関口流抜刀術
関口流抜刀術の源は、和歌山の関口流武術にあり、その創始者関口弥六 右衛門の長男氏業を流祖とする。 元禄年間、肥後藩士井澤長秀が参勤交代で江戸詰めの折り、氏業の高弟渋 川伴五郎より関口流の抜刀の部のみを修め肥後に伝えたのが関口流抜刀 術の始まりで、肥後細川藩の厚い庇護のもと大いに普及し肥後流居合とまで 称されるようになった。 飛違い切りと称する激しい斬撃法は敵を圧する掛け声を発し、剛毅木訥な肥 後武士の気質と重ねの厚い肥後の刀、同田貫の操法に適した。 新免(宮本) 武蔵を流祖とする兵法二天一流は肥後藩士寺尾求馬助が伝え、肥後細川 藩は後に野田、山尾、山東など複数の師範を師役に任じそれぞれは門人を 育成した為隆盛となった。 兵法二天一流は山東家が代々居合は関口流を修め、兵法二天一流を修め る者は、関口流抜刀術をも修めるべしと言われた為、肥後細川藩では多くの 子弟が両流儀を共に修めた、と言われる。 |