綿考輯録に見る関ケ原

以下は眞藤國雄氏による - 津々堂のたわごと日録 - からの転記である。

綿考輯録に見る関ケ原(1)

一、慶長五年八月廿五日、岐阜より赤坂へ御押詰、忠興君初之御陳所大垣江向ひたる田端ニて大垣へ之道有之候間、西郡大炊助・住江小左衛門両人物見ニ被遣、道筋の体御聞届被成、陳小屋の様子等被仰付候西郡・住江か物見の次第御意に叶ひ、御褒美として西郡ニ備中宗次、住江ニ粟田口藤馬之允則国の御腰物を被下候、西郡か家の申伝に、右物見被仰付候節、彼辺の地利・敵方の様子等諸将とり/\御噂之中に、両人罷帰詳く申上候処、忠興君思召之通候哉、よく見申たるとの御意ニて、御機嫌能御座候よしなり、右宗次之御腰物今以持伝申候武徳安民記ニハ、岐阜を攻し東国勢悉く赤坂に進て岡山の四方に屯を張る、中務太輔籠けるを、細川・黒田の両将是を襲ふ中略、中務砦を棄て大垣に帰ると云々、いまた詳く不考扨しのひを入て敵の形成を窺はせられ候中にも玄蕃殿江御談合ニて、田伏八右衛門と申忍の巧者を被遣候ニ、無程罷帰、大垣江入たる証拠に頭を取腰差を添持帰候、腰差は嶋津家の紋なり、一ニ鈴と脇差を取帰ると有

一、廿六日、加賀より飛脚到着、八月二日大聖寺の城攻破山口父子討取候、其元御左右次第坂本へ可押出由之注進有之

一、廿八日之比 一ニ五月二日三日比、宇喜多秀家の人数八千程、伊勢路より大垣ニ押入る、赤坂より足かゝり悪敷御かまひ無之候考ニ、秀家も此砌着陳の左馬ニしるしたるも有之候へ共、此前後の事諸書に出たる趣、いつれに其身ハ八月十日比ニ大垣の城ニ参着、此節ハ人数はかりかと被存候大谷吉継ハ藤川に陣を張、秀家・三成等々専ら軍議いたし候由、西軍陳取の様子ニ依て、池田輝政の陳所先手口ニ成候故、忠興君より御陳替可被成と仰られ候を、初ハ同心なかりしとも、此方理の前なる上は頓て御陳替なり、此陳所昼飯村の内野山の高ミにて、大垣よりハ戌亥ニ当、大垣も伊勢路も一眼にみゆる、偖(さて)敵陳より足懸り能候間、夜討の用心別而入念被仰付、山の手に二ヶ所の口を開上簀戸有、加藤嘉明の陳所ハ古城の様成小山にてきれ離らつ所ゆへ、忠興君本陳の前通りより嘉明の陳所迄五六間の道を作りかけ、何時も御加勢可有御様子なり 考ニ一書ニ、八月廿七八日之比、大谷吉継大軍を卒し関ヶ原ニ出張、池田氏の陳所関ヶ原の先手口ニ成候間、忠興君本文之通御陳替と有、又安民記、五月朔日越州敦賀を発し関ヶ原の西藤川の台に着陳し、山中海道ニ柵を構、木戸を営し屯を張とも有、然れとも大谷ハ自是以前大垣へ着と見へ申候、此節ハ人数はか来候か、忠興君御陳替此故ニ候哉、いつれに八月・九月の打ち幾日と申儀不分明、又後風土記、忠興君御陳所ハ本福 昼飯の内の小名のよし と云所と有之、又岩間か家記ニ、(岩間)清次儀関ヶ原御陳ニて夜中御側ニ相詰居候処、三齋様御意被遊候ハ敵の籏色らしきもの相候若夜討を仕懸候哉と被思召召上候、敵陳別条無御座、水田有之候ニ月影移籏色之様ニ相見候、罷帰其段申上候、其彼水田近辺御馬ニて御通被成候刻、先夜見届候水田ハ此辺かと御意ニ付、此元ニて御座候由申上候ヘハ、何そ印なと見置候哉と被為成御意候、則此田頭に札を二ツ立置申候由申上候ヘハ、其札は何方ニ有之候哉と御意ニ付、右立置候札二ツ取差上候処、何も清次形を見置候様ニと被遊御意候と云々

綿考輯録に見る関ケ原(2)

一、敵方毛利秀元并長曽我部土佐・長束大蔵其外各三万計にて雨宮山江陳取儀ニ付、忠興君・加藤嘉明長範松 長範松より南宮山迄壱里ほと有之の塚の近所へ物見ニ御出候て人数押上ヶ候、以後山の下足懸り能候かと御乗廻り被成候へ共、足懸り悪敷候間、山より俄に人数下り兼可申と忠興君被仰候、此時歩御小姓大槻才次 後才兵衛 ・吉住半四郎弐人被召連候御年譜、九月十日比伊勢より毛利秀元以下来て南宮山に陳取ニ付、忠興君・嘉明物見ニ御出候とあり、或ハ秀元の着陳ハ八月廿四日の晩とも有之、先ツ本文ニハ月日を除き申候、何れ右之人数ハ勢州安濃津落去以後、頓而此表へ出張候而大垣へ不入、直ニ南宮山へ敵陳取と見へ申候、関ヶ原軍記大成ニ、敵味方壱里はかり隔て対陳あり、忠興君・福島正則・黒田長政・京極高知四人相談、此辺の地形見計のため陳所を御出馬の砌、武見の士卒に紛て地の利を計るためなれは、家士壱人も来るへからす旨にて、口取をも連れす御乗出候処ニ、誰云ふともなく敵兵出て  彼四将の跡を取切たりと告けらは、四家の士卒思ひ/\に馳出る、彼四将是を見て、沙汰の限りなる者共なり、修理殿急き立帰りあの馳来る者を追かけへし給へと有により、高知馬を返し馳来る輩に向ひ、他家の兵士迄もあらけなく折檻せらる、高知の家人牧野久之允も馳つけしに、高知、それへ来るハ久之允めにてハなきか、主人の下知を違背して何事に是へハ来りたるそと怒られしに、久之允しつ/\と来、馬の口を取て云けるは、敵兵出て跡を取切たると云に依て、主人の危を救ふへきにための家人なれハ各馳来候ニ、子細も御尋なく、他家の家士をもうろたえたるかと被仰候ハ麁忽の御一言なり、と申けれは、高知理に折て詞を和け急き是より馳返り、此方の者共ハ云ニ不及、他家の面々も案堵させて倡ひ返れと云含め又三将に追付かる、羽柴正則は怒り強き人ニて、我等家来共も馳参たるや面目を失ふ程ニ申聞られたるかと有ニよつて、高知申されけるハ、各の御家来数輩馳つきたるに依て沙汰の限りなりと申うちに、家来牧野久之允と申を見咎め殊之外叱たるに、彼者更に驚かす、却而諫言を申たりとて、其故を物語有けれは、三人の大将右之次第を聞て、高知ハ能き人を持給ふと一同ニ御挨拶ありしと也、此故に久之允させる戦功もなかりけれ共、此一言を感し高知加恩を与へられしと云々

一、九月朔日、家康公江戸御出馬、其日ハ神奈川に御泊り、従是加藤源太郎を御使として各へ御書を被遣候、態以加藤源太郎申候、今月朔日至神奈川出馬申候、中納言使罷帰具ニ承候、樽井陳取尤候、今迄之御手柄共難申述存候、此上は我等親子御待付候而御働尤候、委細口上申含条不能具候、恐々謹言              九月朔日                    家康

一、二日 一ニ三日、森三右衛門 一ニ三左衛門 田辺より赤坂御陳所江罷帰候、此御使ハ去ル七月宇都宮御陳取の内、上方騒動の注進御聞被成候而大坂 へ被遣、直ニ丹後ニ参候様ニと被仰付候間、所々関所を凌き難なく上着候処、大坂御屋敷の儀は十七日の大変を聞、直ニ田辺ニ赴き候へ共、敵の番所厳しく城ニ入事叶はす、漸ニ手段を以忍入関東の様子申上、木付への御書ハ室津より相達、又敵の囲ミを忍出今日此所江罷帰、御籠城御堅固ニて毎度被得勝利候段、委細申上候、忠興君御歓被成御賞美有之、又御口上被仰含二度田辺へ被遣候

一、六日、家康公駿州島田ニ御泊り、此所より先手の諸将江又御書を被遣候 其元被入御念儀難申尽候、殊ニ先書如申入、岐阜之城早速被乗崩候事、御手柄無申計候、我等今日嶋田ニ罷着候、中納言定而十日時分ニは其元迄可参と存候、猶期面談之節万事可申承候、恐々謹言

             九月六日                    家康         関ヶ原軍記大成ニ、家康公九月三日相州小田原ニ御止宿、此所より又御味方の諸将へ御書をあたへ給、七日遠州中泉ニ御止り、此駅より又諸将へ御書をあたへらるると云々、右いつれも御書案ハ無之、参河後風土記ニ、忠興君を初御先手の大将達、銘々の使者嶋田にて家康公御出馬ニ参り合、岐阜落城の次第注進仕、家康公彼使者をハ壱人完(宛)被召出、其手々々の軍の様子御直ニ被聞召御感之由ニて、御袷・白銀等被為拝領候と云々、考ニ、此儀実も聞へ候得共、島田といふ事いふかし、落城注進の使者ニハいかにも遅着也、子細可有か、一書ニ、九月三日四日比大垣城水攻にすへき由、西尾豊後守被申候ニ付、則豊後守承候而水を拒上ヶ已ニ町口迄水揚り候時、江戸よりの御使に村越茂助赤坂ニ着而被申候ハ、水攻の事暫時御待候へし、大垣落城の跡ニ内府御上り被成候而ハ御威勢も無之候間、急キ御出馬被成候様可申上との趣ニて、水攻之事止候と云々、此説もいふかし

綿考輯録に見る関ケ原(3)

一、十日、魚住十助 去月尾州清須より被遣候也、十助ハ播州三木之別所小三郎一族、子細有之候而御家人になる 田辺より罷帰り、弥以御堅固之由申上候 一書、九月八日忠興君より忠利君ニ被遣候御書之内ニ、丹後弥堅固ニ而仕寄をさせ仕候ハて、十町計も引すさり陳取候由ニ候、気遣あるへからす候と云々、此御書を以考候ヘハ、十助ハ七月八日比罷帰候かと云々、しかれ共去ル二日森三右衛門丹後より帰候而、田辺守攻の様子申上候ニよつての御文言ニても可有之、然は十日と有も誤なるましきにや

一、同時木下右衛門大夫殿御使として山田源助 幽齋君より御加賀様御付被遣候侍也、一説ニ早(吉ィ)井市右衛門と申共、又ハ青野(柳ィ)と後ニ申候共云 播州姫路より参着仕候得ハ、能時分ニ参候と忠興君被仰外ニ御使者を被添、井伊直政・本多忠勝へ源助を被遣、其返事を聞召候而御機嫌能御座候、此砌家康公より木下氏江御書被遣候を、源助帰りに姿を変、大垣の関所をも無異儀通り候処ニ、草履取後れて被捕糾明ニあひ有の儘に申候間、跡より追付源助を捕へ引はり切ニせしと也、右之通ゆへ御書は到着不仕候へ共、被仰出の上ハ無別条 九月廿六日生野へ御着陳候而、福智山の城御攻候也

一、赤坂御在陳之内戸田武蔵守重長方江忠興君より安田九左衛門を以利害を説、味方に属せらるへき由被仰越候処、忝ハ候へ共、忰内記ニ治部少輔目を掛候故御味方仕難し、との返答有り 武蔵守九月十五日討死也 、朽木河内守元綱にも九左衛門被遣候得共、承引なかりしと也関ヶ原軍記大成ニ、越中守忠興井伊・本田ニ相談有て、秀家の方江使者を遣し、今度各御相談有て大事を企らるゝ事、偏に幼君の御為なれは、急き御方ニ可馳参由度々被仰聞と云へとも、元より石田三成等か邪謀分明なるに依て、一人も御招に随はす、一向内府の幕下ニ属し各戦功を励す故に、高巣・福東・岐阜の城攻、米野合渡の戦ニも、皆関東勢勝利を得て弥敵を脚下ニ踏む、かく勝ほこりたる大敵をいかて暫も支らるへき、羽柴利長卿は此強弱の勢を兼てより計り給へるにや、ひたすれに内府の御味方と成り、先日大聖寺の城を攻落して威を刻々ニ震ひ給へり、然は御同職と云御縁者と云、利長卿と仰合され内府へ御忠節有へし、と懇に申入られけれハ、秀家返答ニ申されて曰、利長を初め其方達、ひたすらに内府の味方となり、幼君秀頼公に叛き奉る、是を人臣の道とせんや、黒白を知る輩ハ嘲り悪むへき事なるに、聊憚る気色もなく、剰我等ニ差つけて内府ニ忠節せよと云るハ、思ひかけも無き音信也、中ニつきて内府ニ属する面々一筋に武功を励む故か、所々の城攻合戦に勝利を得たるとの自慢なれ共、味方ニも軍功無にハあらす、我等大坂を出馬する序に伏見の城を攻落し、数ならぬ輩なれ共鳥井・内藤以下を誅して首途を祝ひ、又安芸宰相秀元勢州へ懸りて、下向の序に阿濃津の城を攻破る、又小野木縫殿助其の方の領内へ働くに依て、老父幽齋一城を拘へ、此外味方の勲功あれと皆小功成れハ云ニ不足、所詮両軍を打合せ手痛挑戦て後彼我の勝負を諭すへし、仮令勝ニもせよ、味方の虫に於てハ、恥なかるへし、身を立んために敵になる人、負てハ末代の嘲を受、勝てハ君を弑するに至らん、此所を了簡ある様に息与一郎(忠隆)・与五郎(興秋)ハ痛める顔色有けれ共、忠興一向承引なく、舎弟玄蕃頭(興元)を呼て申されけるハ、一人も敵ニ内通せす、殊更吉田侍従・伊奈侍従・伊賀侍従・黒田甲州・田中兵部我等なとは太閤の御恵みにて身を成立たる者にも非す、然は家の滅亡を捨て、秀頼公の行末を一筋に計るへき道理もなし、其上今度の一乱ハ正敷侫(佞)臣の計なれは、一向に内府の味方して弥戦功をあらはすへし、与一郎・与五郎にも此旨教訓して給はるへしと有けれは、玄蕃頭返答申されけるは、野州小山に於て仰合されたる条々有れは、今更御異変有へき事ニも非す、其上先日奥方の自害注進のとき、幽齋老よりの御下知も有れは、旁御志を固くせらるへき事勿論なり、与一郎・与五郎某か心中ニ於てハ、少も御此処にかけらる間敷と有に依て、忠興殊之外祝着せられしとかや、尚古(右)案するに、丹後侍従と備前黄門の問答ハ、秀家の家老明石掃部頭年を経て後、大坂の城中ニて人に語りしを、末座に居て聞たる小岩角右衛門・同吉右衛門兄弟の物語なりと云々、考ニ虚実はかりかたし

一、十三日、家康公岐阜ニ御着、十四日赤坂江四里半程御着陳可有の旨ニ付、忠興公を初め諸将御迎として呂久川の辺迄御出有、家康公早速御対面、此程の軍功を被述御感悦不斜、関ヶ原合戦誌記ニハ、十四日岐阜より本田の船渡し、莚田郡の道筋を御押也、先手の諸大将御迎として呂久・池尻迄皆出向ひ奉り、御目見申上と云々、(牧)尉大夫覚書ニ、十四日の出ニ坂坂に御着の筈ニ付、諸将未明より青野ヶ原ニ押寄と云々、又一書ニ九月十三日卯時ニ岐阜御出馬、合渡の川上尻毛村より舟筏にて川を越給ひ、同日の午刻ニ岡山へ御着陳と有、後風土記ニは、家康公神戸町 岐阜より五里通り赤坂へ御着と有、又一書、十一日尾州清須に家康公御着、此所迄諸将御迎ニ御出、戦功等御感有と云々、考ニ赤坂表ニて敵合近く候へ共、互ニくらひを計りて戦無之数日御対陳也、しかるに大敵を前ニ置、いかに家康公御着陳なれはとて、清須まで遥々跡へ諸将立帰らるへき左馬ハ無之、強而考候ヘハ、井伊直政清須迄ニ被参候に、諸将の戦功直政の差図等殊之外御感心有之たるとの事を心得違たるか、無覚束

綿考輯録に見る関ケ原(4)

一、十四日午之刻はかりに赤坂ニ御着、岡山を本陳と被成、御先手の大将衆ハ未明より五町三町程青野ヶ原の方江人数押出陳を居られ候一ニ、大垣の方ニ張出しと有、又一ニ、家康公ハ福島氏の本の陳屋へ御入、忠興君の本の陳屋ハ金森法印の陳屋となると有、又岡山ハ赤坂 の駅の南に当り、三町四方の陽山なれは、兼てより何れも談合にて爰に御本陳を定、柵を構へ四方ニ張陳すと、明徳親民記にあり敵方には内府御着陳の沙汰とり/\にて、その虚実を窺ひ知るへき為ニ未の刻さかりに人数を出し、株瀬川にて中村・有馬・堀尾等の衆、敵と取合あり関ヶ原軍記大成ニ、異本ニ此古戦を赤坂口・池尻口、笠木堤・福田縄手・笠縫堤抔まち/\に書付ありと云々、考ニ、地名夫々寄所有と見へたり、呂久川・佐渡か川なとあるも、株瀬川の筋にて渉り所の村名ニよりて云也、又株瀬を久世川ともあり、くひ川とあるハあやまりか、呂久の渡りハさわたより半里ほと川上也、呂久村ハ合渡より赤坂江之道筋、さわたり村ハ尾越・須の股より大垣への道筋也、木曽路と中山道との違なり

一、同日の晩景におよひ、忠興君を初諸将召ニ応し、御本陳ニおゐてこう攻戦の利害御相談被成候ニ、大将達一同に、内府御着陳之上ハ面々人数を出し大垣の城を攻落すへしと有、家康公仰られ候ハ、各御評議尤ニ候へ共、秀家を初諸将大勢にて楯籠との事なれハ、速ニ其功なかるへし、何とそ場中におひき出し一戦に討取可申、しかれハ敵を引掛るため陳所を移しかえらるへきかと被仰、各領掌有て御退出被成候、惣軍へ被触渡候而ハ、夜ハすてに亥の刻なり御年譜、御本陳ニ諸将御揃之時、明日合戦相極候、其心得有へしと被仰出、各奉得其意暫御咄之内、中村式部少輔衆御前へ被召出、明日御合戦可被成間、大垣の押へ御頼可被成旨、一氏の弟彦左衛門 一ニ彦右衛門一栄ニ被仰渡候処、家老藪内匠正照(後・細川家臣)幕の外ニ居候か幕打あけて、彦左衛門待可申候、太閤の御代先手仕式部少輔と世間ニ被知候も、皆共かせき申故ニて御座候、一氏果候へ共家来之面々罷在候うへハ、先手可被仰付候、といかにも目高に急度申上候、此時白糸の鎧を着し候か今日の軍に手負けると見へ、血の付たるか目に立てよかりしと也、扨色々御挨拶御座候ヘハ、主なしにて候間いか様にも不苦と申す、忠興君心元なく思召井伊直政へ被仰候ハ、主なし無紛候、兎角御相付被成可然と御挨拶有之候と云々、考ニ、十五日之手配ニハ、中村手大垣の押へ勢の内ニ入たる記も有、又南宮山の敵を押の内ニ入たるも諸記まち/\なり、いつれ井伊直政と一手ニてハ無之と見へ申候、尚可考、且又右御備定之事、十四日之夕、明日弥御合戦可被成とて夫々被仰渡候と記したるもあり、又敵大柿(ママ)を出候以後、御先手所々の押へなと御使番を以被仰渡とも有之、是非分明ならす、惣て十五日之事、十四日之宵まてハ決定、合戦可有とも知れ不申候、其故は敵十二三万 一ニ十万三千余 の人数にて大略ハ大柿の城ニ在、栗原山・南宮山ニ 陳をかまへ要害をしめて扣へ居候に、軽々敷関ヶ原江御人数出さるへき様これなく、すでに敵を偽引出すため、陳所をうつしかへらるへしと被仰渡けると有之、敵場中へ出張候ハゝ御合戦可被成とて、御備の手賦夫々に被仰渡、大将各退出候処、陳替有之迄もなく、敵はや大柿を出関ヶ原の方へ押出し候間、御使番を以被仰渡たるなるへし、同書ニ、右御本陳より御帰りが長範松へ何も御上り南宮山の様体御覧候処に、山より壱人走下り申ニ付、何者ぞ捕へて参候へとて、各御内衆一両人完(宛)被出候、忠興君よりは吉住半四郎、大槻才次被遣候処ニ、吉川より黒田 氏へ使に参り候と申ニ付、長政の陳所へ召連参申候、使者口上ニハ毛利身体前々の通被仰調被下候ハゝ、明日手切の合戦仕御目ニ可懸となり、依之長政赤坂へ御出にて、右之儀被仰上候ヘハ、被申越ことくに候ハゝ、毛利身望のことく可被仰付との御意にて、其通り返事有之候と云々、考に、吉川内通之事家康公赤坂へ御着前より段々往返も有之たると記し候も多く候、左候ハゝ、此使ハ合戦有之候ハゝ、弥裏切可仕との事を被申越たるか、偖又(サテマタ)長範松江上り南宮山の様子御覧被成とあれは、いまた日暮さる前なるへし、午の刻はかり岡山に内府公御着、其様子敵方にも知れ、猶虚実を計へきため、大垣より人数を出し株瀬川にて合戦有、其後諸将御本陳にて御評議、其御帰りに南宮山の様子御目計被成候、彼是九月の短日いかゝ可有之や、但是より前に敵南宮山ニ陳取候節、加藤氏と被仰談、物見に御出被成候とあるを混して此所へ出し有之か、諸書可見合也

綿考輯録に見る関ケ原(5)

一、大垣の城中にも軍議様々なる中に、終ニは石田か申旨にまかせ関ヶ原に忍従を出すに極り、栗原山ニ大篝を焼せ、其火を目当に丑の刻はかりに惣勢大柿を押出す、味方の物見是を見付、追々御本陳へ注進被申候ヘハ、家康公御悦ひ被成、もはや陳替ニ不及、惣軍夜中より関ヶ原表に発向有へ し、明朝払暁に御馬を被出こと/\く敵を討取へしと被仰候、御先手は福島正則・忠興君・加藤嘉明をはしめ、黒田・藤堂・田中・織田・京極・蜂須賀・ 寺沢・生駒・津田・松平下野守殿・井伊・本多其外小身の面々、外様・御譜代衆彼是未明より人数を出し、南宮山・大柿等の手当丈夫に被仰付、御旗本ともに惣勢七万五千三百三十人なり考ニ一書、東軍都合弐拾壱万五千余人と有はいふかし、又関ヶ原集ニ、秀秋より内府公江使を以、敵ハ今夜退候、人数を可被出候、我等もかけ落し不残討可申となり、内府公、さあらば人数を可被出とて一番福島・井伊、二番黒田・一柳・堀尾、三番細川・京極なとは秀家の手に向はると云々、あやしき説なり、又関ヶ原軍記大成に、十五日御備定、一番福島・藤堂・田中・生駒・戸川・坂崎・桑山・大野、二番細川・黒田・加藤・織田・竹中・羽柴定次・松倉、三番下野守殿・井伊・本多・関・加藤直泰此外小身之輩誰々とあり

一、九月十五日未明ニ 一ニ辰刻と有、いふかし 御小屋の外より御陳替と見へ候と申候、忠興君合点不行と被仰、去れ共加藤氏昇色めき候と申内に、福島氏より御出候へと御使ニ付其儘御出被成候、此旨御側衆より牧・加々山 江知せ候故両人より玄蕃殿江申遣、其外へも申触何れも小屋の前ニ出居候処ニ、北の方より玄蕃々々と高声に御呼掛御乗付被成、御人数小屋前ニ御立被成候、小屋場より十四五間 一ニ四五十間 程先ニ小塚有之、其所ニ御側の鉄炮召連(牧)新五可参候、(加々山)少右衛門ハ供ニ参候へと被仰付、扨玄蕃殿へ被仰候は先手の大将か砕たと見ゆる 一ニ酔たと見ゆる 福島陳へ乗付候処ニ小手招被致候ニ付、ヶ様之時?き(ササヤキ)

候ヘハ下々の気違ふものニ候、高々と被申候へ、と云ける時、吉川より黒田方へ申越候ハ、昨日は御味方可仕と申候得共、今夜治部少大垣より関原江廻り各へ仕懸申候、昨日之首尾ニ而候間御敵ハ仕間敷候、御味方ハ不成と申越候由正則被申ニ付、ざつと済候、仕懸てする合戦を請てするハ只取たるものなり、急き小屋の前ニ人数被立候へと申つると御咄被成候而、又先手へ御越被成、御人数もやがて垂井の宿の方江押申候一書、福島家より石田城を出たり、急き御むかひ有れと相告る、扨ハとて辰刻打立給ふ、士卒皆営の前に出る、忠興君北の脇より馬を乗立て、玄蕃々々と高く呼て是に命し、士卒を押出させ給ふと云々、考ニいふかし先手の諸将各関ヶ原表江人数を進められ候か、霧深して武色わかり不申候、忠興君・加藤嘉明御相談被成候は、南宮山・栗原山ニ備へたる安芸宰相吉川家ハ、内府に内通有といへとも其心中難計、殊ニ長束・安國寺等彼山ニ在り、かく霧深く前後を不分ニ、麁忽ニ人数をすゝめ過、大敵前後より襲ひ懸らは、討死せんも難計、家康公御旗本をよせらるゝ様ニ可申入とて 安民記ニハ関原ノ町口ニて御三人此御相談被成候とあり、沢村才八と嘉明の家人田辺彦兵衛に右之旨被仰含候、両人申候ハ、はや戦之時至り候ニ後陳ニ立帰り申さむ事、御使とハ乍申本意なき次第ニ候と申上けれは、忠興君両人に御向ひ 被成、内府御出馬なき内ニ討死せんも詮なき事也、然は此時の使者ハ何よりも忠節ならんと被仰候間、両人無是非参候処ニ、垂井の辺ニ而井伊兵部少輔ニ参り候、両将の御所存を述けれは、直政の答ニ被仰越通御尤ニ候、御口上ハ我等請取候上ハ、急而本陳ニ注進候へし、本多中務と某御跡を詰申由被申入よと有之、御本陳への使者被申付内、家康公の御籏先見申ニ付、沢村・田辺陳所より飛帰り其段申上候考ニ安民記・親民記等ニ、沢村・田辺此時井伊直政ニ行逢候ハ、下野守殿を伴ひ手廻計にて先手ニ趣かれ候時とあり、左も可有か是より前、黒田氏より後藤又兵衛を物見ニ被出候か、忠興君・福嶋氏・黒田氏なと御座候処に立帰て、敵ハ敗軍と見へ候と申上る、いや敗軍ニ而は有間敷と忠興君被仰候、黒田氏、彼ハ後藤又兵衛と申て見損する者にてハ無之と御申候間、何故敗軍とハ見候と御尋被成候、又兵衛答て、馬武者の内に雑人原か入交て臈次(ラッシ)なく候間敗軍と存候と申上けれハ、面白く候、福嶋氏人数を以て襲ふて見給へと被仰、正則尤とて三備の内一備を懸らせらる、忠興君何と見ても敗軍とハ見へす、引揚させ給へと被仰けれハ呼戻し被申、早々引取候、乱たる人数を輒く引取事日比の号令能故也、と忠興君御褒美被成候、此折加々山少右衛門を武見ニ被遣、福嶋氏よりも壱人被出乗連参候処ニ、敵近く成て武者一騎逢候ニ付、夫なるハ敵にてはなきかと詞を懸けれは、眼を開候へと答て共々味方の方へ乗連参候、少右衛門兎角此者ハ敵なるへしと思ひ、近くより誰の衆ニて候やと問候得共、左云れて云へきか目を開候へ、と云うて知らぬ体ニ而乗連来りしか、地下の所に水溜りたるを静に乗渡り、味方の人数を見渡て其儘一さんに乗抜候也少右衛門其後の咄ニ、右の武者ハ何と云たる者ニ候や、其朝ハ霧深く人の面も見へわかす、差物なともわかり兼候得共、黒具足ニ黒羽織を着て扨々能き武者振也しと也、数年の後駿河御普請の戻りに、関原通り佐藤安右衛門同道ニ而戦場を見歩き、右之咄いたし候ヘハ安右衛門具ニ聞、扨々不思議なる事故、某ハ大谷刑部少所ニ居申候、只今御噺の武者ハ刑部少内ニ而寺田久左衛門 青地久左衛門先祖也と申て口をきゝたる者也、武見ニ出候時の咄を承りたるニ少も相違無之候、右久左衛門ハ其後京極修理殿ニ而、知行千石ニ鉄炮三十挺預り居候由語候得は、少右衛門も扨ニそと申候となり

綿考輯録に見る関ケ原(6)

扨忠興君の軽き馬武者を懸て見給へと被仰けれは、福嶋氏騎馬四五十懸らせられ候、最早敵方ニ備を立、端々突て懸らんとせしかは引取にくに候哉、森の方へなたれ候へ共、霧深き故異議なかりし也、其時加々山少右衛門ハ後れはせニ乗付、羽柴越中守内加々山少右衛門と名乗懸、真先ニ馬を入れ鑓を突折、又敵の鑓を取て働き夫も突折しか、引取時ニ太刀打して首一ツ討取候考ニ、此時迄ハいまた合戦不初物見ニ被遣砌の事也、但関東軍記大成ニ、清須侍従ハ今日も先陳として関ヶ原の町を南向ニ押出る、備中中納言ハ諸将より引さかつて大柿を出馬せられしか、秀家の後隊を羽柴正則の先手十文字ニ取切て備を立る、秀家の軍士是を驚き、あるハ朝霧深して敵の多少も計難し、今少し見きるへしと云も有、又あるハ此辺に脇道もや有とひしめくも有、稲葉助之允是を聞て、談合評議も事にこそよれ、主人は先手へ通り給ひ、其中ニ敵あれはとてあやふミ恐るゝ事やある、爰を突破て通るへし、といひもあへす乗出す、不破内匠稲葉に先を越れしとかけ出けるを見て、残輩鑓先を並へあたかも竜の飛か如く一文字に突かゝる、正則の甲長加藤庄之助馬上より下知する処ニ、稲葉助之允馬をかけよせ唯一鑓に突落シ其首を取らす突捨て、敵の中へ乗込味方の士卒を引まとひかすてもおはす馳通る、此時正則の隊長福嶋丹波手の物を励し首十余級討取て道筋ニ其首をかくると云々、此事強手考候ハゝ、本文と合記シ候共甲斐なかるましきや、庄右衛門働ハ此砌の事なるへし、朝霧にて物色さたかならす、諸手ともニ敵合近くなりてハ不意の事も有之たるか忠興君先より御乗戻り被成、御人数円く御乗廻候而、伊吹山江続たる山際ニ御押又先へ御乗付 一ニ黒田殿備ニと有、合戦始る迄は加藤・黒田・金森等御一所ニ而敵味方の位御見合被成候、此時後藤又兵衛鉄炮廿挺計為持山鼻江出て打せけるか、筒数少してきけ悪し、今少有ならハ打立ん物をと申けれは、黒田氏も山鼻へ行て立帰り、越中殿爰を請取者あらハ我等行て惣勝をせんものをと被申候、忠興君、左あらハ爰は我等請取へし行て見給へ、と被仰候ニ返答も無之候、忠興君、左様なる事ハ此方もとく知てゐる、惣勝しても手ニ合事ならぬ、と座興のことく被仰候也、斯て漸に霧も薄くなり敵を見渡し候ヘハ、関原表ニハ宇喜多秀家石原峠を後にあてゝ巽に向ひ山の尾崎ニ陳をすへ、其左の方ニ小西・嶋津をはしめ上方の諸将段々に備を立、石田三成ハ小関山に本陳をすへ、先手ハ北国海道小関野江張出し、小池村の前に柵木を二重ニ立、先手六千人柵の前に陳列をなす 是より関原本通りへ八町、小池村より筑前中納言の陣所松尾山まて三十町とあり 、秀家の右の方にハ河尻肥前守・石川備後守・有馬修理・戸田武蔵守・平塚稲葉守其外彼是一面ニ備へ、其右ニは大谷刑部父子・木下山城守・朽木河内守・小川土佐守・脇坂中務少輔・赤座久兵衛等各松尾山の麓に引廻して備を設け、松尾山ハ筑前中納言秀秋、南宮山・栗原山ハ毛利秀元・吉川広家・完(宍)戸備前守・安國寺・長束・長曽我部・鍋島信濃守等の陳所也、南は南宮山より北ハ旦吹の麓迄、家々の籏馬印等霧の晴間ニ見へわたり、総勢十二万八千六百余人と也一書、十一万八千六百八十余人と有、又三河後風土記ニ、大垣にての着到十八万四千九百七十人なり、毛利家・長曽我部等合て廿一万五千余人と云々、家忠日記云、大谷吉継か嫡子同大学助二千余騎を卒して垂井口に向て左の山下ニ陳をす、其弟大谷山城守一千騎を右の山下に陳す、父の吉継六百騎本陳をさらす屯すと云々、同書ニ、石田・島津関の藤川を越て小関の巽に向て陳す、備前黄門及ひ小西ハ石原峠を下て谷の小川を渉て関原北の野に軍を出して、西北の山を背ニ当て是も又辰巳に向て屯す、大谷・平塚ハ関の藤川を前に当て岸より下に陳す、朝霧暗して敵味方の陳分明ならす、巳の刻に及て霧漸く晴明かに物の色あらはると云々後風土記ニハ、朝霧晴て敵味方明ニ見へ渡り、御本陳も無程関原ニ至り備を立定めたまふ、左の御先手福嶋、右の御先手忠興君・加藤相備と有、武徳安民記云、三成ハ丑の刻松の尾山江至りけれは、金吾秀秋風気なりとて対面せす、仍て老臣に軍事を談し夫より策を揚て、小関村の南天魔山と云丸山ニ至り、後に池を負ひ地の利能故此所に屯し、人夫を出し竹木を伐採、陳所の前ニ柵二重構へ其間に鉄炮を伏たり、籏の紋は大一と云文字なり或ハ団扇九曜の籏ニて諸卒金の吹貫の差物なりとも云へり 、小西ハ伊吹の麓に陳し、浮田(宇喜多)ハ鷹尾山ニ屯し、其外逆徒の諸軍北ハ江州伊吹山を限り、合川の前後小関むら・小池村・玉村・藤川村・関藤川村・本道ハ不破・藤下・山中・伊益まて雲霞の如く充満せりと云々同書、福嶋は不破の関明神の森を後ニ当、弓・鉄炮段々に組合せ、山中の宿の海道を立切、左ニハ有馬玄蕃豊氏、中筋ハ細川・加藤を先隊として黒田長政・筒井定次・一柳直盛等一列たり、右の手先伊吹山の麓ニハ田中吉政父子・金森法印父子と云々、同書ニ或曰、大小名并御譜代の部将旗本の健士及ひ犬山の降人彼是総て味方の到着雑兵七万五千三百余也、又岡山の御留守ハ堀尾忠氏、菩提の城ハ竹中重門是を守る、又兇徒の到着ハ藤川の台・南宮山・松尾山其外所々に張陳せる軍兵、且大垣の城警衛の族等彼是総て雑兵十万三千余と云々味方の大将達一勢々々列を正し、間可にも福島正則ハ一の先手として関ヶ原に至、大関村に人数を立乾ニ向て陳列を設け、忠興君・加藤嘉明等ハ海道の北ニ出、并田中吉政・金森法印なとも共に八幡宮の森の辺より合川の方に押出し、黒田・竹中等ハ合川を渡て丸山と云所ニ取登 此所合図の狼煙場也 、是等ハいつれも小関の敵を討取らんと也、正則の左の方にハ藤堂・蜂須賀・京極・有馬・山内・生駒・寺沢・織田有楽等松尾山の麓迄押詰、関ヶ原茨谷ハ下野守殿御陳所ニて井伊兵部少輔備を設け、十九女池の辺ハ本多忠勝陳列し、其外小身の諸将もより/\に人数を立、少しつゝせり合ハ間々有之様子ニ候へとも、塩合をはかりて猥ニかゝらす、敵方ハ家康公南宮山を後になし軍をすゝめ給は々、前後より馳懸り打取奉るへき為ニ 備を堅めて戦を不挑と也、此砌忠興君手廻計にて物見に御出候処ニ、田中吉政跡より乗付、越中殿合戦初可申と有れは早く候と被仰、是非初候半と被申ニ付、銘々の人数なれは其方次第と被仰けるか、御心中ハ越中か留たる故掛らさりし、と後に表裏を云へきとの事ならんにいらさる事を云しと思召候となり、田中氏の返答に合戦の習ひ勝事もあり負る事もあり、一番合戦は某初候後日の証拠に届申候となり、忠興君必定の勝軍に虚空もなき事を申さる、と被仰候へ共不聞入乗戻らる、供之士宮部市兵衛壱人参候而、越中様の仰のことく眼前御勝の合戦ニて御座候と申せは、田中氏乗返し宮部を叱る/\人数の所へ乗付らる考ニ三河風土記ニ、田中吉政ハ一の先手ニはあらす候へ共、別ニ上意を蒙御先手に加るを以、今日是非一番ニ合戦を初んと被存と云々左も可有か、家定日記にハ、田中吉政出馬ニ先達而発向すへきの旨釣命を奉て、軍以前より関原に至て陳を張ると有

綿考輯録に見る関ケ原(7)

斯て霧も晴れ武間を詰て諸手追々にせり合初り、中にも田中氏ハ以前の詞のことく人数を下知し、貝吹立一番ニ懸らせらる、加々山少右衛門御人数も詰させ可申やと伺候へ共、少待候へ時分を見合下知を加ふへきと被仰、田中氏の勢ハ七八町も棹の如く立并て掛りけるを忠興君御覧被成、長懸りする程ニ見よ立らるへきと被仰候か、石田か先勢突懸りけれは如案立られける時、田中氏馬乗廻し今度は真丸に成て掛られしか、敵方又大勢ニて突懸り二三町程止立る、其前方より当手の御人数ハ玄蕃殿を始め山より引下し、二三町敵方へ押す比なりしに、入江平内を御使として御人数速ニ懸り候得と御下知あり、忠興君真先ニ御乗込被成候ニ付、騎馬・歩立の差別なく、我劣らしと真しくらに成て横鑓に突掛り、悪敷馬に乗たる者ハ手ニ合兼候程烈しき場にて、勝ほこりたる敵中ニ一騎懸けに乗込難なく敵を追返す考ニ一書、此日陳場忠興公最前進ミ過たる事を忠隆公御諫め有、案の如く田中か勢崩かゝる、忠隆公の思慮のことくして打勝給ふと云と云々、虚実未考、扨当手の合戦ハ此取合はかりニて、其余は皆追討の様ニ掛られ候衆ハ黒田・加藤・田中等其外彼是有之、戦ひ手砕に成中々暫時の事ニあらす、然し初め田中氏を追立たる敵を追返し候ハ忠興君の一手ニ而之事なるへし、其時続亀之助ハ石田か先手之鉄炮頭ニ而、田中氏を追立たる一人なり、亀之助覚書ニ、嶋左近と亀之助とかはる/\物見に出候ニ敵幾鼻も有之、いかにも競ひ懸り可申もの色々候間、味方より掛り可申とて、三成ニ後攻候へと度々申遣候へ共、後詰無之犬死可仕舞仕合なと申候而、馬に打騎少乗出見候へは、左近手前へ百はかり、亀之助手前へ五六十程ニ而馬入来り候、左近申候ハ、亀之助昨日・今日の貴殿の様子、去とてハ頼母敷事ニ候なとゝ申内ニ、はや敵間近く成候間、突懸り追立候処、敵又人数入替とつと懸り候ニ立られ、続く勢も無之候間退申候、此入替候勢三齋様御人数之由後ニ承候と云々略記右之通左近・亀之助被追返候へ共、石田か先手ハ舞兵庫・蒲生備中なと云ものを初武功之者居候間、備を堅ふして突てかゝり、嶋・続も取て返し働候なるへし、亀之助此時の働忠興君御存被候間、御家に被召出千五百石被下、其子孫亀之助・彦大夫・庄右衛門・庄之允等なり井伊直政は下野守殿と相倶に嶋津家の陳に突かゝらる、本多中務等も島津・小西なとか陳に向ひ、秀家の先手と正則の先手と始より取くさり、追立られつ追返しつはけしく戦ひ、藤堂佐渡守等之諸将ハ大谷・戸田・平塚なとゝ勝負を争ひ、加藤・黒田・田中・忠興君等は勿論、其外先手の諸将一同ニ旄(ボウ=ハタ)を揚、自身手を砕きての働故、士卒悉く一命を不顧、与一郎忠隆君真先に進むて御働被成候に、忠興君自身御鑓付被成候、敵を忠隆君かけ寄せ首を取らんとし給ふニ一ニ御自身御鑓付被成候とも有之 取なと被仰候ニより、直ニ其場を馳通り鑓を合せ働給ふ一書、今日は首を切捨ニする筈と被思召候ニや、御側の面々迄もあまた切捨ニいたし候也と云々又一書ニ、中路次郎左衛門ハ忠興君の御下知によつて、忠隆君に従て備を丸くして進み勝利を得給ふ、中路も鑓を合せ高名すと云々又荒木左助猩々緋の羽織を着たる敵将と組て是を倒す、忠興公の嫡男忠隆公其首を討と云々篠(築)山与四郎・岡村半右衛門・一宮彦三郎・山本左兵衛・松井新七郎・中路少五郎等、忠隆君ニ附て進みけるか、各敵を剪捨相働、白杉庄助・荒木左助ハ三人迄敵を切捨る、其後左助高則ハ敵十人はかりにわたり合鑓を以働きけるか、岸の上より突落され、金の馬藺十八本の立物悉く砕け、尚もいとみ戦ひ疵に危く見へける時、忠興君の軍士追々来て敵をはらひ、高則を救ひ出し候 御褒美の事慶長六年七月の所ニ出す、同所ニて柳田久四郎も烈く働き、太刀打折候へ共敵を討て首を取、住江小右衛門もよく働て首二ツ討取候、杉原三平・喜多与六郎・松井家士栗坂平助等痛手を負候へ共敵を討て首を取、牧新五は矢を折かけ大勢の敵ニ取籠られ、所々疵をかふふり候へ共、少もひるます働候処、岩間清次馳付両人にて剪払候内、新五家来久右衛門・又三郎と申者走来敵を討、弐人共ニ首を取、清次も三ヶ所手負申候牧か家記ニ、又大勢の敵中に討入相働首を取申候ニ付、三齋様御感ニ預り申候と云々一書、牧左馬允・前田与十郎も首を取とあり、岩間か家記ニ、岩間清次組討ニ首一ツ取三ヶ所手負申候、同牧新五働申候節弓鉄炮きひしく有之、大木を楯ニ取居候処、新五右の腕を籠手下共ニ射付られ難儀ニ及候を、討取可申と敵四五人一ニ敵六人 参候を、岩間清次・岩田新左衛門一ニ岩間又一ニ岩田新右衛門、豊前に而百石とあり 参合敵を追拂ひ、新五を射つけたる矢を切折引取せしと云々与五郎興秋主衆に抽て進ミ給ふ処ニ、石田か鉄炮頭仙石角左衛門 一ニ角右衛門 仙石越前守秀政方ニて数度功名有、名字を召されし者也、大力ニ而鹿角の股を引折候と云諸氏と云者、黒革の鎧胸板ニ南無妙法蓮華経と箔ニ而書、鹿角打たる兜を着、三尺余りの刀を以て近つく者手元ニ五人切伏る、与五郎殿是を見て鑓提け馳向れ候しか、やかて引組て馬より落暫く君合給ひしか、終に仙石を組伏せ首を取て立あかり給ふ、敵是を見付左右より掛り候得共、事ともせす追払はれ、従者各働て無恙、此働を忠隆君も御見届被成候、玄蕃殿も初より士卒を下知して馳めくり、鑓を合せ働き給ふ 一ニ首を得給ふ御年譜ニ、古井の中へ馬を馳落し給ひしか、物ニ取付漸々に上り付、従士と共ニ二人して馬ニ細引を付引あけんとし給へ共、不叶力を失ひ給ふ所ニ、騎馬の敵来るを見付、味方の風情ニもてなし蹴落し、其馬ニ打乗給ふ、御内の者首を取て参りけるを、か様の時追首ハ取てもよしなきとて叢の中ニ捨させ、猶敵を追馳給ふと云々或覚書ニ、玄蕃殿関ヶ原ニ而引退敵に、返せと詞を懸られけれは、取て返し玄蕃殿を組敷しなり、其時郎等落合敵を打取し也、のちに玄蕃殿物語ニ足を乱さす敵ニうかと返せとハいはぬもの也、我等も関ヶ原にてかようの事有しとの物語也と云々

綿考輯録に見る関ケ原(8)

与十郎孝之主も下知を加へて進ミ給 一ニ能討て首を得給ふと有、長岡好重も同く忠興君の近仕せられ軍功有、忠興君御自身鑓を合給ひ、諸勢をいさめ士卒  を下知して馳めくられ、敵の馬武者と御太刀打被成候 一ニ敵二人討捨被成候といふ 、沢村才八御傍を不離相働く、如此烈しき戦ひなる故、有吉与太郎・米田  与七郎を初各粉骨して高名する者数多なり、松井新太郎ハ岐阜ニ而痛手負ひたるか、いまた癒さる故其身ハ戦場へ不出、家士松井紀伊を陳代として  士卒を出し相働、惣而御家中の諸士・歩足軽・又者・中間迄も手ニ合申候 首注文左ニ出す すへて関東方の諸将勇を震ふて戦はれ、敵方にも今日を限りと  働く者多く、勝負いまた不分処ニ、松尾山の麓ニ而筑前中納言秀秋裏切の合戦始り候而ハ、彼表の関東勢殊ニ競を増、其外諸将一同鬨を発し、猶烈し  くもミ立られ候間敵次第々々ニ弱り、戸田武蔵守・平塚因幡守・大谷刑部少輔等の勇將追々討れ、味方の諸勢増々いさんて勇をふるふ、家康公の御馬  所ハ野上村の西南桃配とて高陽の段地なる故、戦場之大概諸手の甲乙も被成御覧、敵軍敗北ニ及ふといへとも、御籏本ハ堂々として備をくつろけす、終に秀家・三成・行長等の将思ひ/\に逃散候処、羽柴義弘は旗本の勢を以差向ひたる敵を追払ひ、諸勢の後殿して手痛く働かるゝ時、味方少ひるみ  たるに、当手ニて鯛瀬善助烈しく働き頸を取、其身も痛手を蒙る、沼田小兵衛馬を乗込馬をかけみたし、薩摩にて名を得たる河上四郎兵衛を小兵衛手ニ生捕り、其外各追討ニすゝみ薩摩勢を討取、大将義弘も既ニ討死せんとし給ふを、舎弟中務太輔豊久を初家士多数義死を遂る、其間ニ伊吹山の方 へ引退る、下野守殿・井伊直政等猶も追かけ給ふ所ニ、直政鉄炮ニ中り落馬あるにより、義弘虎口を遁れ案内者を得て、土岐多羅の山ニ懸つて退き申され候也大坂ニ至り、船ニ乗帰国あり、此時忠興君ニ使者を以て身上の儀を頼まる故ニ、忠興君後ニ是を執成給ひ、其外あつかひ有之、本領案堵也、依之川上四郎兵衛を沼田方より薩州江返し遣すへき旨ニ而則差返し候処、義弘より謝礼として 一ニ河上四郎兵衛より 延元ニ波平の脇差并種子島鉄炮・木線火縄百一荷二種使者を以て被差越候、其後脇差ハ小兵衛延将代ニ細川若狭守殿へ進上、種子嶋ハ今以所持仕候由なり清正記ニ、如水・清正等薩摩へ可働とて、肥後と薩摩の境いつミと云所迄押詰、其旨家康公へ注進ニ及ふ、嶋津は細川父子を頼み、家康公ニ内通あるに依て御免被成候条、人数早々打入らるへき旨申来と云々忠興君も追討ニ五六町程追かけられ候処ニ、黒田氏跡より越中殿越中殿と呼懸、先程大勢の中へ下知をなして乗込給ひ、御自身の御働御人数の懸らせ様、勇々敷御有様見届候、其段内府へ可申上候、われらかせきをも御覧候ハゝ被仰上被下候へと御申候、忠興君御答ニ、我等の働しかと無之候、貴殿の御かせきをも見受不申と被仰候時、沢村才八申上候ハ、是より四五町程跡ニ小キ森の所ニ敵味方三四千程 一ニ三四十つゝ 立合居候ニ、一番ニ馬を乗込、敵を追崩したる武者ふり見事ニ候か、只今御立物を見候ヘハ甲州様ニて御座候と申けれは、黒田氏一段能被見候、其分少も無相違由被  仰候考ニ関東軍記大成ニ、此事を難したる尚古か説有、然共沢村大学か覚書ニも記し、御家の旧記ニ相違無之候、但大学ハ始終忠興君の御側を不離と有、又黒田殿も合戦始るまてハ御同所ニ御座候と見江申候、然ニ敵中ニ御乗込候時、立物ハわかり候へ共長政と云事ハ不存、後ニ立物ニ而存当候との事、少いふかしく候  忠興君左候ハゝ、我等の小姓見届候段可

申上由御挨拶有之内ニ、金森出雲守可重・戸川肥後守達庵・岡田将監義因等追々に御越候、いつれも手ニ  御逢候と見へけり、夫より黒田氏ハ中納言秀秋の方へ被参候由ニて御別れ候、忠興君ハ猶も敵をしたひ玉、藤川の辺迄追懸け給ふ所ニ、向の山ニ引  揚たる敵の勢一かたまり見へけれは、若立直す事もやと思召、人数を御集被成、敵に対し北向に備を御立堅め被成候、此時才八ハ勿論御小姓は入江  五郎作・金森半助・樹下右衛門・牧長三郎・森新十郎なり 或人云、働の甲乙ハ有之候得共、何れふりあしからさるハ、日比御傍ニて御咄を承心懸ふかき故ニや、此時あひに人数を御立堅め候大将外ニなかりしと也一書ニ、黒田甲州而ニ合んとや被思けん、馳通り給しかは、忠興君御覧被成、甲斐守何方へと御申候ヘハ、あれニと云捨て乗通られしを、あれ所ニてハ有まし、敵は崩れたれ共、向の山の黒ミハ敵ニてハなきか、もり返す事も可有ニ人数を集めハせすしてと有けれは、実もとや思はれけん、取て返されしなりと云々、いふかし

綿考輯録に見る関ケ原(9)

忠興君の御家士各分捕高名して、諸方より馳集り御備も厚く相成候、中ニも加々山庄右衛門ハ以前忠興君敵中へ御乗込被成候時、御供ニ而馳入一ニ 胆吹山の下ニ而石田・島津備の前をと有 御暇乞申上、猶先へ乗入数人を切捨て、首一ツ取御前へ持来り候、有吉与太郎康政ハ大谷刑部少輔内古河太兵衛と  云母衣武者と互ニ名乗合馬上ニ而鑓を合、太兵衛を馬より突落し飛下りて首を取、母衣を取て敵の首を包候ニ、其身も鑓合の時手負 左の股、一ニ左のニの   腕 候ゆへ、家人ニ其創を巻せ馬ニ打乗、又敵中ニ馳入んとする、是より先葛西九兵衛ハ小高き所ニ而鑓を合敵を突伏首を取、立あかる所を鉄炮ニ而  股を打抜れ候間、側にて働居候若党此体を見て敵を打捨馳寄、九兵衛手創を保養いたす折節、与太郎高名して剰(アマツサエ)手を負なから又敵ニ懸らんとするを見て九兵衛声をあけ、手を御負候と見へ候、御籏本ニて首を実検ニ入られ可然と申ニ付、与太郎馬を留め居たる所ニ、家士各首を取康政か前ニ来ニ付、母衣籠の破れたると?衣と首に添て 母衣絹ハ浅黄ニ黒き三文字付 忠興君御籏本へ参る坂中にて、田井助八も敵を討未首を取さりしか共、康政御旗本へ参るを見付追着けるに、葛西九兵衛手を負て坂の上に有り、召連参へき旨康政申候を、御供ニ後れ九兵衛を連ニ参候儀存も不寄と云、其儀ならハ我等可行と康政申ニ付、助八立帰り九兵衛か馬を尋出し、かき乗て連来る、与太郎も坂下ニ待合居候、其時助八、御供ニ後れしど思ひ敵の首を不取残念なり、と云を与太郎聞て、あれへ行は敵と見ゆる討取れ、と云けれは助八追懸けるに、敵持たる鉄炮を取直す所を急ニ斬懸候ヘハ、鉄炮を捨刀を抜合せ候得共、切伏せ首を取、康政に追付候也、康政は福嶋氏の備近く通り候を正則見て、何れの手の衆そと御尋あり、羽柴越中守内有吉与太郎康政と名乗通り候ニ又使を以、有吉と候得ハ四郎右衛門の子ニて候や、手を負れたると見へ、殊ニ高名も有之たると見へ候、未若輩なるに見事  の様子、越中殿へ咄可申と被仰越候、扨忠興君御覧被成、扨々手柄をいたしたり、先手創を保養いたすへしと被仰候、米田与七郎も能敵を討取、伊吹  山の麓田端江腰を懸家来を待居たる所ニ、吉岡弥三郎是を見付討洩されたる敵と心得、何者そと詞をかくる、羽柴越中守者なりと云、名前ハ何と申そ  と又々尋候ヘハ、吉岡弥三郎と云、扨ハ能所ニ参たり、米田与七郎今敵の首を討取しと云て見せ候せ候ヘハ、弥三郎様子を聞、扨々お手柄と感申候、  与七郎申けるハ、其方ハ本陳ニ参り玄蕃殿へ此通申呉候へ、某も追付可参と申ニ付、弥三郎急き御旗本へ参り玄蕃殿へ申達候ヘハ、忠興君聞召付ら  れ御直ニ様子御尋被成候内、与七郎山の尾崎を越馬ニて参候を、忠興君御側ニ被召寄、親か居ならは如何計悦ん物をと被仰、御落涙被成候か与七郎顔ニ掛り候となり、此砌ハ大将衆も追々御集り御一所ニ御座候ニ、忠興君、あの者ハ岐阜ニ而討死を遂たる米田助右衛門忰ニ而候と被仰候ヘハ、何も感涙を催し給ふ、中ニも嘉明(加藤)被仰候ハ、家康公御運被開の間一廉御褒美も可有候、国へ帰り候ハゝ彼者大身ニ御なし候へ、と玄蕃殿ニ向ひ、忠興君御聞候様ニ御申候也、其時あたりニ古藪のありけるを忠興君御覧被成、ヶ様の所ニハ落人なとかゞみ居るもの也、と御詞の下より敵一人走出けるを、与七郎其儘討留候間、一段御機嫌能御座候なり与七郎高名の時ハ、真下七兵衛一人馬の口を取居候て七兵衛申候ハ、弥三郎能御見置候へ、与七郎ニハ我等一人付居候間、左様ニ御心得候へと申、弥三郎答て、其方事兼て頼母敷存候ニ一段見事ニ而候由申、御本陳ニ参候と也、弥三郎ハ忠興君より御知行百石被為候拝領候へ共、如何なる故にや御暇被下一生浪人ニ而あなたこなた仕り、河喜多九大夫方へ居候内、米田監物家来塩木喜助と申者見廻ニ参、軍物語抔有之候時、岐阜関原ニ而監物高名之時も供をして付添由申候ヘハ、弥三郎聞て、いや夫ハうそニ而候、関原ニて監物殿高名の時ハ、真下七兵衛一人より外ニ付居候者ハ無之由申候と也、此弥三郎生得もきとう(没義道カ)者ニて武勇一遍の男ニ而候ひしと也考ニ一説、是季寛永十五年有馬陳之節四十五歳、大坂夏陳廿六歳、と是を以考れはわつか十一歳かと云々、誤也、今年十五歳なり

綿考輯録に見る関ケ原(10)

巳の刻より取合ひ始り未の刻ニ勝敗わかり、当手ニ討取首数百三十七、生捕十七人、討捨ニしたハ数を知らす、惣而敵の死亡弐万八千余人 一ニ三万五千弐百七十余とあり 味方討死三千七百余人、創を蒙る者許幾(ココバ=沢山)なり、御家中ニも有吉与太郎を初手負数多有之候 討死手負名前追考可仕候扨敵の陳所或ハ柵の前ニて討取たる首を功名とし、其場をこへて討取りたるをハ追討ニ定られ候と也、斯て敵一人もなく逃去、忠興君を初各内府の御床几所ニ至り、御勝軍を御祝し候ヘハ家康公仰ニ、我等手をおろして致したる合戦ニ而も無之、偏ニ各の精力を以て本意ニ任せ候との御挨拶なり、此時本多中務大輔、今日御先手諸将の御働き何れも無比類段御披露あり、又諸将ハ、中務大輔今日人数の繰廻し、兼て承及ひしニも増り候と御申上候ヘハ、忠勝、某の差向ひたる敵は殊之外虚弱ニ候ひしと被申候也、忠興君ハ以前之約ニ任せ、黒田甲斐守働の様子、近習の者見届候段被仰上候ヘハ、左様ニ可有之候、貴殿働之様子も甲斐守被申感入候との御諚あり一書、黒田氏ハ秀秋の備より内府様の御方へ越被申、忠興君御働の様体委細被仰上、御帰候道ニ而忠興君へ御逢被成、先程の様子内府へ一 々申上候、拙者のも御申候へと有、忠興君も其心得候由被仰候と云々此時諸将の中より御凱歌(カチドキ)御執行可然よし被申上候ヘハ内府公の仰に、場中ニての合戦ハ何時もかく有へき事案の内ニ候、然れ共各証人として大坂ニ被差置たる妻子の安否不聞届内ニは不致安堵候、近日上方ニて妻子を引き渡し、其上にて凱歌を揚へしとの御意を承り、各感涙を催し、忝儀 と御申上候と也、さて筑前中納言秀秋を初裏切いたされ候面々、各御本陳ニ被出朽木河内守元綱 入道の後卜齋 も被参候、忠興君赤坂御在陳の内  安田九左衛門を被遣、家康公ニ忠節有之候様ニとの儀、懇々被仰越候得共、蜂払ふて寄せ付られさりしか、脇坂と同前ニ返り忠をして、此時忠興君ニ向ひ小手招せられしをねめ付給ひしかは、こそ/\と逃込れしと也関原軍記大成ニ云、十五日の夜ニ入て元綱ひそかに忠興君の営ニ来り、某上方に与して内府の御咎め遁れ難し、去なから脇坂と一手ニ成り少の心繰をも顕し候へは、いかにしても御機嫌を直し給れと有ニより、然らは御本陳ニいさなひ陳謝すへしと被申けれハ、元綱甚悦喜して忠興の跡ニつき御本営ニ伺公せらる、越中守御幕内ニ参られけれ共、御夜食被聞召ニよつていまた其理りなかりしを、元綱幕の外より小声ニ成て忠興を催促有ニより、今度朽木河内守事御敵をなし申、今更後悔身ニせまりたりとて、某を頼み色々陳謝申よしを演説せられける内に、元綱御幕を這ひ入てひたすら御宥免有へしと被申けれハ、家康公笑ひ給ひ、其方なとハ小身なれは草の靡 (ナビキ)きといふものにて、敵をせられしも大罪にハあらす、本領安堵を申付へしと仰けれは、河内守難有御恩徳なりと申して御前を退出せられると云々三河風土記ニ、家康公岡山ニ御着陳のとき、脇坂中務大輔安治・小川土佐守祐忠・朽木河内守利綱三人、藤堂高虎を頼内通被仕候と云々考ニ、右元綱と両人ニ而利綱は伝写之誤なるにや、武林伝等ニハ元信と有実検事終りて、家康公ハ晩景ニ至り大谷吉隆か藤川の台ニ掛置たる小屋ニ入らせ給ひ、井伊・本田(ママ)等は今洲ニ陳をすへ、諸将も近辺小や取あり考ニ関東軍記大成ニ、内府公ハ九月十六日正宝寺山を御出馬ありて、永原ニ御陳を移されしか、重て佐和山へ発向の諸将を御議定有と云々藤川の台より正宝寺山ニ御移の事十五日か十六日か、尚重て可考

綿考輯録に見る関ケ原(11)

忠興君御陳所は今洲の宿二三町御上り被成、海道より左の田の中に芝原少し有之所ニ駒立の小屋掛に御一宿有、偖(サテ)申の刻より雨頻りに降て飯  を炊く事不叶処ニ、御本陳より軍使馳せ廻り、諸勢米を食するに於てハよく洗ひてほとひたるを食すへし、然らされは腹中ニあたるもの也との御下知あり  けれは、諸人家康公の御心遣ひを難有存けると也、忠興君ハ御弁当の飯を一杓子宛其日手ニ合たる者ニ被下候、御自身も手ニ合被成候間甚御機嫌 好御座候、夜ニ入て牧新五か者漸ニ火を焼居候処ニ藤堂佐渡守下人来て、主人佐渡守今日何も喰不被申候、せめて湯ひとつ給させ申度と申を、新五より忠興君江申上候へは、何そ無之やと御尋させ候て、菓子袋より柿を三つ取出し御送被成候、又黒田長政より使来て、後藤又兵衛手を負候へ共金瘡医師不召連候、貴様被召連候ハゝ御借可被下由被申越候故、津田夕雨を被遣候、且又沢村才八御感ニ預り、猩々緋の御羽織被為拝領候、其故は、才八岐阜ニ而数ヶ年手を負候故、今日は御傍ニ居候へと被仰付前後御側を不離、件之御使ニも参り、忠興君馬武者と切結はれ候時も御脇を詰、其後敵  敗て諸大将一騎かけニ追討の時も、黒田氏を初何れも馬取中間迄一人も無之候ニ、忠興君ニハ、初中後才八附従候而御詞を違へ不申候故ニ候と也、牧長三郎も赤キ御羽織拝領、番指物被召上候 鯛瀬(善助)か家記ニ、関ヶ原御陳ニ深手負申候善助小屋の前を三齋様被遊御通候節、御立寄御懇詞有之候、又右御陳中ニ御先を馳候節、福嶋殿より御軍法を破候段御届有之、切腹をも可被仰付御様子ニ候処、与一郎様御断ニよつて被差免候、段々手ニ合申候者ニ候間、御取立被成度被思召候へ共、御軍法被破者之儀故御取立不被遊段御直之御意も御座候由、善助一生之手疵七十七ヶ所有之候と云々 考ニ、御軍法破り候との事ハ、八月河越の時の事ならんか、飯田次郎右衛門先祖飯田西忍も手負候と家記ニ在、偖又右所々ニ出せる面々之外手負・討死・高名且御褒美の輩等いまた委敷考得不申候、惣而此関ヶ原合戦の次第を考ニ、一戦ニ天下分目の勝負累世未曾有の大合戦也、然れは其始末実録と称するもの多く粉雑にして一様ならす、彼ハ是を評して実とし、是ハ彼を評して虚とするの類、家々の記録何れを的中のミと仕難く候、其故ハ、敵 味方五千三千乃至五万三万の軍勢を以取合の始末も、進退・勝負あさやかなるハ、たとひ其場ニ不差出ものにても後日ニ人ニ問尋、時勢を察して記し候はゝ、大方ハ相違も有間敷か、然ニ此闘ハ敵味方廿万計り、南宮山陳取の外ハ大略残りなく一同ニ取くさり、殊ニ信長・秀吉以来度々の合戦ニ馴、進退琢磨の猛将多く、名をおしむ勇士等互ニ晴と戦を挑み、小者中間ニ至迄も強く勝負を争ふ程の事ニて、十五日巳の刻比よりせり合始り、大合戦と成、未の上刻程ニ勝負わかり、其間しはらくもいとまなき戟(ホコ)際也、誠ニ我手我備の内さへ自余の働さたかならされは、他の手の事ハ後日伝聞の物語、或ハ自他の疎密・依怙の判談等を以記したるも可有之、諸書区々にて何れを実とも定難き事数々也、尤家康公より一手々々ニ被差出候御目付も有之、又ハ人のかせきのミ心を付る族も可有之候へ共、強ニ其所にかゝはり不申たゝ御家の事はかりを先ツ拾ひ揚申候、扨当手の御人数は石田と計り戦ひ候様ニ心得たるも悪かるへく候、忠興君・福嶋・加藤の三家ハ今日も一の御先手ニ而、其外の大将衆も備の次第ハありといへとも、皆同しく家康公の為ニハ御先手也、敵方ニハ秀家・三成・嶋津・小西・大谷等を初地形を謀つて備を立敷、待軍の格にて一同ニ扣、扨味方の大将達ハ一手々々に列を立、思ひ/\ニ差向ひたる敵にかけ合せ、中ニも塩合を能はかり、其図ニ中りたるハ功を得、かゝり塩悪しきか又本よりの勝劣にや、一旦敵ニ被追立たるも有之と見へ申候、忠興君の御内ニ而も鯛瀬善助・沼田小兵衛働なと嶋津手との取組也、しかし是は嶋津氏退口ニての事なるへし、有吉与太郎か討たる敵も大谷か手の者なり、必竟ハ石田か先手田中氏の人数を追立候ニ忠興君横合より御突かゝり被追返候砌よりハ、大形諸手共ニ取くさり、時を移し御働被成候、右石田か先てを御追立候ニて、直ニ敵惣敗軍の様ニ記したるも有之候へとも、左様ニ而ハ無之候、忠興君御自身の御働、与一郎様・玄蕃殿・与五郎殿を初め御家士等の働を考候而も、一応の事とは見へ不申候、たとひ石田か先手ハ此一戦計ニ而も、自余の敵兵数多なれは直ニ余の手もかゝられ、石田か先手も今日を限と強く働候由、諸書ニも記し有之事ニ候、此時の様子、最初は石田勢田中氏を突立一二町も追かけ候ニて、味方戦地を敵ニ取られ候を、忠興君鑓ニて突崩し敵を追立、芝居を御取返し被成候と云ものニて、未勝軍ニては無之一旦の事也、此砌石田か手ニかゝられ候味方の大将、黒田氏・田中氏・加藤氏を初め其外も有之、福嶋氏を初め備前中納言の手ニ討て懸るも有、下野守殿・井伊・本多等の被差向候手は、島津・小西抔と相見へ、藤堂高虎・織田有楽・同河内守等ハ大谷・平塚・戸田等の敵と戦ひ、其外の諸将其場々々ニ応し、秀家の手ニかゝり候も有之、嶋津・石田・大谷ニかゝりたるも有之、銘々ハ我一人之様ニ心得相働といへ共、双方の先手十万計一同ニ入乱れての戦ゆへ、当を幸ニ勝負を遂、後ハ互ニ備も乱れて、一 家内にても離れ/\ニも相?(ハタラク)、大将も自身鑓合太刀討等ニて、中々了簡よりも烈しき事と可心得也、然は敵を追立進む味方も有り、或ハ敵に被追立も有之、いまだ勝負分れさる所ニ、筑前中納言の裏切の戦ひ初り候てハ、味方一涯勢ひ強く成候得共、敵も早速ニ敗せす、大谷か手ニて一ト先ツ秀秋を切崩し候を、尚又関東の諸将上方の降将等左右より懸り候ニて、秀秋の手も立直し敵の大将歴々討死、味方は弥気ニのりて、無程惣敗軍ニ及ひ関東方の諸将敵を被追討、忠興君も至藤川の辺迄追討被成候由、右敵の勢引色になる砌よりハ別而諸手入交り、敗軍におよひ散々に落去候故、味方の大将も思ひ/\ニ被追討候なるへし、如是なる時ハ御家の記録と粗符合仕候、土地・年月・将士の姓名・人数の多少等ハ、参考之上誤を改むへくも候へとも、合戦の様子強而考候ヘハ自己の作説ニ堕り易く候、肝要ハ大切の御戦功を好事の作説ニ覆はれ、或ハ纔(ワズカ)の覚書等を以多本の実説を押妄り儀は無念の事ニ候故、此所ニ贅書いたし候、なを博く参考の上便りとも可成事ハ追加可仕と存、見当りたる事ハ仮ニ左ニ出し置申候、家康公関ヶ原御着之刻限、敵味方の備立等も区々ゆへ、前にも諸説を拾ひ置申候、大抵同様なるハ省き、関ヶ原軍記大成ニ、嶋津・小西等備の次ニ三淵大和守とあるなとの類、不快相違の事等ハ一向ニ出し不申候、又合戦諸記ニ出たる関原合戦の所ハ、本より偽作と相見江評判のもかゝり不申、旦江戸・大坂其外にても軍書講師なとのうちにハ、色々奇怪の説を以俗を驚かす類ひ様々なり、なましひニ機密実事らしく深くたくみにして、間にハ家々の誤伝なと聞伝、面白く潤色して年月時日なともよく考候ヘハ、好事の輩ハ実もと迷ふ人もあるへし、勿論御家の実録なとハ伺ふたる事もあるましけれハ、洩したるハことはり也、今此所ニ出し置説々も、御家ニかゝはらさるハ省き候間、此合戦一件の事全きニてハ無之候、

綿考輯録に見る関ケ原(12)

扨関ヶ原町ニ而高田屋九兵衛と申者、御合戦の次第を先祖以来伝来せし由ニて、絵図をも所持致候間、則古戦場ニ伴ひ所々見廻りて色々噺を承候に、実もと思ふこと多く、また誤り伝へたりと聞ゆるも有之候、則九兵衛絵図に添て持伝へ覚書之内ニ左之通有之候高田屋九兵衛か覚書之内ニ 関原町ニ而古戦之事情詳く書紀いたし候を所持

一、家康公御本陳野上村之西、南山麓桃配に御陳を居られ、御籏関原の本町口迄、御籏本は右桃配より段々拾弐町之内陳とり、関原西海道より南之方大関村之関屋明神之辺迄、福島左衛門大夫・京極修理大夫・蜂須賀阿波守・藤堂佐渡守乾之方ニ向て陳を取、関原海道より北合川山口より八幡宮森迄、金森法印・細川越中守・加藤左馬介・田中兵部少輔右合革川山口より三丁程の山手丸山といふ所ニ、黒田甲斐守・加藤左衛門尉・竹中丹後守、此所より松尾山西方筑前中納言之備迄道法三十弐町有右丸山狼煙場也右北山東茨谷と云所、徳川下野守殿・井伊民部関原町口喜多ニ当ル也   牧田道十九女池野、本多中務少輔野上村東、生駒讃岐守・寺沢志摩守・山内対馬守・織田有楽・有馬玄蕃頭・駿河・遠江之兵段々ニ備を立る毛井・野上之間壱里塚、浅野左京大夫・池田三左衛門、赤坂御勝山御留守居、堀尾信濃守・筒井伊賀守大垣城押へ長松村・一柳監物曽根村、津軽左京亮・西尾豊後守・水野六左衛門・中村式部・松平丹後守南宮山之押へ、金屋・川原・徳永法印・市橋下総守・横井伊織・同作左衛門・同孫左衛門西国方備之次第

一、石田治部少輔三成、北国海道之方小関村之内篠尾と云所、青竹を以柵を二重結、其内ニ鉄炮・長柄を伏たり、柵より前に秀頼公物頭六十三騎陳列す 小池村、島津兵庫頭義弘・嶋津中務少輔、大関村之北天満山、小西摂津守行長、同南之方山 但し天満山ニ総て有り 備前中納言秀家陳す南下村、大谷大学・木下山城守・戸田武蔵守・同内記・平塚因幡守・同庄兵衛 藤下村ハ中山道海道筋関の藤川の川岸在所也、九州・五畿内勢四万余、山中村之北宮之上に、大谷刑部少輔吉隆之下知を受る松尾山、筑前中納言秀秋、右之山続海道之南今須之宿辺迄、脇坂中務子息・同淡路守・小川土佐守・同左馬介・朽木河内守・赤座久兵、大垣之城本丸福原右馬助、二の丸熊谷内蔵助・垣見和泉守・木村惣左衛門、三の丸高橋九郎・秋月長門守・相良宮内少輔、都合壱万三千七百六拾騎籠り居る石田三成家臣島左近・同新吉・蒲生備中守、関原之北国海道之左右ニ備を立る、嶋津・小西備前、備之前也九月十五日朝、小雨ふり霧深して漸々巳の刻計に天も晴る、然ニ福嶋の手より物見として沢井左衛門・祖父江法斎・森勘解由右三人出す、三成の手より物見として乾次郎兵衛・津田小三郎と注ニ行逢ふ 石田三成より藤下村江軍使を立る、大谷大学・木下山城守・戸田武蔵守・同内記・平塚因幡守・同庄兵衛、関原北国海道之方馳来る、福島の備より鉄炮打出す、軍初る、西国方秀家・三成・義広・義家・行長、互ニ掛て鉄炮打、長柄を揃て突合、細川忠興・井伊直政・加藤嘉明・黒田長政・織田有楽・同長孝等、兵を卒して馳合、是北国海道之左右八幡宮の後也中仙道之道より南、東国方藤堂佐渡守・京極高政、蜂須賀阿波守至鎮・本多忠勝・宇喜多・嶋津之勢ニ互ニ掛て先を争ふ、石川伊豆守貞政真崎先に進て鎗を合首を捕る、依て壱番首御感状被下并猪子内匠、古田大膳・舟越五郎右衛門・佐久間久左衛門・同源六、各先ニ進て武勇を顕す海道之中筋、金森法印・同出雲守・田中吉政・福嶋父子、石田・小西・嶋津・宇喜多之勢と互ニ死を軽んし戦、此時午の上刻なり、御馬廻伊丹兵庫・河村助右衛門・奥平藤兵衛・村越兵庫壱番ニ乗入討死、小坂助六・尼子善十郎・稲熊市左衛門・兼松又四郎・坪内喜太郎・長男惣兵衛・二男嘉兵衛・ 三男佐左衛門・四男太郎左衛門・内谷利左衛門已下働有松尾山・金吾秀秋数を大関村之南へ静に下し、大谷・平塚備之右之方江掛る、大谷も秀秋の別心兼而察したるゆへに、関原表の軍に構はす静りかへつて押て居けり、秀秋の先手一戦に利を失ひ、家臣田中勘左衛門・布目新左衛門其外一騎当千之手之者暦(歴)々討死、手負多く出来る、然ニ脇坂中務・小川土佐守・朽木河内守・赤座久兵衛昨十四日藤堂を以御味方ニ可参と内通す、依之高虎合図之籏を揚る、右四人共大谷吉隆之備に横合より討掛、藤堂・京極・山内同時に掛る、山中村之多勢是に依て敗軍、大谷吉隆切腹す、家頼(来)三浦喜大夫大谷か首を捕て吉隆の甥祐玄と云沙門に其首を渡す、袈裟ニ包て土中ニ納る、山中表敗軍しける故、石田・小西・宇喜多等の後より軍敗れて、即時敗軍なり 中略 関東御合戦場へ出る人数、東国方惣人数七万五千三百弐拾余、西国方惣人数九万三千余

綿考輯録に見る関ケ原(13)

扨関ヶ原町ニ而高田屋九兵衛と申者、御合戦の次第を先祖以来伝来せし由ニて、絵図をも所持致候間、則古戦場ニ伴ひ所々見廻りて色々噺を承候に、実もと思ふこと多く、また誤り伝へたりと聞ゆるも有之候、則九兵衛絵図に添て持伝へ覚書之内ニ左之通有之候高田屋九兵衛か覚書之内ニ関原町ニ而古戦之事情詳く書紀いたし候を所持

一、家康公御本陳野上村之西、南山麓桃配に御陳を居られ、御籏関原の本町口迄、御籏本は右桃配より段々拾弐町之内陳とり、関原西海道より南之方大関村之関屋明神之辺迄、福島左衛門大夫・京極修理大夫・蜂須賀阿波守・藤堂佐渡守乾之方ニ向て陳を取、関原海道より北合川山口より八幡宮森迄、金森法印・細川越中守・加藤左馬介・田中兵部少輔右合革川山口より三丁程の山手丸山といふ所ニ、黒田甲斐守・加藤左衛門尉・竹中丹後守、此所より松尾山西方筑前中納言之備迄道法三十弐町有   右丸山狼煙場也右北山東茨谷と云所、徳川下野守殿・井伊民部関原町口喜多ニ当ル也牧田道十九女池野、本多中務少輔野上村東、生駒讃岐守・寺沢志摩守・山内対馬守・織田有楽・有馬玄蕃頭・駿河・遠江之兵段々ニ備を立る毛井・野上之間壱里塚、浅野左京大夫・池田三左衛門、赤坂御勝山御留守居、堀尾信濃守・筒井伊賀守大垣城押へ長松村・一柳監物曽根村、津軽左京亮・西尾豊後守・水野六左衛門・中村式部・松平丹後守南宮山之押へ、金屋・川原・徳永法印・市橋下総守・横井伊織・同作左衛門・同孫左衛門西国方備之次第

一、石田治部少輔三成、北国海道之方小関村之内篠尾と云所、青竹を以柵を二重結、其内ニ鉄炮・長柄を伏たり、柵より前に秀頼公物頭六十三騎陳列す 小池村、島津兵庫頭義弘・嶋津中務少輔、大関村之北天満山、小西摂津守行長、同南之方山 但し天満山ニ総て有り 備前中納言秀家陳す南下村、大谷大学・木下山城守・戸田武蔵守・同内記・平塚因幡守・同庄兵衛 藤下村ハ中山道海道筋関の藤川の川岸在所也、九州・五畿内勢四万余、山中村之北宮之上に、大谷刑部少輔吉隆之下知を受る松尾山、筑前中納言秀秋、右之山続海道之南今須之宿辺迄、脇坂中務子息・同淡路守・小川土佐守・同左馬介・朽木河内守・赤座久兵衛、大垣之城本丸福原右馬助、二の丸熊谷内蔵助・垣見和泉守・木村惣左衛門、三の丸高橋九郎・秋月長門守・相良宮内少輔、都合壱万三千七百六拾騎籠り居る石田三成家臣島左近・同新吉・蒲生備中守、関原之北国海道之左右ニ備を立る、嶋津・小西備前、備之前也九月十五日朝、小雨ふり霧深して漸々巳の刻計に天も晴る、然ニ福嶋の手より物見として沢井左衛門・祖父江法斎・森勘解由右三人出す、三成の手より物見として乾次郎兵衛・津田小三郎と注ニ行逢ふ石田三成より藤下村江軍使を立る、大谷大学・木下山城守・戸田武蔵守・同内記・平塚因幡守・同庄兵衛、関原北国海道之方馳来る、福島の備より鉄炮打出す、軍初る、西国方秀家・三成・義広・義家・行長、互ニ掛て鉄炮打、長柄を揃て突合、細川忠興・井伊直政・加藤嘉明・黒田長政・織田有楽・同長孝等、兵を卒して馳合、是北国海道之左右八幡宮の後也中仙道之道より南、東国方藤堂佐渡守・京極高政、蜂須賀阿波守至鎮・本多忠勝・宇喜多・嶋津之勢ニ互ニ掛て先を争ふ、石川伊豆守貞政真崎先に進て鎗を合首を捕る、依て壱番首御感状被下并猪子内匠、古田大膳・舟越五郎右衛門・佐久間久左衛門・同源六、各先ニ進て武勇を顕す海道之中筋、金森法印・同出雲守・田中吉政・福嶋父子、石田・小西・嶋津・宇喜多之勢と互ニ死を軽んし戦、此時午の上刻なり、御馬廻伊丹兵庫・河村助右衛門・奥平藤兵衛・村越兵庫壱番ニ乗入討死、小坂助六・尼子善十郎・稲熊市左衛門・兼松又四郎・坪内喜太郎・長男惣兵衛・二男嘉兵衛・ 三男佐左衛門・四男太郎左衛門・内谷利左衛門已下働有松尾山・金吾秀秋数を大関村之南へ静に下し、大谷・平塚備之右之方江掛る、大谷も秀秋の別心兼而察したるゆへに、関原表の軍に構はす静りかへつて押て居けり、秀秋の先手一戦に利を失ひ、家臣田中勘左衛門・布目新左衛門其外一騎当千之手之者暦(歴)々討死、手負多く出来る、然ニ脇坂中務・小川土佐守・朽木河内守・赤座久兵衛昨十四日藤堂を以御味方ニ可参と内通す、依之高虎合図之籏を揚る、右四人共大谷吉隆之備に横合より討掛、藤堂・京極・山内同時に掛る、山中村之多勢是に依て敗軍、大谷吉隆切腹す、家頼(来)三浦喜大夫大谷か首を捕て吉隆の甥祐玄と云沙門に其首を渡す、袈裟ニ包て土中ニ納る、山中表敗軍しける故、石田・小西・宇喜多等の後より軍敗れて、即時敗軍なり 中略 関東御合戦場へ出る人数、東国方惣人数七万五千三百弐拾余、西国方惣人数九万三千余

綿考輯録に見る関ケ原(14)

 関東(ママ)軍記大成、細川・黒田力戦之内ニかくて細川忠興・加藤嘉明・田中吉政・生駒・戸川以下ハ、小関野の敵と戦はんために兵士をすゝめらる、黒田長政ハ竹中丹後守ニ道路を案内させて、岩手山の麓を相川より栗毛・小栗毛にいたり、小栗毛の川原ニ備を立られしに、石田か家老嶋左近青塚に備をたて頻に鉄炮をはなつ、長政の銃頭堀平右衛門・菅六之助・野口左助・増田与助・白石正兵衛 後号監物 等きひしく鉄炮を打かけたり、中にも白石正兵衛白しなへのさし物さして先登にすゝみて、終に敵を追立しに、内府公白石か武者振を遥に御覧して、黒田甲斐守か家来白石正兵衛と申者なりと申けれは、比類なき働なりと宣ひしか、其後も彼か戦功を殊更に感し仰下されけるとかや、石田三成ハ家来萩野鹿之助を先手はつかはし、鬨に打勝へき時いたれり、いそき合戦はしむへし、と下知するによつて先手の隊長兵をすゝむ、田中兵部大輔・生駒讃岐守・戸川肥後守・岡田将監等かけあはせて戦ひけるか、関東勢終に戦地をしさる、此時石田か軍士萩野鹿之助一番鑓を突たりとかや、三成先手の千里ありと見て、南宮・栗原の身方内府の旗本へ突かゝるにおゐてハ、必定勝利なるへしとおもひ、天満山ニ相図の狼煙をあけさせ、其身ハ陳所の丸山を下り、鬨をあけて柵際にせまる、石田か先手の輩田中兵部を二三町はかり追たてけるか、加藤左馬助・羽柴越中守・黒田甲斐守三家の軍士三万より突かゝりけるか、加藤嘉明の家人原甚兵衛一番鎗を合せ、剰東新大夫か首をとる、羽柴忠興の軍士有吉与太郎鎗下の首をとる、忠興の嫡子羽柴与一郎忠隆・二男長岡与五郎興秋・舎弟細川玄蕃頭興元・牧左馬允四人ともに鎗を合はせ首をとる、忠興も敵中へ馬を乗入自身太刀打せらる、其家人米田与七郎・香(加)々山少左衛門・牧長三郎・鯛瀬善助・矢野采女・杉原三平首をとる下略

綿考輯録に見る関ケ原(15)

関原軍記大成、筑前中納言反忠之内辰之刻より軍はしまりてやう/\巳午に及ひけれとも、勝敗いまたわかれさりしか、やゝもすれは関東勢戦地をしさる、かゝりけれとも、筑前中納言裏斬せらるへしとも見へさりしか、内府の御家人久保嶋孫兵衛御旗本へ馳参り、秀秋いまた裏斬すへき旗色と見へす、いかゝはからひ申さんや、といひて内府の御下知をこひたりしか、今朝桃配へ御馬を立られし時、南宮山の敵覚束なしと仰られけるに、本多中務承り、彼もし手を合すへき謀あら は山頭より引おろすへきを、今朝に至りて陳所をかへす、是ハ先手する吉川侍従か内通偽なきゆへなるへし、其上吉田侍従・浅野左京大夫以下の圧を召置れたるうへハ、今更御気つかひなき御事なり、御先手の合戦大事なれは急き御馬をすゝめらるへしと諫るによつて、関ヶ原江陳を移されけるか、久保島か注進を聞召て、秀秋裏斬せさるにおゐてハ、秀元・広家も違変あるへきかとかれこれ御不審なきにしもあらす、此君いまた御若冠の比より、身方危き時ハ御指をかませ給へる御くせ有しか、此時も頻に御指をぁ身給ひ、せかれめにはかられて口惜/\と仰らる、しはらく有て家康公、しからは汝秀秋か陳ニむかひさそひ鉄炮をうたせて武色を見よと宣ひて、一年小林源左衛門か捧たりし驢馬をあたへらる、久保島彼馬に乗て先手へ馳帰り、内府公の銃頭布施孫兵衛、羽柴正則の鉄炮頭堀田勘左衛門両人の鉄炮十挺ツゝ松尾山へ向つてつるへたり、此時奥平藤兵衛貞治秀秋に近つき、関原合戦最中なり御兼約のことく裏斬せらるはしといひけれは、秀秋許諾せらる、また黒田長政の家人大久保猿之助ハかねてより秀秋の陳ニ至りしか、平岡石見か側へ近つき草摺をむすととつていひけるは、戦ひ既始つて勝負もいまたまち/\なるに裏斬の下知なきハ不審なり、若甲斐守に偽を申さるゝにおゐてハ弓矢八幡刺違へ申さん、とて脇差の柄に手をかくる、平岡更に驚かす、先手をすゝるしほあひハ我等ニまかせ置かるへしとて、爰かしこの戦ひを目はなしもせす守り居たり 中略、かくて秀秋ハ一軍の軍士五百余騎雑兵すへて八千を、五千ハ左右の先手ときわめ、三千ハ旗本組となして松尾山をくたりに雷発せらる、両先手の主将平岡石見・稲葉佐渡諸隊長を下知して陳列を調へ、先手六百挺の鉄炮を雨のことく打かけて鯨波をつくり、大谷吉隆か先手に有ける木下山城守・大谷大学・戸田武蔵守・平塚因幡守、前なる敵を追捨て、秀秋の先手へ向つて備を立る、吉隆ハ旗本の兵士四十余人雑兵僅ニ六百人を一手ニなし、金の吹貫の認旗、紺地に白餅つけたる旗をうちたて右のかたへ推出し、鎗ふすまを作つて待かけたり、吉隆ハ其日肌にハ練衣のふたつ小袖、上にハ白布ニ村蝶を墨ニ而書たる鎧直衣を着て、朱の佩楯に朱の頬楯して甲冑をはよろはす、あさきの絹の袋に顔さしいれて頬楯の下にて緒を結ひ、四方取はなしたる乗物に乗て近習の兵士ニかゝせたり、敵兵既にちかつきけれは、先手と旗本の鉄炮四百挺を放つてかゝりあひ勇を奮ひて相戦ふ、吉隆駕を乗廻し、今日秀秋を首ニせすハ骨髄に通りて口惜からん、汝等敵を追崩し旗本を目ニかけて切入へし、と大音揚て兵士を励す、平塚因幡為広ハ六十余人をしたかへ、十文字の鎗を取て馬上より敵を突ふせ/\、あたりを払つて馳めくる、戸田武蔵守重政父子五百余人を前後ニたて、武州も自身鎗を取て働しか、馬上より鎗を取おとし太刀打になつて相働く、戸田が中間落たる鎗を拾ひ取て主人の側へかけつけ、御鎗を参らせんといひけるに、武州暫時戦ひをやめて、汝ハ氏もなき下々なれとも用に立へき者と思ひなからも、日ころ面くせわるきかにくさに、終に刀をさへさゝせさるハ、我等武道の誤りなり、今更面目なけれとも是を得さするそと云て、抜身の太刀を投出し鎗ニ取替けるとなり、秀秋の陳将平岡石見・稲葉佐渡ハ勝敗いまたわかれさるを怒つて、小敵の堅は大敵の鎗なり、たとひそうなき強兵にもせよ、手にたらぬ程の小勢なれは息をもくれす追立て、大谷父子を討取るへし、と両人頻に下知すれとも、秀秋の先鋒三百騎死憤の兵に駆たてられ松尾山の麓へ抜き靡く、田中勘左衛門・布目新平等の死をいたす輩二十九人、創を被るもの五十人に及へり、内府の御目附奥平勝兵衛ハ高名して其首を御旗本へ送り、猶先手にあつて戦ひけるか、身方の兵士崩るゝ時比類なき働して撃死す、此時藤堂高虎以下の諸将も大谷か先手木下山城・大谷大学と相戦ひけれ共、利を失ひて引退く 下略  関原軍記大成、大谷吉隆自害之内かゝりけれは大谷か先手へ向ひたる藤堂佐渡守・同宮内少輔・織田有楽・同河内守・津田長門守等の関東勢、初度の戦ひに利を失ひ戦地をしさりけれとも、秀秋の裏斬と手合すへしとて大谷か左のかたへ馳近く、脇坂中務少輔安治父子はかねて藤堂高虎を頼み関東へ内通有けるか、高虎の陳に旗を振るとひとしく、藤川を渡って大谷か右の方へ兵をすゝむ、是ニよつて一所ニ備たる小川土佐守父子・朽木河内守・赤座久兵衛・脇坂と一手になつて馳かゝる、是を見て秀秋の先手も旗をかへし、又鯨波を揚て打てかゝりけるに、大谷か一陳の兵士又ハ戸田武州・平塚因州三方に敵を請て勇を挫かす、秀秋の先手を又一町はかり追立けれとも、左右より稠敷揉立られて列伍やう/\しとろになる 下略  関原軍記大成、三成狼狽之内去ほとに羽柴越中守・黒田甲斐守・加藤左馬助・田中兵部大輔・生駒讃岐守・竹中丹後守ハ、石田三成か先手と戦ひて勝敗いまたわかれさるうちに、大谷吉隆か陳を攻破りたる、織田有楽父子・藤堂佐渡守等も馳来て我劣らしと勝負をあらそふ、石田か手の者今日をかきりと思ひけるにや、退けとも引返しひらけとも又かけ合せて、追つまくつ七八度まて戦ひしか、蒲生大膳・同大炊・北川十郎を始として混冑の兵士百三十人枕をならへ撃死す 中略 かゝりけれは石田か陳へ向ひたる諸将、終に敵を切崩し柵木を打破りて旗本へ突かゝりしに、石田も今ハかなわしとや思ひけん、大一大万大吉の旗をしほらせ胆吹山の方へ引退き、それより草野の谷へかゝり、大谷山を経て鳥上山にいたる 下略 私云、此御一戦の首注文等ハ即時の記共見江不申候へとも、旧記のまゝ左に出し置申候、尤下の小書ハ後年のものと見へ候間此度加へたるもの有、二重ニ見へ候ハはふきたるも有之候、且御備御武具の様子等見合ニも成へき分ハ一所ニ記し申候

綿考輯録に見る関ケ原(16)

今度忠興君御手の戦功を被改、吟味の上ニ而記之首之注文  加々山庄右衛門・二 朝合戦ニ一ツ、後一ツ加々山或ハ奥田姓ハ大中臣、生国摂州芥川郡古曽部住人、始源八と云、高山右近所に居て、山崎合戦ニ十七歳にて始而鎗を合、其後蒲生氏郷ニ奉公、奥州ニて手ニ合シなり、丹後ニ始て来候時ハ三十余歳なり入江右近・一 加々山庄右衛門見届候入江右近昌永初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲守殿禿童にして御つかひ候ひしか、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之時出雲守殿より異国者ニ而候可愛からせ給へと忠興君へ被仰進候者也牧長三郎・一 加々山庄右衛門見届候後号丞大夫武次、慶長五年正月十五日初而御目見、豊前ニ而五百石為御褒美被下候森新十郎・一与一郎様御見届被成候岐阜の所ニ出杉原三平・一 高股ニ手を負同下人・一  加々山忠助・一岐阜の所ニ出  加々山半左衛門・一一ニ半右衛門・後号市正、加々山隼人小舅也一宮彦三郎・一与一郎様御供切捨の所ニも出、岐阜攻の所ニ出喜多与六郎・一膝の皿を割られちんはと成、一ニ切捨と有、岐阜ノ所ニ出矢野采女・二岐阜ノ所ニ出、一ニ切捨と有津田夕雨・一俗名孫右衛門同下人・一  新五内 久右衛門・一 同又三郎・一 竹田半三郎・一 已上十八歩御小姓衆今村八右衛門・一   於豊前御知行拝領、生国越前也  山本十助・一 一ニ山中大槻才・二後ニ才兵衛御知行拝領、与五郎江被遣候吉川平八・一 藤本勘十郎・一 山本三郎右衛門か甥也、大坂ニて的場次郎左衛門と喧嘩して打果す 大安与吉・一 島三十郎・一 金森半助見届候、島庄右衛門子也以上八三十人衆  樽井鶴介・二岐阜ノ所ニ出  能勢喜三郎・一能勢喜兵衛事か、喜兵衛を此比喜三郎と申候なるへし、喜兵衛事ニて候へば今小左衛門・勘大夫・弥次平か祖也、 関原御陣後御知行弐百石拝領 荒見仁右衛門・一 岐阜ノ所ニ出 已上四鉄炮衆  新兵衛内 小吉・一  矢野六内・庄村五郎右衛門 一切捨、一書ニ御本書矢野庄村弐人の間三ツと有、扨上を黒ニてつり其釣を消候而御座候と云々、岐阜ノ所ニ出  野村作右衛門・一以上三与一郎様衆  魚住与助・一  的場甚四郎・一  毛利忠三郎・一 与一郎様の御指物を請取し者也、岐阜ノ所ニ出柳田久四郎・一与一郎様ニ附て太刀打折、高名したり、岐阜ノ所ニ出清水市右衛門・一岐阜ノ所ニ出  岩崎三左衛門・一 水嶋平五郎・一 已上八与一郎様御供仕切  篠山与四郎・二此内一人馬乗、飯河豊前子、慶長十一年七月御誅伐被仰付候 岡村平右衛門・二右同、豊前ニ而千五百石、先主仙石伯耆守、一ニ越前秀久、後ニ忠利君御手討被成候荒木左助・三右同、岐阜ノ所ニ出  白杉少助・三此内一ツハ松井長助見届候  一宮彦三郎・一  山本左兵衛・二  松井新七郎・一 岐阜ノ所ニ出中路少五郎・一 一ニ和田以上十五玄蕃殿衆 与五郎様・一御働ハ前ニ有市村半右衛門・二秀勝玄蕃殿家老役、市村四郎三郎か養父也  工上三大夫・一玄蕃殿家老役中村源助・二一ニ中杉田伏八右衛門・二  窪田善助・一友岡与左衛門親、加々野井ニ而致討死候、友岡山三郎弟也  三宅兵吉・一 一ニ長吉野村十之允・一 一ニ二ツ明石市介・一 横小路勘右衛門・二 一ニ一ツ  藤木平助・一 一ニ藤本  小寺七助・一 一ニ小守  并河太郎右衛門・一  田原久助・一  林勘八・一 一ニ杉  灰方勘十郎・一 一ニ炭方藤十郎  後藤新太郎・一 杉野大膳助・生捕四人前田甚兵衛・一 一ニ勘兵衛大坂又四郎・一 生捕一人、一ニ大塚北尾勘三郎・一 新保吉兵衛・一 孫之允・一  市村四郎三郎内 中村平三・一同福井久右衛門・二 一ニ吉右衛門と有、又一ツと有野村十之允内吉村次兵衛・一 一ニ二ツ速水甚太郎・一 以上卅六、此内生捕五人与十郎殿内多羅尾五助・一窪田源兵衛・一田辺衆赤塚源助・一 本島清作・一 一ニ寺島小原鹿助・一 一ニ北条大塚忠助・二内一ツ切捨、一ニ三ツ中路久六・一 一ニ二ツ 有吉助兵衛・二 一ニ一ツ、有吉武蔵・芦九大夫等か弟也、後ニ病気ニ成、御暇を願、牢人して八幡ニ引籠、法体宗桂と号  平左衛門内 真下太兵衛・一小兵衛内 中井三助・一 一ニ中村  久代市右衛門・一岐阜攻之所ニ出  荒木左助内 五郎兵衛・一 已上十四 此外小原少次郎・中路少五郎両人ハ与一郎様御供ニ入申候 考ニ小原少次郎、与一郎様御供之内ニ見江不申、書落か有吉与太郎内有吉与太郎・一田井助八・一 馬場孫四郎・一 吉伝甚助・一 一ニ吉住、或ハ吉嶋勘助、又吉嶋甚助共中村小八郎・一  葛西九兵衛・一 以上六米田与七郎内米田与七郎・一 時ニ十五歳塩木左助・二 一ニ一ツ安威弥三郎・一 一ニ弥太郎入江金蔵・一 切捨、一ニ兵蔵山崎清三・一 同、一ニ清蔵 以上六 住江小右衛門・二 与一郎様ニ能附従て見事ニ働候ゆへ、豊前ニて三双倍の御加増にて九百石ニ成、御鉄炮三十挺預り候、 此事家記とハ 少異有、岐阜ノ所ニ出鯛瀬善助・一 一ニ二 働前ニ有、一ニ与一郎様切捨ふ時、身方少色めきたるに殊外働き、手負たりと有、考ニ島津殿退口にての事ニ混したるか、岐阜ノ所ニ出外川平作・一 岐阜ノ所ニ出篠山与四郎内 坂下三郎・一 丹後ニて百石、豊前ニ而百五十石、後御暇小右衛門番子 野原次右衛門・一 一ニ野村西郡大炊・二切捨、一ニ此一行御本書朽て不見と有、岐阜ノ所ニ詳ニ出以上八、此一条口書無之松井新太郎内  松井長助・一 岐阜ノ所ニ出 生田鵜兵衛・一 中山仁右衛門・一 中路甚大夫・一 一ニ切捨、黒田如水いとこなり 粟坂平助・一 鑓疵を蒙る 原久右衛門・一 一ニ久左衛門  渡辺弥兵衛・一 井上利兵衛・一 小森角助・一 以上九 此外松井新太郎ハ与一郎様御供之内ニ有り惣合百三拾六 此外蒲田久右衛門・一 一ニ久左衛門、又九左衛門、剃髪の後号堅齋、豊前ニて三百石、三齋様仲津ニ被召連候

綿考輯録に見る関ケ原(17)

私云、右首注文ハ其砌御吟味之上出来候写伝来仕由也、下の小書ハ後人の加筆と見へ候を直ニ用、又今度加へ候も有之、此注文之首数、蒲原久右衛門討取首共ニ百三十七也、然ハ本文ニ省き申候、尤も頸を討取なから態と首帳ニハ附不申も可有之候、偖又右注文の内に生捕切捨も見へ申候、切  捨ハ証人なとも可有之か、尤其人々の心得ニよりて切捨仕候と見へ候へ共、首数の内ニハ入不申候、又忠興君も敵二人御打捨被成、与十郎殿も能敵討て首を得られ候との説も有之、牧新五・岩間清次なと首を取候との事ハ家記ニも有之、宇土の御家ニ有之候首注文の扣ニハ岩間清次も有之由、丹後守殿御噂ありとの事も家記ニ見江申候、生捕も首注文の内ニ候は生捕て後被誅候分か、外ニも生捕有之へき也、河上四郎兵衛なとも此外と見江申候、 但右伝来首注文之写合三十六有之、此外と有て蒲原久右衛門一人出居申候、其次ニも段々姓名有之たるを伝写ニ洩し来候か、然れ共先ツ首数百三十七・生捕十七人、討捨ニしたるハ数を知らすと云を本文ニ用置申候、既に九月廿に日忠興君より忠利君ニ被遣候御書に、我々手ニ首弐百余討取候と被遊候ニ而可了也、尚追而考、又河喜多か家の記に、与一郎様御高名の時御目通にて能働きたる者ハ、御部屋衆の内柳田半助・今井喜助・河北加兵衛三人殊ニ勝れたる由、此節関の善定兼吉の御脇差を忠隆君より加兵衛ニ被下候、是ハ忠興君より被遣候浮股と申脇差 一尺四寸五分 今以持伝候由也、河喜多正設か云、浮股と云ハ、信長作の御腰物ニて一色義有御誅伐被成候時も右の御刀也、是ハ三齋公より光利江被遣候、浪股共九ツ胴共号せられ、常々御秘蔵の御刀也、依之右忠隆公より加兵衛ニ御褒美として被下たるハ、外ニ浮股と名附られたるものかと云々、又今井・柳田・河北関原軍功三齋公の御吟味ニ洩しハ、京都ニ忠隆君御供仕り参居候ニ付御沙汰ニ不及也と云々考ニ、御吟味とハ翌年豊前ニ而諸士御饗応の時の事なるへし、右首注文ハ此時にてハ有へからす、尚追々可考也

綿考輯録に見る関ケ原(18)

関原合戦御武具之覚

一、御兜 頭形黒塗毛引糸かちん黒熊の引廻し付

一、御立物 山鳥の尾つかみ立

一、御頬当 猿頬錆色塗 関原落去の後、加藤嘉明より所望ニ而写を奈良春田又左衛門 御知行被下置今以子孫ならニ居住同春田又左衛門と名乗候なり ニ被仰付嘉明江被遣候、 如此御挨拶能かりしか共、黒田家と縁者ニ御成候ゆへ、忠興君より御理被仰遣しハ申そこなひ致候而は如何なれは、今迄のことくニハ 被仰通間敷とて始の如は無りしか共殿中ニ而ハ前に不替御咄被成候と也    一、御胴 しほ革包・黒塗・黒糸すかけ草摺、緋ひろうとにて包 鞍ニあたり鳴候とて、御包せ被成候と也 繰しめの緒ねりくり、打緒色浅黄

一、御小手  しのくさり青漆家地布表かちん裏水巻、御右の方家地の布柿布ニ而繕有之、是ハ御陳中ニ而御手つから被遊候由、糸ハまかひなり、鑓疵と申伝候由也

一、御佩楯 右同

一、御脛当 九本篠黒塗かく摺革

一、御鞍 惣梨地御紋胴 五三の桐 九曜の散し、とつつけの緒紫の打緒也    一、御鐙 右同 右之品々其まゝにて今以御天守ニ納有之候、将軍吉宗公御代元文元年辰三月上覧被遊候御事等宗孝君御譜中詳く見江申候

綿考輯録に見る関ケ原(19)

一、大御馬印  黒字ニ白き九曜但五幅四方、横広く見ゆるとて上下の方壱寸五分程御延被成候 一書ニ、差人はかち助と六助也、かち介(ママ)差て少しよろつき候を六助追取て突立し故、御意により加々山庄右衛門名字をもらひ加々山六助と云し也、志方半兵衛親也と云々、志方か家記にハ、志方六助か父ハ志方右衛門尉繁広と申候而、播州志方の城主也神吉民部少輔弟ニ而初ハ櫛橋左京進と申候処、後播州印南郡在名志方と申所居城いたし志方と名乗候由、天正六年志方落城之時六助二歳ニ而一命を遁れ、丹波国ニ隠れ、其後丹後国長生院と申寺俗縁有之ニ十五歳迄居り候内、心繰有之段忠興君被聞召、十七歳 一ニ十五歳 之時被召出御知行五十石拝領御昇頭被仰付、其後御加増百石被下、所々之御陳相働、中ニも於高麗深手負、御懇之御意ニ而御直ニ御薬拝領、関ヶ原・大坂ニも右之役儀相勤、八代ニも御供仕、殊之外御懇意ニ而、寛永弐拾年病死、右六助嫡子志方半兵衛 半兵衛事大坂之所ニ詳ニ出 と云々御馬印豊前ニ而ハ有之字也     

一、御昇 廿本絹三幅黒字ニ二引両を折懸之角より白く筋違ニ付、天正十年三月十九日より、右之通也、一とせ森美作守より忠興君へ御懇望ニ而昇ニ筋違を御付候、是ハ白地ニ黒キ筋違の由也、岐阜・関原落去し御上洛の時、御昇破れたるを三条橋ニ而京童が見て、扨も見事なる昇哉、骨を折たると見へて破けると感候由、七曲りの山ニ而木の枝ニ引懸り破れたると也、扨昇の頭と云事御家ニ無之と也、関原ニ而昇の小頭諏訪孫右衛門・同孫七也 一ニ源七 、高麗陳の時晋州にて能かりし故、諏訪与右衛門 一ニ与左衛門 が名字を両人ニ遣候へとの御意ニ而諏訪ニ成しと也、御昇、豊前御入国以後ハ白地上の方ニ黒キ九曜也、島原御陳の後忠利君御昇を替させられ候時、三齋君へもか様ニ被成候 やうニと被仰候へ共、我代の昇ニ悪敷事ハなし、其方ニハ何そ悪敷事有か、此方ニハ替ましと被仰候と也、白地ニ上ニ黒き御紋付たる御昇五十本有之候を、半分宛御分被成、立孝主・興孝主江御譲今以御両家伝来有之候と也

一、御差物 銀の中くり世ニ銀の半月と申候得共、忠興君ハ中くりと被仰候山鳥の尾ばつとしてくりの所を見へ隠れにて見事なりとなし、十五日合戦前より軍散する迄御差被成候、他の御大将衆は差物を大方人ニ御持せ候由也、或時秀忠公御差物の儀を家康公ヘ被仰上候ハ、加藤肥後守か馬藺の差物か、羽柴越中守銀の中くりの差物二ツの中御望ニ思召候如何可有御座やと御窺被成候ヘハ、家康公上意ニひとつハ差物なとハあやかりものニ候、肥後守もけなけものにて指物も能候得共、太閤の代計の競也、越中守ハ信長以来数度の事に逢候上、先年小牧表の退口殊ニ見事成し越中守差物可然との事ニ而、土肥大炊頭上使ニ而忠興君の御指物を被召上、後ハ御円居ニ成り銀の半月と号、大坂御陳ニも御持せ被成候、同時大炊殿御申候ハ、武勇をあやかるへきとの事なれは、着用之甲冑も可被差上と也、忠興君、具足ハ着古し候、新しく縅献候ハんと被仰、御召料之通縅立られ、其年の十二月被差上候 一説明ル正月考ニ、中くりの御差物被召上候ハ大坂陳以後と云説有、誤成へし 元和元年の所ニ詳出一書、山鳥の尾の立物をも御所望被遊候得共、引尾と申若き御大将ニハ御遠慮ニ被思召候とて不被差上と云々、又一説ニハ、一色は家ニ残し申度よし御断被仰せ上候と云々、同書ニ、御差物銀なる故、御家中ニ御免なけれは銀の道具ハせす、御国本ニ而後も差へきと思召けるにやと云々、又一書ニ中くりの御差物此以前牧左馬允ニ被為拝領候得共、公義江被差上候ニ付、以後ハ家の紋ニすへき由被仰付候と云々、又武隠叢話 武辺咄共云 曰、関原御陳の時、御先手より越中守唯一騎にて御籏本江被参候時、山鳥の尾の甲に銀の天衝半月或は中くり の差物なり、遠方より見れは只其儘舞鶴の如し、家康公御覧被成、忠興武具の物数寄世ニ勝れて見事なり、就中甲と差物の取合一段見事なりと被仰、則天衝の差物御所望被成候ニ付、台徳公ニ被差上候也と云々、他よりハ天衝共申候哉、難心得候、又忠興君此時御先手より家康公の御旗本江御出被成たる事なく、其上国の主武前ニて唯一騎往来と云事も時分柄とハ云なから信し難き事也、又同書ニ、台徳公御所望にて細川忠興より御召の冑一頭被差上、則角頭巾の角の■(糸偏に包)と立たる形也、其冑を土井大炊頭利勝披露也、台徳公御意ニ入御感不斜則越中守も御前ニ召種々御褒美也、時ニ御冑ニねりくりのうち緒を忍の緒に付たり、忍の緒ニハ麻布のくり緒か能と聞召被及たるか、此うち緒か能かとの御不審也、其時越中守懐中より桐の箱を取出し、其内ニ麻布の忍の緒を入候と差上る、土肥大炊頭ニ向て、打緒付置候は御祝儀ニ而御座候、是ハ御肌ニ付候物故別ニ仕置候、只今御前ニて付直し申候と申上候、台徳公御機嫌也、此御冑を大坂御陳ニも被為召候と云々

一、御家中番指物鉄輪の足の如く立たる三本はご黒地ニ縫付たる金の九曜紋豊前ニ而は三ツしなへのはごニて長サ右同断、人持衆ハ同しなから色銘々ニかはる、御馬廻り衆・小姓組ハ三ツはごニて地黒し、御馬廻は一番より六番迄組々一・二・三・四・五・六と金にて押付候也、番文字忠興君御自筆之由、今以伝来仕候 

綿考輯録に見る関ケ原(20)

一、御鉄炮九拾挺ハ御自分、又九拾挺ハ番方イ番方但百廿挺之内三十挺ハ豊後魚住市正小頭上村孫三ニ添被遣、相残九十挺の頭三人ハ西郡大炊・白杉少助・水嶋源助也、源助岐阜ニ而討死故、十五挺分ヶて中路新兵衛・住江小右衛門ニ御預ヶ被成候、此時迄ハ三十挺之内ニ小頭弐人有之、是も鉄炮をかたげし也、装束も替りなし、豊前ニ而ハ外ニ小頭二人有、是ハ鉄炮をかたげす、但五十挺の内ニ弓十張有考ニ、右ニ有之番方九十挺の鉄炮は能相わかり候、御自分九十挺と有之ハ左之御側筒、三拾挺も此内なるか、残六十挺の組合せ分り不申候、又上村か先祖書ニ、上村孫三ハ丹後ニ而御中小姓被召出、豊前ニて御知行弐百石被下、其子甚五右衛門ニ跡目被下、御郡奉行役勤居候処、忠利君之御意ニ不叶御暇被下候、有馬御陳之節武功有之、先知被返下と御日記ニ在と云々、孫三を此所ニ小頭と有ハ添頭の様ニ見江申候、いつれも追而可考、右上村孫三ハ今の武七郎孫三・当喜角右衛門等か祖也

一、御側筒三十挺 此頭加々山少右衛門・牧新五御馬ニ引付て歩行也、田中吉政の勢敵ニ被追立候時、忠興君御側筒の者ハ膝台、御弓の者ハす引して折敷、御側ニ居候ひしハ沢村才八・入江五郎作・津田夕雨・入江平内等也

一、御備二備御人数二千弐百程也一ニ四千ニ不足ト有先備ハ田辺衆荒木左助・中路次郎左衛門、与十郎殿御旗本ハ御馬廻りの衆、御舎弟玄蕃殿但御自身ハ先備へ御出被成也、御人数被立様ハ御自身御乗廻し、御立候時もあり御気ニ不向時ハ加々山少右衛門・牧新五ニ被仰付候也当夏会津陳御用意の為御帰国の時、丹波の宅河原ニ御宿被成、其夜の御咄に、大将ハ相撲の行司人と心得候へはよし、と米田助右衛門・加々山少右衛門・牧新五ニ被仰候か、去ル八月清須より美濃路へ河越の時も岐阜江御働の時も、先へ御乗先より玄蕃殿介右衛門ニ御下知被成候、今度の合戦にも御人数より先江御乗被成、玄蕃殿江御下知被成候也赤坂ニ而福島氏へ人数いか程御つれ候と御尋被成候ヘハ、四千と御答候、其後玄蕃殿へ被仰候ハ、夫程ハ有間敷、子細ハ此方一備と正則一備と見くらへ候ニ対々候、然らば三千程可有と被仰候、福島丹波組の山川惣右衛門後ニ被召置候ニ案のことく千宛三備之由噺申候、福嶋の備頭 一ハ小(尾)関石見、二ハ福島丹波、三ハ長尾隼人 一ニ村上彦右衛門なり加藤氏身体九万石、人数八百計列られ候留主を無心許思ひ、人を多く残されし也赤坂ニ而玄蕃殿物前に押へきか、武者押におすへきかとお尋有し御使の様子牧新五申上候ヘハ、間ニ及ふ事か、物前ニ押ひてハと被仰候、武者押の時ハ昇か先、物押の時ハ鉄炮か先なり、忠興君備の立られ様を本多中務大輔御覧有之、今日の強敵ハ越中殿人数ニ而受とめんと被仰候也田中氏石田勢ニ立られて忠興君の前を退れ候を、乗違て乗込給ひけるハたゝ見苦しきとてハ懸らせ給ハす、治部少輔か後備の嶋津か喰とめんと兼而御用心有けるに、島津か陳迄いろめきたる故ニ懸りたると被仰候也 一ニ島津かせめ来る故ニ掛りたると被仰し也と有 関原落去の時嘉明も一所ニ而黒田長政被申候ハ、大坂より瀬田の橋を焼落さは如何すへきと有れは、忠興君、瀬田より左へ/\と一里計ゆけは大石と云所有、それより宇治・田原へ掛り大和路より攻め上るへし、肥前守は北国より山崎へ掛り、住吉へ働き両方より引はさミて討へし、大坂歯ごたへするならば安芸へ働、毛利家の妻子共を取り、此方の妻子と可被替と被仰候惣而忠興君ハ信長以来の御人持、福島・加藤ハ太閤の御取立ニ而場数少き故にや、岐阜・関原ニ而も万の評議忠興君ニて一決したりと也関原ニて黒田甲州被申候ハ、門跡を頼一揆を起させ可申と有ケレは、越中殿と御談合可被成とて忠興君江右之通被仰候ヘハ、今少御待可被成候、後の為ニと御申上候由、遥後京の吉田ニ被成御座候時、板倉周防守数寄に御出候而御尋ニハ、関ヶ原陳の時、越中殿有無之事を不被仰唯合戦被成度と度々被仰候由、江戸衆不審仕たるとの御物語候ヘハ、三齋君御笑被成、治部少輔ハ筆先かきゝ候て、日数あれは筆の先ニ而調略 仕候、武辺の儀ハ腸の内迄能存候、合戦初り候ハゝ此方勝可申と存候故、合戦を初たしと申候、別の事ニてハ無御座候と被仰候となり                                              (了)

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