め戴いた。同年

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 十一月二十一歳で父へくだされた知行は

 相違なく下し置かれ、大組付を仰せつけられ、沢村宇右衛門

 組に召し加えられた。同四年(1807)五月 公儀定例の御祈祷の節、

 阿蘇神社上の宮に御祈祷の御名代を仰せつけられ、同六年(1809)四月

 御使番を仰せつけられ、同年六月犬追物追廻騎射の

 稽古を数年にわたり心懸厚く出精したので

 尊聴の御紋附、御上下一具を下し置かれ、文化九年(1812)八月

 御城に於いて御禮の御用を勤めたので御紋付御上下一具

 御帷子一下し置かれ、同年十一月長崎の御留守居を

 仰せ付けられ座席は堀田諸兵衛の上座に附けおかれ、同十年(1813)

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 三月長崎の詰め所の変更を指し越された。同年十月権右衛門と

 改名し、同十一年(1814)三月交代を済ませ熊本に帰る。同月奥田

 権之允跡として御中小姓頭を仰せつけられ、同年十月

 御用人を仰せつけられ、同十二年(1815)正月江戸に上り、同十三年(1816)

 四月熊本に戻り、同年九月勤めがよく理解できなかったので、お断りを願い、  御役目を免じられ、大組附を仰せつけられ、座席は元の通りを

      <文政元年と改>

 仰せつけられ、松井直記組に召し加えられる旨同十五年(1818)三月

 御用人を仰せつけられ、同年八月江戸に出府、同十月

 座席は堀尉右衛門の上座に附け置かれ、文政二年(1819)十二月

 日光御霊屋向け、ならびに諸々の堂や社の修復の御用を相勤めたので

 銀二拾枚、御時服(時節柄に合った服)三 御羽織一 公儀より下し置かれ   九曜の御紋付

 御上下一具 同御小袖一縮緬御袷羽織一  御殿より直接下され

 同三年(1820)三月

 数年出精し相勤めたので、座席は中着座同列を仰せつけられた。

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 同年文政三年(1820)六月御供として熊本に帰り、八月この度日光の御拝禮  夫より直ちに熊本へ帰る御供を仰せつけられ、数日間の御道中ことさらに川々

 が満水になってしまったおりに、格別の心配りをしたため、御紋付縮緬

 御単羽織一 同御帷子一 を下され、同四年(1821)

 三月江戸に立ち同五年(1822)正月 篤姫様(九代細川斉樹公の次女で10  代細川斉護公の許嫁1811〜1824)の御縁組

 御用懸を勤めたのでお祝いとして御紋付御上下

 一具 御小袖一 を下され、同年五月御供として熊本に帰る。

 同六年(1823)三月 こう(土の下に句)姫様(八代細川斉茲公六女1823〜1 826)の御誕生の御用受込を

 仰せ付けられ無事勤めたのでお祝いとして御紋附御小袖を下され

 同年三月御供として江戸に行き、同七年(1824)六月御供として

 熊本委帰る。同八(1825)年九月御供として江戸へ行き同九年(1826)五月

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 この度 御家督ならびに御元服の御用懸を無事勤めたので

 御祝遊ばされ、御長上下一具 御半上下二具 袷

 御熨斗目一 御帷子一 下され、同年六月御供として熊本に戻り、同年八月

 今度 無事入国遊ばされた御祝いとして 御紋付御上下

 一具 同御帷子二 を下され、同年十二月

 同御小袖一 を下され、文政十年((1827)二月

 濱町様の御供で江戸に向けて出発し同年十一月御婚禮

 遊ばされ順調に婚儀を交わしたので、御祝遊ばされ、御紋附御上下一具

 同小袖一下された。同十二年(1829)正月先の御役以来

 多年にわたり出精相い勤めたので、別しては

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 少将様の保養の折に厚く心配りをした。支配方

 へも熟知していると評価されたので、座席は佐敷御番頭

 上座を仰せつけられ、足高を百石下された。同十三年(18390)

 三月休養として熊本に戻り、同年四月江戸へ出府。天保

 四年(1833)四月役職を多年にわたり精勤厚心したので、参事

 主になり、出精したので座席は組外同列を仰せつけられた。

 同年九月休息として熊本に戻り、同年

 十月江戸に登り同六年(1835)十二月

 諦了院様(八代細川済茲公)御尊骸の御供で熊本に戻り、同七年(1836)正  月

 江戸に向かい同年三月 諦了院様の生前中に

 何度も長期のお勤めをしたので、御高年様之

 御事ニ茂被為在候付御奉養筋を始

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 萬瑞厚心を用数年之間格別精勤

 いたし且當御役茂多年相勤候付■此節

 思召を以今迄被下し置かれた御足高百石地面

 被直下置天保八年七月今般 御上下一具同御帷子一下し置かれ同年八月  若殿 様御縁組御用懸相勤候付被遊

 御祝御紋附御上下一具同御帷子一下し置かれ

 天保九年十二月為休息罷下同年閏四月

 休息之日数満不申候得■承懸し御用有之

 出府同十年三月座席御留守居大頭同列

 被 仰付  若殿様御守役被 仰付御足高五百石被

 下置御用人之■を茂相勤

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 蓮性院様御用を茂諸事今迄之通相■■

 候様被 仰付天保十年四月

 若殿様御出之節 御跡■被 仰付同十一年

 二月妻儀家内熟知ニ有之夫候事方■

 数年之留守中

 尊聴奇特之儀被 思召上候付き○於中之間御■■

 書付相渡同年三月

 若殿様

 御目見并御元服御用相勤候付被遊御祝

 御紋服御長上下一具同御半上下一具同

 御熨斗目一同御少袖一下し置かれ同年十二月五十

 六歳ニ而於江戸病死

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十代目

一高見嶋之助儀右権右衛門養子ニ而候 文化九年

 九月 御目見仕文政八年九月剣術槍術心懸厚

 出精何連茂藝術相■候段於■堂申渡 同十二年

 八月白金御近習御雇當分被 仰付天保四年四月

 右御雇當分被遊御免白金御側御取頭之■ニ而

 御雇仰せつけられ同七年五月迄相勤申候同十二年

 二月四十二歳ニ而父江被下し置かれた御知行無相違

 家屋敷共下し置かれ中着座仰せつけられ三淵助次郎組

 被召加座席朽木内匠次席被附置同年四月

 座席持懸ニ而志水新之丞組之御小姓頭仰せつけられ

 天保十四年八月當年上野火之御番

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 被為蒙 仰候処同役并表方御人打ニ

 有之候得共御取■之砌ニ付去冬被

 仰出候御趣示を奉シ御人深厚致心配

 熟知ニ申候御間欠ニ不相成様取計

        御紋附縮緬御単羽織一

 各別致出精候付○下し置かれ同十五年九月

 罷下弘化二年七月若殿様御供ニ而罷登

 同年十二月若殿様御婚禮御用懸相勤候付

 被遊御祝御紋附御上下二具同御小袖一下し置かれ

 弘化三年五月去年

 若殿様御参府之御供一人ニ而相勤上當

 御在府中御出■ニ被為在候處出精相勤候付

 御内々より御紋附御袷一下し置かれ同年閏五月

 罷下弘化三年十月別段御不■筋格別

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 致心配被付御紋附御小袖一同縮緬御袷羽織一

 下し置かれ弘化四年三月御供ニ而罷登嘉永

 元年六月数年出精相勤候付御紋付御上下

 一具同御帷子一下し置かれ同年九月罷下

 同二年二月出府嘉永二年三月去秋

 御滞府被仰出候砌御人賦之儀厚心配いたし

 候付御紋附御小袖一下し置かれ同年十二月

 勇姫様御婚禮御用懸仰せつけられ置今度御引越被

 為■候付被遊御祝御紋附御上下一具同御小袖一下し置かれ

 同四年四月

 若殿様 御目見并御元服御用諸事

 取計候付御内々ニ而被遊御祝御紋附御長

 上下一具同御小袖一下し置かれ同六年七月

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 若殿様御入國御用相勤候付被遊御祝

 御紋附御上下一具御帷子一下し置かれ同七年

 五月出府安政二年四月御供ニ而罷下同年五月

 座席持懸ニ而長谷川十之允組之御番頭被

 仰付同年十月病気ニ付願之通當御役被遊

 御免御雇勤以来多年出精相勤且於江戸

 御側備之志らへ等主ニ成申續格別致心配候付

 御紋附縮緬御袷羽織一下し置かれ座席今迄之通

 に而御留守居大頭組被召加同三年正月

 座席持懸ニ而田中典儀跡御小姓頭被

 仰付直ニ當春出府被 仰付 御發駕御同

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 被差立安政四年五月御供ニ而罷下同年

 閏五月座席持懸ニ而御用人仰せつけられ同年

 十一月御祝御用懸相勤候付御紋附御上下

 一具同御小袖一下し置かれ同年同月當■御供

 に而罷下候節佐分利十右衛門家来ニ而江戸欠落

 いたし候出京町人数甚八と申者同勢之内ニ加連趣

 候儀追々■向合相違無之段相連候右甚八儀

 奔亡之者ニ付於御道中茂其筋江相届此許

 着之上は早速御法之通取計を可申処其侭ニ押

 ■ 数日之間屋敷江留置候次第■■ニ不行届儀

 に付以来心を用候様可申聞■同役江書付相渡

 萬延元年四月地旅共多年出精相勤候付座席

 上着座同列ニ仰付旨江戸於為■■申渡萬延元年

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  六月 泰源院様御遺髪并御■御霊牌奉守

  御國許江被差下同年九月

 御葬送并御法事御用懸相勤候付御紋附

                        後

 御小袖一同御袷羽織一下し置かれ同年十二月當

 御役被遊 御免座席元之通中着座被

                     前

 仰付堀丹右衛門組被 召加同年十一月

 御家督被遊御祝御紋附御上下一具同御小袖一下し置かれ

 同二年二月 御入国御用懸■ 御任官付而

 御祝御用懸を茂相勤候付御紋付御上下一具

 同御小袖二同縮緬御袷羽織一下し置かれ文久

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 元年二月六十二歳ニ而病死

十一代

一高見嶋之助儀右権右衛門嫡子ニ而候嘉永

 三年七月 御目見仕文久元年四月二十

 四歳ニ而父高見権右衛門江被下し置かれた御知行之内

 九百五拾石并家屋敷と茂下し置かれ比着座被

 仰付備前組被 召加座席小笠原一學次座ニ

 被附置同二年閏八月二十五歳ニ而隠居

十二代目

一高見尚熊儀右嶋之助養子ニ而候未タ

              二十歳ニ而○

 御目見不仕候文久二年閏八月○被下し置かれた御知行之内

 九百石家屋敷共養子當熊江下し置かれ大組附被

 仰付堀丹右衛門組被 召加同年十月権右衛門と改

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 同四年正月

 公儀定例御祈祷之節阿蘇上宮

 御名代被 仰付候同年十月芦村嘉左衛門組御物

       △慶応二年六月小倉出張  

 奉行被 仰付△同四年閏四月病気ニ付願之通

            明治元ト改

 御役儀被遊

 御免御留守居大組附被 仰付同年

 十一月表御取次當分被 仰付表御用人之仮支配

 被 仰付同年十二月表御取次本役被 仰付

 明治二年十月小倉戦争之節兵食運送等

 宰料行届滞陣中附属之者仰揚筋厚

 心を用且帰陣之途中小笠原豊千代丸様方

 守衛を茂相勤致是骨折候段被遊

 御満足旨御褒詞同年十月御役名少司儀ト

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 被改勤績等諸事是迄之通被 仰付候明治三年

 七月今度少司儀被■候付■■被免一番

 番士隊被 仰付数年出精相勤候付金子

              マモル

 千五百疋下し置かれ同月?と改名

                        了

署名

一 元高          知行  九百石

     此 現米    百五拾三石

   改正高 四拾二石三斗五升  百弐拾壱俵

 

      高見 まもる (古の下に心)

     舊名 権右衛門

 

右之通相違無之候  以上

  熊本区 第二大區三小區櫻井丁五番宅地士族

 明治七年二月十日  高見 まもる (古の下に心)

 

白川縣權令 安岡良亮殿

 

上記先祖附の原文写し及び解読文は熊本市在住の眞藤國雄氏によりご提供戴いた。ここに深く謝意を表します。

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